道徳的動物日記

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「利他」は「理性」に由来する(読書メモ:『The Kindness of Strangers』)

 

 

 ここではざっくりとしか紹介しないので、各章ごとのちゃんとした要約はShoreBirdさんのほうを参照してください。

 

shorebird.hatenablog.com

 

 この本で扱われるのは、「なぜ現在の私たちは、血も繋がっていなければ済んでいるところも遥か遠くにいえる見知らぬ他人に対して親切心や同情心を抱けるようになり、ときとして彼らを支援するようになったのか」ということ。

 たとえば、ニュースで犯罪や事故の被害者のことを知るとわたしたちは「かわいそうだ」と思うし、外国における戦争や災害の犠牲者の存在を知っても心を痛める。そして、身銭を切って「寄付」というかたちで彼らを支援することもあるだろう。また、貧困層や高齢者、病気になった人、あるいは孤児などの弱者を支援するための福祉制度に、多くの人は多かれ少なかれ賛成している。その福祉を維持するために税金を払ったりなどの様々な負担が自分にかかるとしても、だ。

 これらは、進化や生物学に関する一般的な考え方では説明できない。遠くの見知らぬ人にまで親切心を抱いて、コストを払って彼らを助ける行動をする傾向には、それに見合うベネフィットが存在するとは考えられない。そして、自然淘汰の原理をふまえると、コストが大きくベネフィットの存在しない特性というものは後の世代に受け継がれる前に消失していくはずだからである。

 

 ……とはいえ、ここ数十年においては、人間の「利他心」についての進化論的な説明もあれこれ発達してきた。それらの説明は、たとえば「"利他心"は一見するとコストばかりが存在しておりベネフィットが含まれないように見えるが、社会集団のなかで生活する人間が適応する環境とは"自然"のみならず"他人"が含まれていることに注目すると、実はベネフィットが存在することが見えてくる」というものであったりする。あるいは、淘汰の単位は「個体」ではなく「遺伝子」または「集団」であると仮定することで、個人にとってはコストがかかる行動が自然淘汰で消えずに引き継がれていることも合理的に説明できる、と論じる主張もある。

 というわけで、本書の前半では、「人間の利他心は進化論的に説明がつけられる」という主張の根拠としてよく持ち出される、「共感」「血縁淘汰」「群淘汰」について検討される。しかし、著者は、これらのいずれもが「遠くの見知らぬ他人に(コストを払ってまで)親切にする」ことを説明しない、と論じる。

 人間には他者の苦痛に共感したり同情したりする能力はたしかに備わっているが、その能力はあくまで身近な人間たちに囲まれた狭い集団のなかでうまくやっていくために進化してきたものだ。その力はひどく心許なく範囲も限定されており、自然な状態では、目の前にすらいない見知らぬ他人に対して共感能力がはたらくということはほとんどない。

 血縁淘汰の理論は、わたしたちが遺伝子を共有する親族に協力したり利他的になったりする理由を説明する。血縁淘汰は現代社会にもたしかに存在しており、縁故主義の原因ともなっている。そして、ときに、「血のつながっていない相手でも親族であると誤認したり、"親族"の範囲を文化やイメージの力で拡大することで、血縁淘汰による利他心は見知らぬ人たちに対しても発動させられる」と論じられることもある。……しかし、そううまくはいかない。そんな風に他人を親族と「誤認」してしまうようなお人好しで間抜けな性質を持っている人は他の人たちからフリーライドされて利用されてしまうだろうから、その性質は早々に消え去るということは理論的に予測できる。そして、実際のところ、わたしたちには「自分と血縁が近い人」とそうでない人とを様々な手がかりによって識別する能力がきちんと備わっている。

 群淘汰(またはマルチレベル淘汰)に関しては、そもそも著者は(多くの進化心理学者と同じく)この理論自体に否定的である。「人間の持つ〇〇という性質は群淘汰が存在しないと説明できない」という主張の多くは、実際には血縁淘汰で説明がつく。また、仮に群淘汰理論が正確であるとしても、群淘汰が人間にもたらす性質は「利他心」であるとは限らない。むしろ、集団間での戦争を勝利に導かせる性質、つまり「身内びいき」や「他集団に対する残虐さ」をもたらす可能性のほうが高いのだ。

 しかし、進化心理学のなかにも、「利他心」を説明するうえで有力な理論が残っている。それが「互恵性」に関する理論だ*1。とくに、「AさんがBさんに親切にすることは、"Aさんは親切だ"という"評判"を集団内にもたらして、CさんやDさんなどがAさんによい態度で接するようになるから、Aさんにとってもプラスになる」という「間接互恵性」の理論は、見知らぬ他人に対する利他心を説明する理論として有力である、ということが指摘されている。ふさわしい環境や制度が整っていれば、親切にする相手が集団内ではなく集団外にいても、集団内での評判の向上につながるからだ。

 

 ……とはいえ、「間接互恵性」と「見知らぬ他人に対する利他心」が結びつくとしても、条件は限られている。それよりも、利他心の対象が拡がっていった経緯は、生物学的なものとは別の要員で説明したほうが適切である。ここで持ち出されるのが理性だ。本書の中盤から後半では、古代から現代にかけて人間の理性が発達するとともに利他行為の対象となる範囲が徐々に広がっていった経緯が、文明や思想や制度の発展とあわせて描写されていく。

 そこで書かれていることは、まあ、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』と同じような感じである。農業の登場とそれに伴う国家の誕生により弱者も国家に包摂されて支援を得られるようになったこと、「黄金律」に表されるような平等主義・普遍主義を伴う宗教や哲学の登場、啓蒙思想や科学によって「貧困や飢餓とそれによってもたらされる苦痛には対処することが可能であるし、対処するべきである」と考えられるようになったこと、さらに理性と道徳の結び付きは現代になるにつれて強くなっていき科学的な貧困対策や効果的利他主義は当たり前のものとなっていったこと、などなど。それらを通じて「遠くの国に住んでいる見知らぬ他人だろうがわたしたちと同じ人間であるのだから、彼らを助けるのは当然だ」という発想を、いまやわたしたちの大半が身に付けるようになったのだ。最終章では「これからもさらに理性は発展していくので、それにつれて利他的行動の規模や範囲もどんどん拡大していくだろう(だから理性を敵視せずにガンガン理性を推してしていくべきだ)」といったことが述べられている。

 ここら辺の議論はどうしてもピンカーの焼き直しという感が強いのだが、哲学者たちの議論への注目の仕方が『暴力の人類史』とは少し違っているところは興味深い。この本のなかで特に推されているのがピーター・シンガー、チャールズ・ベイツ、オノラ・オニール、クワメ・アンソニーアッピア、ジョン・ロールズなどであるが、彼らはいずれもコスモポリタニズムや普遍的な博愛主義(利他主義)を理論化した*2。そして、現代において(先進国の)人々が、遠い他国の見知らぬ人が飢えに苦しんだり抑圧に苦しんだりすることを配慮できるようになった背景には、哲学者たちの議論も大きく影響していること……哲学は「象牙の塔」を飛び越えて個々人の価値観や国家の政策にも影響を与えていることが指摘されているのである。「哲学者は"道徳の専門家"として振る舞えるし、実際にそう振る舞って人々の価値観や考え方を善導すべきである」というシンガーの(哲学者たちの間からも嫌われがちな)考え方が肯定的に引かれているのもおもしろいところだ*3

 

 本の前半における「互恵性」や「群淘汰理論(の間違い)」に関する議論はけっこう高度なレベルの議論までもが平易に説明されていて、共感や協力行動に関する現代の進化心理学のスタンダードな知見がうまい具合にまとまっているところが魅力的。一方で、中盤以降は、哲学者の主張が多めに取り入れられている点を除いたらコンパクト版な『暴力の人類史』といった印象。

 とはいえ、マイケル・シャーマーの『道徳の弧』もそんな感じだったから、現代において生物学者・心理学者・自然科学者が「道徳」について人類史レベルで論じるとなったら多かれ少なかれ中身は似たようなものになってしまうのだろう。「現代社会の人類は、理性・科学・啓蒙主義が普及したことや、国家・交易・資本主義・民主主義などの制度が発達したおかげで、昔よりも遥かに道徳的な存在になることができた」という『暴力の人類史』のメインテーゼを大々的に否定することは困難であるだろうし。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

『The Kindness of Strangers』については、まあ面倒なので原著を読み返すことはもうなさそうだけれど、翻訳がでたらまた読んでみたい、くらいには思っている。日本の読者にとっても、とくに前半の生物学に関する議論は有益であるだろう。また、哲学を専攻している人とか哲学に興味のある人なら後半の議論もしっかり読むべきだ。

 

*1:たとえばチスイコウモリの「直接互恵性」に関する理論は、過去には「チスイコウモリの行動は血縁淘汰で説明できて、互恵性など存在しない」という反論があったが、それに対して再反論があって、現在は互恵性による説明のほうが有力になっている、ということも本書では説明されている。

*2:

 

 

 

www.msz.co.jp

*3:

philpapers.org