道徳的動物日記

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「思想の自由市場」の価値とはなんだろうか?

 

 

 前回の記事でも紹介したジェレミー・ウォルドロンの『ヘイト・スピーチという危害』では、表現の自由を擁護する議論の古典であり現代でも頻繁に参照されているジョン・スチュアート・ミルの『自由論』について、批判的に述べられている。

 

…(前略)…『自由論』におけるミルの立場とは、真理の探究は論争の唯一の重要な点ではない、というものだった。彼の言うところでは、論争は公衆の間に確立された真理についての「生き生きとした理解」を維持し、それらの真理が「感情の中に浸透し、行動に対する真の支配を獲得する」ようにするためにも、言い換えれば、それらがたんに教説の空っぽの殻にならないようにするためにも、重要である。この観点からは、コンセンサスの出現は不利益のように見えるかもしれない。「真理をその反対者に対して擁護する…必要によって、真理の知性的で生き生きした理解のためのきわめて重要な助けが与えられる。そのような重要な助けが失われることは、真理が普遍的に認識されることの利益を上回るほどではないとはいえ、その利益の少なからぬ減少である」。さらにミルは、次のような考えをもてあそんで見せる。公衆の教育の利益の名において、論争の精神を生き生きとしたものに保つためだけにでも、私たちはときには悪魔の代理人を、確立された真理の反対者を、人工的に作り出さなければならないかもしれない。あるいは「あたかも問題が学習者に対して、彼の改宗を熱望する反対派の頭目によって押し付けられているかのように、その問題の困難さが彼の意識にとってありありと迫ってくるようにするための、何らかの工夫」を作り出さなければならないかもしれない。

この点まで来ると、私たちのほとんどはミルとは袂を分かつと思う。少なくとも、私たちの議論の文脈[ヘイト・スピーチ規制の議論]ではそうだろう。この文脈では、ミルの考えは、私たちの平等主義的確信を生き生きとさせるためには、人種差別主義や宗教的偏狭さが人工的に涵養される必要があるという含意を持つだろうからである。彼の見解のもっと穏当なヴァージョンでさえ問題を含んでいるように見える。「誰にせよ、受け入れられた意見に反対する人々、あるいは法律や世論が許せばそうするつもりのある人々がいるなら、私たちはそうした人々に感謝しよう。心を開いて彼らに耳を傾けよう。そして誰かが、私たちが…私たちのもつ確信の妥当性にいくらかでも関心をはらうなら、さもなければ私たちがしなければいけないことを私たちに代わってしてくれることを、私たちのためにはるかに大きな苦労を払ってそうしてくれることを、喜ぼう」。これは、私たちが普通、人種差別主義者や偏狭な人々に対して取ろうと思う態度ないし認識ではない。それは少なからず、彼らの見解の表現は、公の討論に対する「生き生きとさせる」効果だけではなく、社会の脆弱な成員の尊厳、安全、安心に対する有害な効果をも有するからである。

 

(ウォルドロン、p.229 - 231)

 

 ウォルドロンの批判が妥当なものであるかどうかは微妙なところだ。

 とりあえず、「見解の表現」が「社会の脆弱な成員の尊厳、安全、安心に対する有害な効果をも有する」、つまり思想や意見を表明すること自体が他人に対する「危害」となり得る(それも暴力やパニックを扇動するような間接的な危害ではなく直接的な危害である)、だから危害原則に基づいて規制すべきだ、という考え自体がかなり現代的なものであることには留意しよう。ミルやその後の思想家の多くは表現行為も直接的な危害になり得るという前提を否定していたし、このポイントについては現在でも議論が起こっているところだ。

 上記の引用部分の後で、ウォルドロンは「誰かが、アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だという意見を伝えるポスターを貼り出したと考えてみよう。(p.231)」という例を出したうえで、以下のように書く。

 

実際には、人種に関する根本的な討論は終わった。勝負は決まった。決着がついた。境界の外にいる反対者、アフリカ系の人々は劣等な形態の動物だと信じている少数の狂信者はいる。しかし半世紀かそれ以上の間、私たちはひとつの社会として、これはもう真剣な論争の問題ではないという前提に基づいて前進してきた。

 

(ウォルドロン、p.232)

 

 ここに関しては悩みどころだ。たしかに、「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」というレベルの意見を真剣に取り扱うことはほとんど不毛に思えるし、弊害のほうが大きいように思える。…単純に時間や労力の無駄であるだけでなく、そんな意見がいまでも議論の対象になっていると知った時点で、その社会に住んでいるアフリカ系の人々はショックを受けたり不安感を抱いたりするだろう。現在ではアメリカでも日本でも大半の人は「アフリカから来た人々も私たちと同じ人間である」という信念を抱いているのであり、将来的にその信念が人々から失われて社会が逆戻りするという可能性も低いだろうから、この信念を「生き生き」とさせるためにわざわざ「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だという可能性もあるかもしれない」という仮説を立てて検証するのもおかしなことであるように思える。

 とはいえ、不安は残る。まず、「狂信者」は存在するし、ときとして彼らは「少数」ですらない。アメリカでは600万人が「地球平面説」を信じているし、日本でも様々なかたちの陰謀を信じている人がいることはコロナ禍の騒動などで改めて露わになった。ちょっと前までは、「地球は球体である」という科学的知識や「ワクチンにマイクロチップを仕込まれて5G通信で操作されるなんてことはない」という常識についての「根本的な討論は終わった」「決着がついた」とわたしたちは…意識するまでもなく…思っていたはずだ。だが、いまや、これらの議題に関する討論を否が応でもせざるを得ない状況になっている。

 また、ヘイト・スピーチに分類されるものもそうではないものも含めて、「差別的」とされる意見の多くは「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」というレベルのものよりも複雑であったり具体的であったり微妙であったりする。

 たとえば、「特定の人種のIQの平均は別の人種のIQの平均よりも生来的に低い/高い」という意見や「ある民族の人々は怠惰な生活習慣や文化を持っているために働かず、福祉に頼って社会保障費を浪費させている」という意見だ。これらの意見は「狂信者」ではなくて一定以上の知性や常識がある人でも抱き得るものである。また、「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」という意見とは違い、単にYESかNOかで答えられるような問題ではない。  

 たとえばIQの問題については「人種間でIQに差はない」ということが事実として正解である可能性もあるが、「たしかに人種間のIQの平均値にはごく僅かな差があるが、個人間の差のほうがずっと大きい(だから真だとしても取るに足らないような問題だ)」とか「そもそもIQの測り方が一方の人種にとって不利に、他方の人種にとって有利に作られているのだ」とかいった、もっと微妙な答えのほうが正解であるかもしれない。福祉の問題についても、「特定の民族の人々が他よりも多く福祉に頼っているという事実はない」ということが明らかになるかもしれないし、そうでなくても「特定の民族の人々が福祉に頼らざるを得ないのは怠惰な生活習慣や文化のせいではなく、それらの民族の人々に対する差別や不正義のせいだ」という答えが正しいのかもしれない。

 問題なのは、これらの微妙な答えを得るためには、問題となっている意見を突っぱねるのではなく取り上げたうえで検証と議論(さらに事実に関する調査など)を行うのが必要になるということだ。さらに答えが微妙であるがために相手側からも再反論が行われるだろうし、いちど決着がついても、世代が交代したり社会の状況が変化したりする度に同じような意見を抱く人があらわれて、その度に議論が必要になるかもしれない。

 もちろん、IQが低いと言われる人種の人々や怠惰だと言われる民族の人々にとっては、これらの議論自体が不愉快で苦痛なものとなるはずだ。また、とくに歴史修正主義の問題でよく言われるように、議論の対象にすること自体が、真偽が明らかになったはずの事実や決着がついたはずの論争に対する人々の理解や信頼を弱めさせる……「ホロコーストはあったに違いないと思っていたけれど、ないと言っている人とあると言っている人がどっちもいるのならどちらが正しいかわからないし、なかった可能性もあるかもしれない」など……という懸念もある。

 しかし、現時点で「正解」とされている見解に対して反論したり疑問を呈したりすることも許されず、議論が行われないとなると、その見解はまさにミルが言うように「教説の空っぽの殻」となる。そして、議論を回避し続けるほど、その見解に対する異論は地下に潜って溜まっていく事になる。これはかなり不穏な事態だ。たとえば、表向きには「人種間は平等である」という考えが常識や原則として共有されていることになっている社会であっても、その裏側では「人種間には優劣がある」と信じている人が増えていくかもしれないし、やがてその意見は家庭や飲み屋やSNSなどの非公式な場で共有・伝播されていき、集団を形成して具体的な影響力や実行力を持つことになるかもしれない。

 ウォルドロンの著書でも「意見が地下に潜る」問題について触れられてはいるが充分な注意を払っていないように思えるし、討論の「決着」を過大評価しているように思える。また、前回にも指摘したように、ウォルドロンはヘイト・スピーチの被害を受ける人の立場から目を凝らしてはいるが、他の立場からの視点やウォルドロンとは異なった考えを抱いている人の視点をかなりぞんざいに無視しているように思える。

「狂信者」でなくとも、価値観や考え方の微妙な違いや触れた情報や経験してきた事柄の差異などによって、ウォルドロンと同じくらい知的で教養のある人であっても「差別的」とされる意見を抱き得る可能性はある。それに対して「あなたの考えは間違っているし、その考えを議論の対象にするとマイノリティが傷付く可能性があるから、議論するまでもなくあなたの考えを退けます」と言っても、相手としては黙っていないだろう。法律的な規制を行えたとしても、反発はむしろ強くなり、よからぬ事態をもたらすかもしれない*1

 

 さて、ミルの議論に関連して、ウォルドロンはロナルド・ドゥオーキンによる「正統性の議論」も取り上げている*2

 

ドゥオーキンは、彼がヘイト・スピーチに対する規制の支持者と共有するいくつかの前提から話を始める。人々を、とりわけマイノリティの脆弱な成員を、暴力のみならず差別からも保護するのが重要であることに、彼は同意する。「私たちは、彼らをたとえば雇用や教育や住宅供給や刑事手続における不公正と不平等から保護しなければならないし、そうした保護を実現するためにいくつもの法律を採択するだろう」。ドゥオーキンは、差別に反対するそのような法律にしっかりコミットしている点において、人種的、エスニック的平等のいかなる支持者にも引けを取らない。けれども、そうした支持者と同じように、ドゥオーキンも認めるのは、そのような法律を採択するときに私たちはしばしば、差別を好み人種差別主義的暴力の機会を歓迎するような少数の人々の反対を乗り越えなければならないだろうということである。そのような反対に直面したとき、私たちは普通、ある法案が有権者過半数によって、あるいは立法府における選挙された代表の過半数によって支持されるならば、反対者がその過程から排斥されていないかぎり、それで十分だと言う。ところが実際には、これは要求されることのすべてではない、とドゥオーキンは言う。

公正なデモクラシーは、市民の一人一人が票だけではなく、声をもつことを必要とする。多数決は、各人が、彼または彼女の態度、意見、懸念、趣味、思い込み、偏見、あるいは理想を表現する公正な機会をもっていたのでないかぎり、公正ではない。そのとき各人は、他者に影響を及ぼすことを期待する(そしてそうした期待はきわめて重要である)が、それだけではない。各人は、彼または彼女が、集合的行為の受動的な犠牲なのではなくて、その決定における責任あるエージェントとしての立場をもつことを確証する。このためにだけでも、各人はそうした公正な機会を持たなければならない。
言い換えれば、自由な表現は、政治的正統性のために私たちが支払う対価である。「多数派は、決定が行われる以前に、抵抗、論駁、反対のために声を上げることを禁じられている誰かに対しては、その意志を強要する権利をいっさいもたない」。私たちが暴力や差別に対して正統性のある法律を望むなら、私たちはそれらに反対する人々に発言させなければならない。しかる後に私たちは、そうした法律の制定と執行を投票によって正統化できるのである。

(ウォルドロン、p.207 - 209)

 

なぜ正統性が重要なのか。私の考えでは、ドゥオーキンはそれが公正さの問題だと信じている。私たちは、人種差別主義者や偏見に凝り固まった人々が、たとえば教育や雇用における差別を禁じる法律も含めて、デモクラティックな多数派が採択した法律に従うことを期待する。私たちがこれを期待するのは、そのような法律が、どちらの側もその意見を表明し他者の支持を求める機会をもつような公正な政治的手続きから発するものだと信じるからである。けれども、ドゥオーキンによるなら、一方の側がその意見をーーたとえば、黒人は下等生物であってアフリカに送り返されるべきだという意見をーー公衆に向けて表現するのを禁止する立法は、その公正さを破壊する。そうした立法は、法律を、当の法律の制定に反対する立論を行う公正な機会を否定された人々に対して執行する権利を、私たちから奪ってしまう。

 

(ウォルドロン、p.211 - 212)

 

 また、ウォルドロンはドゥオーキンによる「上流の法律と下流の法律」の議論も紹介している。

 上流の法律とは「ヘイト・スピーチを規制する法律(意見や表現に関する法律)」のことで、下流の法律とは「暴力や差別に対する法律(行為に関する法律)」のことだ。通常、ヘイト・スピーチ規制を支持する人は、差別や憎悪を理由とする具体的な暴力行為や不利益な取り扱いをする行為に対して取り組むためにこそ、上流においてヘイト・スピーチを規制する必要があると論じる。ヘイト・スピーチによって人々に差別心や憎悪が伝播されたり醸成されたりすることが、差別的な暴力行為や不利益取扱の原因であると考えているからだ。

 ……しかし、ドゥオーキンは、立法手続きにも関わる上流の法律での規制を認めてしまうと、下流の法律にて強制力を持って具体的な行為を取り締まるための正当性が失われてしまう、と論じる。取り締まりの対象となる人々は、その取り締まりの根拠となる下流の法律に関して意見を表明したり議論をしたりする機会を、上流の法律における規制によって奪われているからだ。

 要するに、ここで紹介されているドゥオーキンの議論は「手続き的な正当性」に関するものだ。なお、このドウォーキンの議論は1999年に邦訳が出版された『自由の法―米国憲法の道徳的解釈』という本に収録されているようだが、悲しいことに東京の公立図書館にはほとんど置いておらず、Amazonでも高騰した中古本しかないしで、入手困難になっている。

 

 

 

 それはともかく、ウォルドロンが行なっている反論のひとつが、「ドゥオーキンの議論は社会のコンセンサスが蓄積されたり進化されたりしていくということを想定しておらず、マイノリティに対する攻撃という不当で過大なコストを許容してしまうものである」というものであるようだ。

 つまり、たとえば上述したような「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」という意見や人種間には優劣があるといった意見は、前世紀以前にはもっともらしく思う人が一定数以上いたので「そうではない」というコンセンサスを打ち立てるためにも議論が必要であったかもしれないが、もうそんな段階はとっくに過ぎており、いまさら「アフリカから来た人々は人間以外の霊長類だ」と言っている人の意見に耳を傾ける必要はない。いくら民主主義における立法手続きの正当性が関わっているとしても、そんな意見(≒ヘイト・スピーチ)を野放しにしておくことで侵害されるマイノリティの安心や尊厳のほうが重大だから、規制のメリット(マイノリティに対する危害の予防)とデメリット(立法の正当性に対する侵害)との間で比較衡量を行なっても前者が上回り、ヘイト・スピーチ規制をしておくべきだと判断できる……というのがウォルドロンの反論であるようだ。

 

 さて、別の章では、ウォルドロンは「思想の自由市場」という考え方をかなり否定的に扱っている。

 

自由市場というものは、放っておかれるならば、効率的な帰結を生み出す。経済学者はそのプロセスを理解していると称している。そして類比的に、私たちは、長期的に見れば思想の自由市場も、それ自体の仕組みにゆだねられるならば、真理の受容を生み出し、結果的に相互尊重の態度が出現するのを促進する、と言うかもしれない。問題は、言論の自由の場合、これは類比というよりも迷信だということである。経済学者は、経済市場はよい物事のうちのあるものを生み出すが、他のものは生み出さないことを理解している。経済市場は効率性を生み出すだろうが、分配的正義は生み出さないか、あるいはそれを掘り崩すだろう。思想の市場の場合、真理は効率性に類比するものなのか、それとも分配的正義に類比するものなのか。私は、思想の市場とイメージの支持者の誰一人として、この問いに答えるのを聞いたことがない。その理由は主として、そのような支持者は、思想の市場がどのようにして真理を生み出すと期待されうるかを理解しようとするときに、市場がどのようにして効率性を生み出す(そして分配的正義を掘り崩す)かについての経済学者の理解に類比するような理解を何ももっていないと認めているからである。彼らはロースクールの学生に、「思想の市場」という呪文をまくしたてることを教えるだけである。経済市場においては政府による一定の規制が重要だと一般的に思われている。にもかかわらず、私たちは、「思想の市場」に関しては、そうした規制に類比されるものを何も生み出してこなかった。そうしたものがあれば、ヘイト・スピーチ規制に賛成または反対の議論をするのに役立つことだろう。思想の自由市場の支持者は、こうした事情を学生に思い出させることをしないのである。

 

(ウォルドロン、p.185 - 186)

 

『ヘイト・スピーチという危害』の他の多くの箇所と同じく、ここの文章も独善的であって、ウォルドロンと異なる考え方をしている人が悪人やアホであるかのように紹介されている。

 まず、経済市場が正常・健全に機能するためにはなんらかの規制や介入が必要であったり一定の制度の存在が前提されると論じる経済学者が多くいるのと同様に、「真理の発見や受容のためには思想の自由市場が必要だ」と論じる学者のなかにも規制や制度の必要性を論じる学者は多くいる。たとえば先日にはピーター・シンガーによる「Twitterでの議論はポレミックなものになりがちである」と釘を刺している記事を紹介したし、スティーブン・ピンカーも『人はどこまで合理的か』などで(現代における)知識創出のためにはアカデミアや専門的なメディアなどの制度が必要であると論じていた……が、同時に、シンガーもピンカーも「思想の自由市場」の熱心な擁護者だ。ついでに言うと、わたしだって意見や討論の自由を守るためにこそ(アカデミアや論壇誌などの)制度が重要であると論じている。これはたいして目新しい考え方であったり難しい発想であったりするわけでもないので、同じようなことを論じている人はウォルドロンが『ヘイト・スピーチという危害』を書いた頃にもいたであろう。

 ついでに言うと、本題ではないが「市場は分配的正義を生み出さず、分配的正義を掘り崩す」と断定するのも不当であるだろう。すくなくとも自由市場が存在する社会のほうが、それがまったく存在しない前近代的な社会や封建主義的な社会よりかは(自由な交換を通じて)財が適切に行き来して分配的正義が実現する、という考え方は有り得るし、経済学者や経済哲学者のなかには市場を通じて達成される正義や「経済的正義」という概念について論じてきた人たちがいる*3。「正義」に関する議論はウォルドロンのようなリベラル左派法哲学者の専売特許ではないだ。

 ……とはいえ、「思想の自由市場」はアカデミアなどの制度下における真理や知識の追求に限定される場合もあるが、より広く、民主主義的な社会における思想や意見の自由な表現(と他者の表現の自由な受容)を指すことがあるのもたしかだ*4。この場合には、たしかに、ウォルドロンの懸念も理解できる面がある。あまり制度的ではなく、規制もないような状況で一般人がめいめいに行う議論においては、ヘイト・スピーチの問題の他にもレトリックやデマや人心掌握や扇動などが横行して、真理の受容や相互尊重とは真逆の結果が訪れる、という事態は有り得る……というか、多かれ少なかれ起こっている事態であるからだ。

 たとえば、TwitterはてなやワイドショーやABEMAなどで日夜繰り広げられている「議論」を目にすれば、良識のある人ほど、「そもそも自由な議論ってなにか価値や益を生み出しているの?害しか引き起こしていなくない?」と思ってしまうかもしれない。

 

 しかし、ここまでにこの記事で書いてきたようなポイント、とくにドゥオーキンの「正統性」に関する議論をふまえれば、「思想の自由市場」が存在することには手続き的な価値がある、と論じることができるかもしれない。

 つまり、アカデミアなどの制度下で創出される知識にせよ、民主主義のもとで市民たの議論を経て出来上がるコンセンサスにせよ、あるいは民主主義的な投票と立法の過程を経て採択される法律政策にせよ、それらが(それぞれの領域に応じた)「思想の自由市場」が存在しない状況で生み出されたなら、それらは正当性をもたない。または、「思想の自由市場」になんらかの制限がされていたり制限の種類が不当であったりするほど、知識やコンセンサスや法律や政策の正当性は減少する……という考え方だ。

 

 ここで、ナイジェル・ウォーバートンの『「表現の自由」入門』から、「言論の自由に賛成する道具的議論と道徳的議論」という節を紹介しよう。

 

 

 

 

大まかに言って、言論の自由を擁護するために用いられる議論には二種類ある。道具的議論は、言論の自由の保護は、個人の幸福の増加、社会の繁栄、あるいは経済的利益さえも含む、ある種の目に見える利益をもたらすという主張に依拠する。(…中略…)よい判断を下すためには、市民たちは多様な思想に触れる必要がある。言論の自由によって市民たちは、様々な見解を、その真理性を強く信じる人々から聞くことができる。この最後の点は重要である。つまり、反対するために反対する悪魔の代理人の役割(devil's advocate)を引き受ける人々には、自分が採る立場の真正かつ情熱的な信奉者でいる自分の姿を想像できることは滅多にないだろうから。理想的なのは、反対論者だったらどう言うだろうかと想像する人々ではなく、本当の反対論者から反論を聞くことである。

このような議論は結果に訴える。だから言論の自由が社会や個々人を何らかのかたちで利するか否かという問題への答えは、経験的である。すなわち、われわれがその答えが何かを知っているかそれとも知らないか、という正答が存在し、その答えは原則的に蓋然的結果、あるいは実際の結果を調査することで発見できる。このアプローチの裏面は、おそらくは有益と思われる言論の自由の帰結が実際には生じないことがもし証明できれば、言論の自由の保護を支持するこの正当化は消え失せてしまう、という点である。

言論の自由を擁護する道徳的議論は典型的には、人であるとはどのようなことかに関する概念から出発し、言論を抑制することは誰かの自律ないし尊厳ーー話し手であれ聞き手であれ、あるいはその双方であれーーの侵害であるという理念に至る。私が自分の見解を語ること(あるいは他者の見解を聞くこと)を阻止するのは、私が言うことから善が生じようと生じまいと単純に不正である。なぜならそれは私を自分自身のために思考し決定することのできる個人として尊重することに失敗しているからだ。このような議論は、言論の自由の保護から生ずる何らかの計量可能な帰結ではなく、言論の自由の内在的価値という観念、および言論の自由の[と?]人間の自律との関係という概念に依拠している。

 

(ウォーバートン、p. 18 - 19)

 

 ミルの『自由論』では、ウォーバートンが言うところの道具的議論と道徳的議論の両方がなされている。具体的には、第二章の「思想と言論の自由」ではわたしたちが正しい知識や意見やそれらについての「生き生きとした理解」を得るためには開かれた討論や少数派・異端派が意見を表明する自由が存在しなければならないという道具的議論が展開されていて、第三章の「幸福の要素としての個性」や第四章の「個人にたいする社会の権威の限界」では自由全般についての道徳的議論が展開されている。

『自由論』は魅力的な著作であるし第二章での議論は重要ではあるが、ウォーバートンはミルの議論があまりに理性主義的であることを指摘している。また、ジョナサン・ウルフが『政治哲学入門』で指摘していたように、論証の甘さという問題も残る*5。とくにミルが功利主義者であることもふまえると、「思想と言論の自由」がほんとうに最大大数の最大幸福につながっているかというのは気になるところだし、実際のところ「個人の幸福の増加」という尺度だけで測ると言論の自由を擁護する道具的議論は失敗する可能性が高いとも思う。むしろ、『自由論』の第二章のような議論は、功利主義とは別の原則や教条に基づいて論じられたほうが…ミル本人がどう思うかは別として…うまくいくし理解しやすい議論にもなりそうだ。

 わたしがイメージしているところの言論の自由の「手続き的価値」に基づく議論とは、「道具的価値」に基づく議論と同じように(個人の自律や尊厳ではなく)知識の正しさや物事の理解や「よい判断」などに関わるが、結果に訴える経験的なものではなく、あくまで手続きの正当性に焦点を置いたものだ(そういう点では「道徳的価値」や内在的な価値に基づく議論だと言えるかもしれない…ここらへんの用語は難しくてよくわからないけど)。

 仮にマイノリティもマジョリティも含めた大多数が幸せであるとしても言論の自由を欠いた社会ではわたしたちの持つ知識や理解や立法・政策に関する判断は根拠を欠いた不確かなもので有り続けるし、圧迫された意見とその意見の持ち主たちは地下に潜っていつ噴き出たり暴発したりするかもわからないから、そのような状況は不安で不穏である。だから、言論の自由は守られなければならない……というのが、いまのわたしがイメージしている議論だ。この議論は原理主義的であったり教条主義的であったりするかもしれない。とはいえ、民主主義を擁護する議論なんてだいたいは教条主義的なものだから、とくに問題ないとも思う。

 

(※)前々回や前回に引き続き、今回の記事も、来たる6月13日の「左からのキャンセル・カルチャー論」トークイベントに向けた内容です*6

*1:このくだりを書いている間にわたしの頭に浮かんでいたのが、『賭博破戒録カイジ』のこのコマである(まあこのセリフについては言っているキャラクター自身が後から詭弁だと明言していたけど。

*2:というか、ドゥオーキンの議論を主題とした第七章の途中でミルの議論が取り上げられている、という流れである。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

 

この本では後者の意味で「思想の自由市場」という言葉が用いられていたし、ウォルドロンの文中にもロー・スクールとあるように、法律が関わる文脈で「思想の自由市場」について論じられるときには後者の意味が主なのかもしれない。

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

davitrice.hatenadiary.jp

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