道徳的動物日記

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私が"議論"が嫌いな理由

 

 ひとくちに議論と言っても色々とあるだろうが、私には世の中で行われている議論というものはおおむね2種類に分かれているように思える。ひとつは、議論に参加している双方がお互いのことを対等に見なしており、互いがどう思っているかを明らかにしたり相互理解を目指したりするなどの建設的な目標を持って行う議論である。もう一つは、相手を論破したり相手の主張の欠点を示すことで自分の賢さや能力を第三者たちに誇示することを目的とした議論である。

 前者の議論を行う人はいま自分が議論している相手に対して目が向いている一方で、後者の議論を行う人は自分たちの議論を見聞して「どっちが正しいか」「どっちが勝つのか」とジャッジしたがるオーディエンスに対して目が向いていると言えるだろう。そして、SNSなどでバズって"論客"と見なされやすく、人からの歓心を得てフォロワーを集めやすいのは後者の方である。…なかには、単に論破しようとするのではなく、「自分は誰が相手でも公平に議論します」とか「自分は誰が言うことにも素直に向き合って誠実に返答します」とかいうようなアピールをすることで自分のイメージアップに腐心するタイプの論客もいるように思われる。しかし、第三者からの自分への評判を向上させたり"論客"としてのキャラ付けを行って自分の商品価値を上げようとするという目的のために、目の前にいる議論の相手を手段として扱っているという点では、同じ穴の狢だ。

 話がずれてしまうが、自分を何らかの個性や特定の主張を持った"論客"と売り出そうとする行為は、結果的にはその人の主張を陳腐なものにしたりその人の知性を劣化することになりがちであるように思える。基本的に、物事を考え続けている人であれば自分の主張というものは時を経るにつれて大なり小なり変わるものである。多くの話題に対しては曖昧な意見を持ったり、「大体はこっち側に同意するが、この点ではあっち側の言うことにも一理ある」となったり、思うところがあっても背景の諸々の事情に想いを馳せて口をつぐんだりなど…そういう"ニュアンス"みたいなものの必要性を、物事を考え続ける人であれば理解するようになるはずだ。しかし、"論客"であろうとするならば、特定のテーマであったり特定のキーワードが入っていたりする話題に対して十年一日に同じことを言うのが求められてしまう。「この人はこの話題に対してはこういうことを言ってくれるはずだ」という観客やファンからの期待に常に応えるのが"論客"に求められる仕事であり、物事を考えて意見を翻したり個別の事情の複雑さを考慮して微温的なことを言ったりするようであれば、商品価値が下がってしまいファンから見向きがされなくなってしまう恐れがあるからだ。

 ところで、上述のことはもちろんTwitterやnoteで"活躍"しているようなインフルエンサーたちのことを想像しながら書いてはいるのだが、より身近なところでも「オーディエンスに自分の能力を誇示するがために議論を行う」なり「自分のキャラ付けをしたり商品価値をアピールするために同じ主張を繰り返す」なりの行為は溢れているように思える。たとえば、私が学生の頃に所属していたサークルなんかでもそういうタイプの行為をする人はいたし、そしてそういう行為をする人は多かれ少なかれ目論見が成功して周囲から尊敬されたりモテていたりした。私が所属していたサークルは文芸部であり、文芸作品ではこのようなタイプの人間は大概は俗物か悪人として書かれているはずなのだが、当人たちはその辺りのことは一向に意に介していなかったようだ*1。そもそも彼らのような人間は文芸作品自体を「議論」を行ったりトリビアをひけらかしたりして自分のキャラ付けを補強させるための道具くらいにしか見なしていなかったのであろう。

 

 さて、実を言うと、私は「議論に参加している双方がお互いのことを対等に見なす」タイプの議論であっても不毛になることが多いと思っている。大概の場合、実際には議論に参加している人たちは対等ではなく、議論の争点となっている事柄やテーマに関する知識や経験に明確な差があることが多いからだ。特に知識に関しては、自分の方が知識がある場合には自分より知識のない人と論じていてもこちらに得られるものはないし、自分に知識がなければ相手からわざわざ説明してもらう間でもなく自分で関連する本を読んだり情報を調べたりした方が効率的だからだ。だからまあどちらにせよ結局は議論なんて大概の場合は不毛であるし、自分でコツコツと勉強して物事を考えてたまに意見を発表して、気にいらない反応は無視して有意義な反応だけを取り入れるというのが一番であるように思える。

 

 

ソフィストとは誰か? (ちくま学芸文庫)
 

 

*1:たとえば村上春樹はどの作品でも悪役をこういうタイプの人間に設定しており、その最たる例が『ねじまき鳥クロニクル』の「綿谷ノボル」である。