道徳的動物日記

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ネット論客がインテリから相手にされない理由

davitrice.hatenadiary.jp

 

(6月23日 21:45追記)

最初のタイトルには個人名を入れていましたが、記事のタイトルを「(個人名)が〜から相手にされない理由」にすることはあまりに個人攻撃的に過ぎるという指摘を受けて、同意しましたので、タイトルを修正しました。

(追記終わり)

 

 先日にわたしが投稿した、御田寺圭の著書『ただしさに殺されないために~声なき者への社会論』への書評記事にはブクマやSNSなどで様々な反応があった。全体的には賛否両論という感じ。

 

 みんなの反応を見て、反省すべきと思ったところはふたつ。

 まずは、書評のタイトルと実際に論じている内容にズレがあり、ややミスリーディングになってしまったことだ。書評のタイトルを見ると「不都合な現実に対する解決策が書かれていないこと」が問題であると論じているように思われしまうかもしれないが、実際には、「提示される"不都合な現実"の選択や、その解釈が恣意的であること」「問題の扱い方が論理的でなく、根拠にも乏しいこと」「レトリックを多用して読者の被害者意識を煽ること」などに関する批判が主である。

 しかし、書評のタイトルのほうに注目されて、「解決策が書かれている/いない」という議論にこだわる反応を招いてしまったのはわたしのミスと言えるだろう。

 これに関しては、山川賢一さんがいい感じにまとめてくれている。

 

 

 もうひとつは、書評でありながら具体的な引用がないところ。これに関しては、「具体的に引用して論じるのがめんどくさい」という単純な事情や、「引用しなくてもそれなりの批評が書けてしまったからこれで公開しちゃおう」と思ったことが理由である。しかしまあ、以下で江草さんがしているような指摘ももっともではあるだろう。

 

「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』) - 道徳的動物日記

ここまで御田寺氏や熊代氏の論説を辛辣に批判しておきながら、具体的な引用のひとつもないのはライス氏が自負する論理的な批評たり得ないのでは。ソフィスト呼ばわりも人身攻撃的で、それこそ感情的な批判でしょう。

2022/06/17 23:37

b.hatena.ne.jp

 

 なお、江草さんも本日に『ただしさに殺されないために』の書評を公開されている(その評価は是々非々という感じだ)。

 

note.com

 

 それで、先週に書評を公開してからも、「特定の章をいくつか取り上げて、具体的に引用しながら批判するバージョンの批評も書いたほうがいいかな」と思っていたのだけれど……わたしの記事に対するTwitterにおける御田寺の反応を見ているうちに、すっかりその気が失せてしまった。

 御田寺の反応は、以下のTogetterにまとめている。

 

togetter.com

 

 とりあえず、わたしが御田寺に「露骨に嫉妬」しているなどの人格批判を含むメッセージ(マシュマロ)を好意的にシェアしたり、彼が「俺より面白い文章を書けない奴が悪い」などと述べている点にイラッとしたことは述べておこう*1。とはいえ、わたしも書評記事のなかで御田寺を「ソフィスト」などと非難しているので、これについてはお互い様ではある。

 また、わたしは、「著作家には自分の本に対する批評に目を通して応答すべき義務がある」とも思っていない。批評に対する応答には労力や時間がかかるものだし、「ここはわたしの言いたかったことを誤読しているな」とか「ここの批判は的外れだな」と思ったときにそれを(論拠や理由を挙げながら)指摘するのは得るものがなく時間の無駄であることも多いからだ。さらに、「この批判はもっともだな」と思ったとしても、それをわざわざ表明すべきであるとも思わない。「今度から気をつけよう」とか「次に文章を書くときにこの指摘を活かそう」と、こっそり判断するのもアリだろう。

 したがって、わたしの著作に対して出された熊代亨や平尾昌宏による書評についても、わたしは目を通したが特にコメントはしてない(Twitterでシェアしたりブクマを付けたりはした)*2。それくらいの自由は、著作家にもあると思う。

 

 だが、自分の読者層によるファンレター的なメッセージを公開しながら、自著に対する書評でなされた指摘に対する否定を何度も繰り返すことには、単に批評を否定したり無視したりすることとは違う意味合いが伴う。

 俗っぽい表現をすれば、上述のTogetterでまとめたツイートのなかで御田寺がやっていることは「効いてないアピール」だ。そのアピールの対象は彼のフォロワーであり、もっと限定すれば彼のnote(と著作)を購入している彼の「信者」たちである。

 わたしは先日の書評のなかでも御田寺のことを「自分の信者を食いものにしている」と表現したが、彼の反応は、その著作活動が「信者ビジネス」であることを裏付けているだろう。教祖をやっている人間は、自分の主張だけが絶対に正しく他の主張は間違っていると、信者に思い込ませ続けなければいけない。そのために批判を放置することはできず反応しなくてはならないし、批判を受け入れたり応答したりするのではなく「こんな批判は間違っているからお前たちは耳を貸すな」と信者たちに喧伝するしかできない。そうしなければ、「もしかしたらこの人の言っていることには間違いがあるかもしれないから他の人の言っていることも聞いてみようかな」と考えた読者が、彼から離れていくかもしれないからだ。

 実のところ、御田寺の反応は、彼のこれまでの振る舞いや同様の「ネット論客」たちの行動パターンから予測できたことでもある。論客や教祖はネットバトルで勝ったように支持者に見せ続けなければ存在意義がなくなってしまう*3。学者や通常の著作家とは異なり、論客や教祖にとっては、批判にも目を通しながらより適切な議論をしようと精進したり、自分が論じたいと思っている物事について深く考えたり見識を深めようとしたりすることは、二の次となるのだ。

 そして、このことは、御田寺の著作がつまらないこと、読んでも得るものがないことの理由にもなっている。ネット論客や教祖の記事や著作では「読者層が求める通りのものを提供すること」と「負けそうな議論をしないこと」の2点が必須となる。そのために、物事についての適切な知識や理解や考え方を読者に提供することは後回しになってしまう。また、自分の議論にとって不利な証拠や考え方は意図的に無視すること、反論されづらくするために論理を操作したりレトリックを用いたりすることが、必然的に選択されるのだ。

 ……もちろん、学者や通常の著作家の著作においても、意志の弱さや不誠実さから同様の問題が生じることはあるだろう。しかし、ネット論客や教祖の議論においては、不誠実であり続けることが構造的に宿命づけられているのだ。

 そして、これこそが、御田寺圭(とその他のネット論客たち)が学者をはじめとするインテリから相手にされない理由でもある。著作や議論の目的が真実や正確さや適切さではなく「読者の求めるものを提供すること」と「勝ったように見せること」であるために、レトリックに惑わされず内容を吟味できる目端が効いた読者にとってほど、その著作や議論から得られるものはない*4。そして、その著作や議論を批判しても、自分の論客や教祖としての地位を維持するために「負けていないように見せること」を最優先して、「効いてないアピール」を繰り返す。つまり、著作を読むことと批判することの二段階のどちらもが不毛や徒労であるのだ。インテリの人たちだってヒマではない。不毛な存在と関わる時間があるなら、きちんと真実や正確さや適切さを志向した著作や議論を読むこと(そしてそれを批判すること)に時間を割きたいものだろう*5

 ……というわけで、わたしも、今後は御田寺やその他のネット論客のことはなるべく言及しないようにする。もしかしたら他の人たちからはわたしも「ネット論客」の一員と思われているかもしれないが、わたしがやりたいことはネットバトルじゃないのだ。

 

 ここで論じたことは、先日に公開した「「思想と討論の自由」が守られなければならない理由」の下記の内容とも関わっている。

 

s-scrap.com

たとえば、TwitterをはじめとしたSNSで行われる「議論」が有害なものとなりやすいことは、いまや誰の目にも明らかである。プラットフォームの構造のために、Twitterでの議論や極端なものになりやすく、特定の個人の人格を非難する攻撃も引き起こしやすい。妥協点を探ったり相手の主張を理解したりしようとする穏当で前向きな態度よりも、勢いのいい言葉で相手の主張を切り捨てたり妥協することなく自分たちの側の要望を押し通したりする態度のほうが、リツイートや「いいね」やフォロワー数の増加などの「報酬」を得られやすいからだ。

結果として、Twitterでの議論の大半は、議論の相手ではなく「自分たち」のほうを見ながら行われることになる。また、公益のことを考えながら長期的に利害の妥協や調整を測ることよりも、相手を「論破」することで短期的に「自分たち」が気持ち良くなることのほうを優先してしまう。これらの現象には「集団的分極化」や「フィルター・バブル」などの名前も与えられてきた。「ハッシュタグ・アクティビズムが世の中を変える」などと騒がれることもあるが、いまや、見識ある人にとって「Twitterやその他のSNSでの議論が公益に資する」という主張はとても信じられないものになっているだろう。

 

 また、表現の自由というトピックについて触れたついでに、以下のことは書き記しておこう。

 これは伝聞でありわたしも正確には把握していないのだが、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターが発表されたかその原因となる事件が発覚したかの頃に、彼が講談社現代ビジネスに寄稿していることが取り沙汰されて、一部の学者たちが「御田寺の記事を掲載するのを中止しろ」と要求したとか「御田寺の記事を掲載する限り講談社には関わらない」という反応をした、という話を聞いたことがある*6

 このことが真実なら、その学者たちの要求や反応は最悪だ。なんと言っても表現の自由という基本的権利の侵害である。

 また、そもそも、御田寺が講談社現代ビジネスに掲載している記事や著作などで展開している議論は、すくなくとも直接的には差別的なものや危険なものではない。インテリ・リベラルや女性に対する敵愾心を煽ったり、先日の書評で指摘した通り被害者意識を扇動することで女性などに対する憎悪にもつながるという間接的な効果は存在するように思えるが、それらはあくまで間接的なものだ。上記のTogetterにもある通り御田寺は小山晃弘などより露骨に差別的な発言を投稿している人と普段から仲良く「つるんでいる」という問題もあるが、それでも、自分では直接的に差別的な言論はしない慎重さを御田寺が持ち合わせていることは評価するべきである。

 そして、出版社に対して圧力をかけられることは著作家にとって致命的であり、精神的なダメージや恐怖が大きいことは失念すべきではない。これについては、わたしも記事を公開するたびに「〇〇社はこんなやつの記事を載せるのか」「こんな差別的な記事を載せる〇〇社の責任はどうなんだ」とTwitterで反応されることが多いので、よくわかる*7自分の意見はブログに投稿できるし、noteなどを使えば出版社を通さなくとも文章を収益化することができるとはいえ、出版社のwebサイトや著作を通じて自分の主張を広く伝えることができるのは著作家にとっては特別な喜びがあるものだ。

 さらに、学者は、通常の著作家と比べて、自分の意見を発表するための機会と環境にはるかに恵まれていることにも留意すべきだ。学者は学会や紀要や論文を通して意見を発表できるし、権威も備わっているために出版社のほうから専門書や入門書や教科書の執筆を依頼されるチャンスもある。図書館などの大学のリソースや研究休暇などを通じて自分の意見をじっくり深める環境も整えられているし、学会などに参加すれば専門的な観点や豊富な知識に基づいた建設的な批判を得ることができる*8。それらのいずれもが、通常の著作家にはほとんど得ることができないものだ。会社員をしたりフリーターをしたりしながら言論活動をするというのは、ほんとうに大変なのである。

 したがって、「出版社を通じて記事を発表したり著作を出版したりする」という著作家表現の自由を学者が奪おうとすることは、よりいっそう深刻な不公正や不正義であるのだ。

 

 最後に、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターに関連しても、言いたいことがある。

 過去の記事で、わたしはオープンレターの内容やレトリック、それが呉座勇一という個人に対する不当な攻撃と処分につながったことを批判した。その一方で、以下のようにも書いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terrakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。

「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。

しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。

もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。

 

 そして、先日の書評がきっかけで、わたしも、御田寺や小山による、決まり文句の「それ以上いけない」とか匿名のメッセージ(マシュマロ)なども介した「からかい」や「遊び」の対象とされてしまうことになった。

 過去に「オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある」と書いたのは、本心からである。わたしは女性ではないが、感情的であったり脇の甘かったりするところが多く、そのために、リアルでもネットでも多かれ少なかれ「からかい」の対象になってきた*9。自分が被害を受けた経験がある(そして現に被害を受けている)ので、「からかい」のことは本気で嫌いなのだ。だからなんだというわけでもないけれど、過去にオープンレターを批判しながらも御田寺や小山のことを批判しておいたのは、今回の状況をふまえると、尚更よいことだったと思う。

*1:ただし、わたしは御田寺より面白い文章が書ける人間ではあると自負しているが、彼の本のほうが売れているっぽいことに嫉妬を感じていなくもないことは認めよう。なので、みなさん『21世紀の道徳』も買ってください。

 

 

*2:

www.genron-alpha.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

*3:この点については、過去に、雑感をメモしている。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:たとえば、わたしはマイケル・サンデルの『実力も運のうち』を批判しているが、しかし『実力も運のうち』を読むことは面白かったし、それ批判することで自分の考えを深められることができた。サンデルは御田寺とは違い、物事について適切に考えることを志向する誠実さを(一定以上は)持ち合わせているからだ。

gendai.ismedia.jp

*5:これは印象論になるが、数年前までは大学教授とネット論客がTwitterで「議論」をする光景は日本語圏でも身近であったが、最近はとんと見なくなった。たとえば小宮友根さんは以前はよく論客と「議論」をしていたが、最近は見かけない。これは、必ずしも彼の主張が「論破」されたからではなく、その不毛さや徒労にうんざりしたからであるだろう。

*6:

sites.google.com

*7:だから、ここで御田寺の言論の自由を擁護していることには、「次は自分の番だ」ということになってしまうのを防ぐという利己的な理由もある。

*8:『21世紀の道徳』の出版後、二度ほど、倫理学の専門家が集まる学会や研究で著作の内容について意見やコメントをもらう機会があった。これらのコメントはほんとうに参考になって有り難いものであったし、逆説的に、在野で勉強しているだけの自分の限界も感じたものである。

*9:だから、経験の程度はもちろん違うだろうけれど、font-daの下記の記事にも共感できるのだ。

font-da.hatenablog.jp