道徳的動物日記

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「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』)

 

 

 いま執筆を進めている「反ポリコレ本」の参考になるかと思って『ただしさに殺されないために〜声なき者への社会論』を読んでいるけれど、案の定、まったく面白くない。

 Amazonレビューにもある通り、「身もふたもない現実」や「不都合な真実」、世の中に存在する残酷さや不条理さを指摘するだけであり、その現実や不条理さについて社会はどう向き合うべきか、個人はどうやって対処するべきか、といった前向きな提言や解決策はほぼない*1

 

 さらに言うと、この本のなかで提示されている「現実」や「真実」は実に恣意的に選択されている。たとえば、昨今では男性に比べて女性だけが解放されたり社会的に尊重されていたりすることを何度も取り上げて、そのことが(弱者である)男性に対してもたらす苦痛や苦悩や理不尽さといったものが繰り返し強調されるが、女性たちがこれまでに被り続けてきた(そして現代でも被っているかもしれない)苦悩や理不尽さについても読者の考えを巡らせるということは一切されない。

 あるいは、現代の社会で当然のものとされている自由や平等が「能力主義」や「役に立たない存在」への差別に結びついていることをことさらに強調して、能力がないと見なされた人が直面している(とされる)状況をあれこれと悲観的に描いているが、現代的な自由や平等や「能力主義」がなかった場合に社会はどうなるか、その場合にはどんな人がどのような差別を受けていただろうか、といった点について検討されることもない。

 

 また、この本には主語というものがほとんどなく、主観と客観が切り分けられていない。「身もふたもない現実」とか「世間のふつうの人々の残酷さ」といったものがまるで確定された事項であるかのように次々と提示されていく。だが、「他の面から考えたら現実について違った解釈をすることはできないか?」とか「世間の人々の価値観や行動はほんとうにそのようなものであるのか?」とかいったポイントについて検討されるターンがまったくないのだ。

 たとえば、わたしが社会問題などについて文章を書くときには、なんらかのデータや記事、または本やアカデミックな理論などの参照先を明示しながら「世の中ではこういう問題が起こっているようです」「この問題は具体的にはこうなっているようです」と事実に関する知見をまずは提示する。その後に、「わたしは、この問題について、これこれこういう理由に基づいて、このような意見を持っています」というわたしの意見を述べるようにしている。

 文章を書く以上はわたしも自分の意見を読者に納得してもらいたいとは思うが、わたしの意見の論拠や理路について読者にきちんと検討してもらい、考えたうえで判断してもらいたいとも思うからだ。そして、これはアカデミック・ライティングに限らず、「事実」や「意見」について文章を書く人ならだれでも守るべき作法であると思う。自分が提示している事実や意見の根拠を読者に対してオープンにすることは、「この著者はわたしの意見や考えを恣意的に誘導しようとしてはいないんだな」という信頼を読者に抱いてもらうためには不可欠であるからだ。

 

 また、『ただしさに殺されないために』のなかでは、社会の状況や人々の行動を解釈するうえで何らかの理論を用いられることがほとんどないし、価値判断の基準もまったく明らかにされていない。だから、著者が提示している現実についての解釈や価値判断に疑問を抱いたとしても、その論拠を問うて反論することがほとんどできない。

 論理の代わりに用いられているのがレトリックであったり、鉤括弧や改行や傍点などの諸々の文章テクニックであったり、ペシミスティックでポエミーな文体であったりする。御田寺は日頃からTwitterで女性やリベラルの「お気持ち」を非難しているが、実際のところ、彼の文章は論理による裏付けがほとんどなく、客観的っぽい書き振りとは裏腹にかなり感情に頼ったものであるのだ。

 そして、論理ではなく感情に頼った著作であるために、『ただしさに殺されないために』は拡がりというものをまったく持たない。この本に多少なりとも賛同できたり感銘を受けたりできるのは、あらかじめ想定されているごく狭い範囲の読者であるだろう。つまり、自分が女性に相手にされていなかったり女性のせいで被害を受けていたりするという意識を抱いている男性や、自分のことを能力社会によって差別されている弱者だと思っている人などだけが、読者と想定されているのだ。

「解放された女性」や「リベラル」などは揶揄や非難の対象として取り出される藁人形としてしか扱われておらず、女性やリベラルがこの本を読んで少しでも納得したり意見を改めたりするということは最初から目指されていない。『ただしさに殺されないために』で行われているのは、あらかじめ想定されている読者が既に抱いている信念や感情を慰撫することでしかないのだ。具体的にいうと、レトリックや文章テクニックを多用しながら恣意的に切り取られた「身もふたもない現実」や極端なかたちで表現された「女性やリベラルの欺瞞」を浴びせかけて、「非モテ」や「弱者男性」が事前に抱いている被害者意識をさらに補強すること(だけ)が、この本のもたらす効果である。

 読者層が狭く限定されており、それらの読者に抱かせようとしている意見や感情もほぼ固定されているという点を見ると、『ただしさに殺されないために』は議論ではなくアジテーションを行う本であると言っていいだろう。そして、これこそが、御田寺の言論が「男女の分断を煽る」「女性に対するヘイトを増幅させる」と以前から非難されている理由でもある。

 

 先日の記事では『ローマ皇帝のメンタルトレーニング』を紹介したが、この記事でも改めて引用しよう*2

ソフィストたちとは対照的に、エピクテトスは、学術的な学びと知恵を混同してはいけないこと、つまらない論争をしないこと、抽象的すぎたり学術的すぎたりするテーマに時間を浪費しないことを生徒たちに警告し続けた。彼は、ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

ストア派が定めた話し方における5つの「美徳」を、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』が紹介しています。

 

1 正しい文法、優れた語彙

2 話している内容を容易に理解できる表現の明瞭さ

3 必要以上に言葉を使わない簡潔さ

4 話す主題と聞き手に適したスタイル

5 話す技術の卓越性、下品にならないようにすること

 

簡潔さという顕著な例外があるものの、伝統的な修辞学とストア派のそれは価値基準のほとんどを共有しています。ところが両者は完全に逆のものだと見なされていました。感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。また、この考え方が怒りなどの不健全な感情を癒す古代ストア派心理療法の土台を成しています。

 

(p.79 - 81)

 

 わたしは、御田寺は上記で指摘されているところのソフィストの典型であると思う。彼の言論は、世の中についての新たな知見や社会の問題を解決するための視点、あるいは人生を良くする方法といった生産的で意味のある知恵をもたらすものではない。「おれは女性や能力主義のせいで苦しんでいるんだ」という被害者意識を持った(ごく狭い範囲の)読者に「そうだそうだやっぱりリベラルやフェミニストは欺瞞に溢れているし、現代の社会はおれのような人間を虐げているんだ」という感覚的な興奮を味わせて溜飲を下げるものでしかないのだ。

 そして、論理の代わりにレトリックを多用するがゆえに、御田寺の文章には読者たちの被害者意識やそれに伴う無力感や憎悪といった不健全な感情を癒す効果はなく、むしろそれらの不健全な感情を悪化させて、当の読者たちの人生の質をも下げさせている。わかりやすく言うと、彼は自分の信者を食い物にしているのだ。

 

 ……もちろん、ソフィストは御田寺のほかにも数多く存在するし、読者の被害者意識を煽る文章を書いてそれを商売にして生きている人はフェミニストなどのなかにもいるだろう。アカデミシャンのなかにすら、読者に知識や知見を与えたり読者を啓蒙したりするのではなく、レトリックを駆使して読者をアジテーションすることを目的とした本や文章を書く人はごまんといる*3

 御田寺の文体もとりわけ特異なものではなく、「批評家」とか「ジャーナリスト」とかいった肩書きを持つ人たちの文章のなかではよく見受けられるタイプの文章ではある。わたしにはさっぱり理解できないけれど、物語文ではなく評論分や批評文にすらレトリックや情緒的な文体を求める読者層というのがあるようなのだ。

 いずれにせよ、右の人が書いたものだろうが左の人が書いたものだろうが、男の人が書いたものだろうが女の人が書いたものだろうが、そういう文章はぜんぶ不毛で無駄であるし、だいたいにおいて有害であるとわたしは思う。

 

 そして、(弱者男性の)被害者意識を煽る言論活動をしているという点すら、御田寺に特異なものではない。たとえば、はてな界隈においては熊代亨(シロクマ先生)は御田寺に比べると遥かにまともな論客として遇されてきたようだが、昔はいざ知らず最近の彼の記事を読んでいると、多少なりとも文章が丁寧であったり上品であったりするというだけで言論の内容は御田寺と同程度なのではないか(というか、御田寺を模倣しているのに過ぎないのではないか)と思わされることが多い。

 たとえば、以下の熊代の記事では、現代社会における「性」や「恋愛」を極端かつ根拠に乏しいかたちで描写しながら、人間の「動物性」をことさらに強調するレトリックが用いられている。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

blog.tinect.jp

 

 わたしにはこれらの記事を読んで得られるものはなにもなかった。たとえば人間の「動物性」について知りたいときにはこのような粗雑な議論ではなく専門家が書いた進化心理学の本を参照するし、現代社会における「性」や「恋愛」についてもずっと深く考察した議論は他のところで見つけられるだろうからだ。

 結局のところ、御田寺の言論と同じように、上記に挙げたような熊代の言論も、「所詮は動物である人間が行う恋愛や性なんて残酷で価値のないものであるし、おれはオスとしての能力に乏しいからメスどもに選ばれないんだ」といった類の、特定の読者層が抱いている劣等感や悲観主義や憎悪といった負の感情を煽るくらいの意味しかないように思える。先述したように、それらの負の感情を煽ることは、当の読者の精神衛生を悪化させて彼の人生を余計に惨めなものとするだろう。

 

 最後に、2019年の年末に御田寺の記事を取り上げて書いた、わたしのブログ記事を改めて紹介しておく。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

…同じような現象に着目している論であっても、「負の性欲」論にはそのように生産的でポジティブな面はない。
むしろ、「負の性欲」論は「女性が俺を避けたり、俺を恋愛対象と見なさないのは、"拒否権を行使する"ことがメスの性欲だからだ」という風に、本来なら自分側の行動でなんとかなるかもしれないところを女性の側ばっかりに帰責して、自分の努力や向上を放棄する言い訳を男性に与えてしまい、さらには女性に対する憎悪をつのらせることになる。
このような概念が男女の分断を悪化させて、両性ともに対して害を与えて誰も幸せにしないことは、火を見るよりも明らかだ。

 

ネットではなく現実の場においてまともな男女関係や人間関係を経験してきた人であれば「負の性欲」論を真に受ける人はほとんどいないかもしれない。
しかし、危惧すべきは若い世代の男性への悪影響だろう。現実の場で異性と知り合ってコミュニケーションする経験もないうちから「負の性欲」論やそれと同類の極端で非生産的な男女論を摂取していたら、異性に対するステレオタイプが強くなりすぎて、本来なら成立していたはずのコミュニケーションすらできなくなるおそれがある。

 

 こうしてみると、御田寺の言論についてわたしがとくに問題だと思っているところは、以前から変わりないようだ。つまり、彼の言論は、批判対象である女性や「リベラル」にとって危険であったり不快であったりする以上に、彼の言論を喜んで消費している読者にとって有害であるのだ。

 

 とはいえ、わたしも言論の自由を重視する立場なので、明らかに攻撃や差別を意図したものでない限り、どんな言論であっても規制するべきではないと思う。

 そして、御田寺の言論には直接的な差別がほとんど含まれてないことも、指摘しておいたほうがよいだろう(被害者意識や憎悪を通じて差別感情も間接的に煽るものであることも、明白であるとは思うが)。

 

 しかし、ここで改めて声を大にして主張するが、御田寺や熊代が行なっているような、そしてはてなの匿名ダイアリーで展開されているような男女論を真に受けたり取り合ったりすることは、とくにあなたが若い人であればあるほど、本気で止めたほうがいい

 軽いジョークのつもりであったり、SNSやブログを通じたコミュニケーションの一環であるとしても、物事について極端な表現をしたりレトリックを用いたりすることは、気が付かないうちに自分の思考を規定したり認知を歪めたりすることになる。

 以下のツイートはおそらくわたしよりも若い男性によるものであり、明らかに御田寺や「はてな論壇」の言論の影響を受けた人によるものである。本人は冗談のつもりとして投稿したものであるかもしれないが、わたしはこのツイートを目にしてかなり不安になったのだ。

 

 

*1:

www.amazon.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

books.cccmh.co.jp

*3:このブログでもその種の本をたびたび取り上げて批判してきた。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp