道徳的動物日記

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人生の意味の「挑戦」モデル、共同体と善き生(読書メモ:『平等とは何か』②)

 

 

コメントが思い浮かばないので写経。

 

●人生の意味の挑戦モデル

 

ある人の生の影響力はその人の生が世界の客観的な価値に対してもたらす変化である。誰の生が善き生であるかについての我々の判断に影響力という概念が登場するのは明らかである。我々はアレグザンダー・フレミングモーツァルトマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの生を称賛するが、なぜそうするかを説明する際に、ペニシリンや『フィガロの結婚』やキング牧師が黒人や祖国に行ったことを指し示す。影響力モデルは、これらの例を一般化する。生の倫理的価値ーー批判的な意味での生の成功ーーは、世界へのその生の帰結の価値に依存しており、それによって測定されると説くのである。このモデルは、倫理的価値を別の、一見さほど神秘的でない種類の価値、つまり世界の客観的な状態が持ちうる価値に結びつけることによって、倫理的価値の神秘性を払拭しようと望む。

[…中略…]影響力モデルは、今述べたように、多くのこれまでの倫理的意見や言い回しの中に支持が見られる。しかしながら、他のよくある倫理的な見解や実践に適合したり、それを説明するには困難がある。人々が極めて重要と見なす目標の多くは、帰結などではない。先に述べたが、私自身の批判的利益には、我が子と緊密な関係を持つことや、現代科学をほんの少しであれ把握しておくことが含まれると信じている。他の人々は同じような確信を持っている。つまり、少なくともあることを上手にすることーー例えば、何らかの分野の習い事や技能を習得することや、楽器の演奏を習うことーーが重要だと考えているが、それはそうすることによって世界が更に良くなるだろうからなのではなくーー他の人がもっと上手にできることを、もう一人が平均的なうまさでできることに何の重要性があるのかーー、単に、それを自分がしたからなのである。多くの人々は自分たちに、完全に副詞的な目標を設定している。つまり、彼らは、統一性をもって、自分のやり方で物事を行い、自分の確信に勇気を持って生きることを望むのである。これらの色々な野心は、影響力という語彙では意味が通らない。例えば、どのくらい多くまたは少なく私が天文学を把握していようとも、誰にとっても何ら積極的な変化を持たらさないであろう。つまり私は、いずれにしても宇宙の知識に何ら寄与しないのである。影響力のモデルは、批判的利益についての多くのよくある見解を、愚かで好き勝手なものに見えるようにするのである。

 

(p.344 - 345)

 

…私がここで展開するもう一つのモデルーー挑戦モデルーーは、この制約を退ける。それは、善き生には巧みな遂行(a skillfull performance)という固有の価値があるというアリストテレスの見解を採用する。つまりそれが説くのは、出来事や業績や経験は、たとえそれらが生じる生を超えて何の影響力を持っていなくとも、倫理的価値を持ちうるということである。巧みな遂行が固有の価値を持つという考えは、生の内部の価値の種類としては、完璧にお馴染みのものである。我々は、例えば、飛込台からの複雑で優雅な飛込みを賞賛する。その価値は最後のさざ波がなくなっても残っている。また、そこにそれが存在するからだと述べてエヴェレストに登山した人々を賞賛する。挑戦のモデルによって説かれているのは、生きることがそれ自体で巧みさを要請する遂行であるということ、生きることは、我々が直面するもっと包括的で重要な挑戦であるということ、そして、我々の批判的利益は、我々がその挑戦にうまく対処したことを意味する業績や出来事や経験から成り立っているということである。

 

(p.346)

 

…挑戦モデルはこのモデルを受容する人を、倫理的価値は超越的ではなくむしろ連動的だという見解へ仕向ける。確かに、このモデルを受容した人でも、生きることの善い遂行が何であるかの超越的な見解を採用することは想定可能かもしれない。例えば、その人は、善く生きることは、ある様式でもって生きることしか意味しないと考え、その様式はいかなるものから成り立っているかについての何らかの没時間的見解を抱くかもしれない。しかし、このような没時間的見解はいずれも、致命的に表面的であろう。善く生きることを遂行として判断すると、何はともあれ、自らの文化をはじめとする諸々の環境(circumstances)に適切に応答するやり方で生きるという意味になることは、反論できないように見える。騎士道や宮廷的な徳のある生は、12世紀のボヘミアでは極めて善き生であったかもしれないけれども、現在のブルックリンではそうではない。

 

(p.351)

 

善く生きることには、挑戦モデルによれば、当人が生きていく中で直面する挑戦が現実にどのようなものであるかをその人が感じ取ることが含まれている。それはちょうど、上手に描くことには、その芸術家が継受すべき伝統や反抗すべき伝統が、芸術家の全体的な環境の内のいずれの側面によって定義されるのかを感じ取ることが含まれているのと同じである。我々には、芸術においても倫理においても、その決定のための定まった型板(template)など何らないし、どの哲学モデルもそれを提供することなどできない。というのも、我々の夫々が生きている環境はとてつもなく複雑だからである。これらの環境には、我々の健康、我々の肉体的力、我々の寿命、我々の物質的資源、我々の友人関係・人間関係、家族や人種や国家への我々のコミットメントとそれらの伝統、我々の生きている憲法・法体系、我々の言語や文化によって提供される知的・文学的・哲学的機会や基準、その他諸々の側面が含まれる。自分の送れるかもしれない色々な生のいずれが自分にとって正しいのかという問いを真剣に思案する人は誰でも、意識的にか無意識的にか、これらの中で区別し、あるものを制約として扱い、他のものを媒介変数として扱っている。私は、例えば自分がアメリカ人であるという事実を、ある場合には、自分が最善だと考える生を送る手助けとなる事実として扱うし、別の場合には、それを妨げる事実として扱うかもしれない。また、私は、自分の国籍を、媒介変数として扱い、自分で意識していようといまいと、アメリカ人であることは、ある特定の生が自分にとって正しい生となるようにするものの一部として前提にするかもしれない。

 

(p.354 -355)

 

●挑戦モデルと正義の関係

 

…[挑戦]モデルを受容し、そこで、我々の環境のいくつかの側面は善く生きることの規範的な媒介変数として見なければならないと受容する人は、正義を、これらの規範的媒介変数の中に出てくるものとして見なさないことが困難だと判るであろう。資源が何らかの仕方で媒介変数として出てこなければならないのは確かである。資源は制約条件としてしか数えられないというわけには行かない。なぜならば、理想的に最善の生というのは考えられる限りのあらゆる資源を当人が利用可能な生だと考えることはできないからである。すなわち、善く生きるという挑戦を記述するには必ず、善き生が利用可能のものとして持つべき資源についての何らかの仮定をしなければならないのである。我々はそれゆえ、資源が善き生の媒介変数として倫理に入ってくる仕方の何らかの相応しい説明を見出さなければならない。そして私の考えでは、善き生とは正義が要請する環境に相応しい生なのだと規定することによって正義をこの話の中に引き込む以外に、我々には選択肢はないのである。

 

(p.359)

 

善く生きることが、正しい挑戦に正しい仕方で応答するという意味だとすると、ある人が自分自身の不公正な利得のために他人を騙す場合にはその人の生は善きものではなくなる。その人が不正義な社会に生きている場合にもまた、自分自身の責任ではないにしても、生は悪くなる。なぜならその場合、その人が正義の許す以上のものを持ち裕福であろうとも、またそれ以下しか持たず貧乏であろうとも、正しい挑戦に立ち向かうことができないからである。これによって、挑戦モデルはなぜ、不正義がそれだけで人々にとって悪いのかが説明される。正義により権原があるとされるものを否定している人は、その理由だけで、送る生が悪くなる。例えば、その人より多くの資源を持つ人などいないもっと貧しい時代に今と同じ分量の資源を持っていたとしても、そこで送る生よりも今の生の方が悪いのである。もちろん私が意味しているのは、どのようなものであれ正義にかなった分前を持ってさえいれば、ある人が制御している資源の絶対的価値ないし質は、当人が送れる生に何の変化ももたらさない、ということではない。正義にかなった富の分前をもって豊かな共同体や時代に生きている人の方が、一層興味深く価値ある挑戦に直面し、そしてただそれだけの理由から、一層興奮をかき立てる多様で複雑かつ創造的な生を送ることができるのである。それは、チェスをしている人の方が、五目並べをしている人よりも価値ある可能性を持っているというのとほぼ同じである。生が善きものとなるには様々な仕方があり、価値ある挑戦に直面するということはその中の一つである。しかしながら、正義を倫理の媒介変数として認識することは、どのような経済的環境を与えられようとも、そこで送ることのできる生の善さを限定することになる。環境が変って正義が私にもっと多くの資源を許してくれていたのであれば、私はもっと善き生を送ることができたであろう、と想定されるのである。しかしながら、私の資源の分前がもっと多くて不正義だとしたら、もっと善き生を送ることができたであろうということにはならない。

 

(p.360)

 

●共同体と正義と善き生

 

はじめに、[共同体との]統合という現象がいかなるものであると想定されるかのもっと詳細な説明が必要である。自分が自らの共同体と統合されていると認識している公民的共和主義者は、他人の利益が至上の重要性をもつとする利他主義的市民(the altrusistic citizen)と同じではない。なぜなら、今考察している統合からの論法は、善き市民が周囲の市民の善い状態に配慮するであろうとは想定しない。それが論じるのは、市民は自分自身の善い状態について配慮しなければならないということ、そしてまさにその配慮のために、自分が構成員となっている共同体の道徳的生に関心を抱かなければならないのだ、ということである。ゆえに統合されている市民は利他主義的市民とは異なっている。どのように異なり、なぜ異なるのかを見るためには、更に別のある区別が必要である。

[…中略…]

私が考察している論法によれば、統合はそれ[パターナリズム利他主義]とは違った現象である。なぜなら、統合は、個人の善い状態に影響する行為について、行為の適切な単位が、その個人ではなく、その者が所属している何らかの共同体なのだと想定しているからである。その者は倫理的に、行為のその単位に所属している。つまり、その者は、その者自身が個人と認識され行ったいずれのものとも完全に独立でありうる行為や業績や実践の成功または失敗に参与しているのである。お馴染みのいくつかの例がある。例えば、第二次大戦後かなり経って生まれたドイツ人でも、ナチスの残虐行為を恥じ、その賠償責任があると感じている人は大勢いる。ジョン・ロールズは、これとわずかに異なる文脈で、我々の目的にとって更に一層啓発的な例を提供している。健康なオーケストラはそれ自体、行為の単位である。オーケストラを構成している色々な演奏者は、自分たちの個々の貢献の質ないし素晴らしさによってではなく、一つの全体としてのオーケストラの演奏によって、個人の勝利が気分を爽快にするような仕方で、爽快な気分になる。成功したり失敗したりするのは一つの全体としてのオーケストラであって、しかも、この共同体の成功や失敗は、各々の構成員の成功・失敗なのである。

 

(p.307 - 308)

 

統合されたリベラル派の人々は、自分の私的生と公的生とを以上のようには[コミュニタリアンが批判するようには]分離しないであろう。統合されたリベラル派の人々は、自分が不正義な共同体に生きる場合には、その共同体をいかに正義適合的なものにすべく自ら努力していたとしても、自分自身の生を、傷ついたものーー送っていたかもしれない生よりも善くない生ーーとして数えることであろう。私には、政治道徳と批判的な自己利益とのこのような融合は、公民的共和主義の真の神髄であり、ここの市民が自分の利益と人格とを政治共同体へと収束させる重要なやり方であるように見える。この融合は、まぎれもなくリベラルな理想、つまりリベラルな社会の内部においてのみ実りある理想を言明している。もちろん、統合された市民の社会が必然的に、統合されていない共同体以上に正義の社会を達成するであろうと請け合うわけには行かない。不正義は、あまりに多くの他のーーエネルギーや産業の欠乏・衰退、意思の弱さ、哲学的誤謬といったーー因子の所産だからである。

この意味での統合を受容する人々の共同体は、結合を否定する市民の共同体に対し、一つの重要な利点を常に有しているであろう。統合された市民は次のことを受容している。つまり、自分自身の生の価値は、自分の共同体が首尾よく誰をも平等な配慮をもって取り扱うことに依拠しているのだということである。この感覚が公的で行き瓦っていると、つまり、誰もがこの態度は、他の誰によっても共有されていると理解していると想定しよう。その場合、正義とはいかなるものであるかについて、共同体の構成員にたとえ大きな不一致があるとしても、その共同体は、安定性と正当性の重要な源泉を持つことになろう。構成員は、政治とはある特に強い意味において共同事業(joint venture)なのだという理解を共有しているであろう。どのような確信と経済的レヴェルをもっているにしろ誰もが、自分自身の正義だけでなく他のどの人にとっての正義についても、個人的な関わり合いーー自身の批判的利益について生き生きとした感覚をもつ人にとっての強い個人的関わり合いーーを持っているのだと理解するのである。この理解は、特定の政策や原理をめぐるこの上なく白熱した論議においてすら通底する、一つの強力な絆を提供するものである。正義を統合されていない形で、自分自身の利害関心を他人のために曲げることを必然的に要請するものとして考える人々は、自らに対し明白な犠牲を要請する計画に抵抗する人のことを、抵抗するのはこれらの計画が基礎を置いているその正義観をその人が退けているからであって、意図的にしろ無意識的にしろ自己利益からのバイアスがかかって行為しているのだと邪推する傾向がある。その場合、政治的論議は、公民的共和主義を破壊する陰湿な取引へと退化するであろう。

 

(p.318 - 319)