道徳的動物日記

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「表現の自由」の意義はどこにある?(読書メモ:『自由論』)

 

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 近頃は「議論」というものに関する興味が増してきているでので、第2章の「思想と言論の自由」を中心に再読してみた。

 第2章にてミルが論じている、思想や言論の自由を認めて議論を活発化させることの価値については、巻末の「解説」で仲正昌樹が簡潔にまとめてくれている。

 

①発表を封じらている意見が正しい意見かもしれない

②発表を封じられている意見が間違った意見だとしても、一部真理を含んでいるかもしれず、そうした部分的真理は、対立する意見のぶつかり合いを通してのみ明らかになる

③世間で受け入れられている意見が真理であっても、活発な論争がなければ、ほとんどの人はその合理的根拠を知らないままになる

④自由な議論がなされなければ、人は自分の主義の意味さえ分からなくなり、心の底からの確信が育ってくるのが妨げられる(p.289-290)

 

 また、本文で特に気に入った箇所を引用する。

 

真理は、ただ真理というだけで、間違った意見にはない固有の力が備わり、地下牢や処刑台に打ち勝つ、などというのは根拠のない感傷にすぎない。ひとびとは真理よりも間違った意見を熱狂的に支持することもある。法律による処罰、あるいは世論による社会的な制裁でもいいが、それが十分におこなわれれば、真理であれ間違いであれ、意見の普及はおおよそ抑えられる。

真理に備わる本当の強みは、つぎの点にある。すなわち、ある意見が真理であるならば、それは一度、二度、あるいは何度も消滅させられるかもしれないが、いくつかの時代を経るうちに、それを再発見してくれる人間がたいてい現れる。再発見された真理のいくつかは、幸運な事情に恵まれ、迫害をまぬがれ、大きな勢力となる。そして、そうなった後は、いかなる抑圧の企てにも耐えられる。(p.73)

 

その時代の支配的な意見は、たとえ正しい根拠にもとづいている場合でさえ、このように一面的な性格をもつ。したがって、世間一般の意見にはない真理部分をいくらかでも含む意見なら、そこにどれだけ誤りや混乱がまざっていようとも、すべて貴重なものと考えなければならない。(p.114)

 

ルソーの逆説的な主張は、そのまっただ中で爆弾のように炸裂し、良い意味でのショックを与えた。一面的な世論のこわばった固まりをかき乱し、いったんバラバラに分解した上で、そこに新しい要素をつけ加え、よりスマートに全体をまとめ直した。

いや、当時の主流の意見が全体としてルソーの説より真理から遠かったわけではない。逆である。むしろ主流の意見のほうが真理に近かった。明確な真理をより多く含み、誤りはより少なかった。

ただ、ルソーの説には、まさに主流の意見に欠けていた真理が大量に含まれていたのである。そして、それはルソーの節とともに、思想の奔流に浮かんで流れ下った。その洪水がひいた後に残った堆積物こそが、この真理なのだ。(p.115)

 

 さて、ミルの『自由論』は思想の自由や言論の自由を支持する議論の古典的で哲学的な支柱として評価されているものである。

 しかし、読んでいて改めて思ったのは、ネット上で問題になるような「表現の自由」問題の多くは、『自由論』で擁護されている思想や言論の自由とは位相がずれているということだ。

『自由論』では、言論や思想の自由を認めて、様々な思想や言論を競争させることで我々はより真理に近づける、という「思想の自由市場」の発想が根本にある。

 この時、主流派の意見にせよ異端派の意見にせよ、また実際に真理を言い当てている意見にせよ真理からは程遠い意見であるにせよ、それらの意見は真理を志向していることが前提となるはずだ。…つまり、議論を行なっている当人たちには、「何が真理であるかを明らかにする」を最終目標としてもらわなければならない。

 そのうえで、「自分の意見は真理を表しているものだ」と認識していたり、「真理とは異なる意見が世間で主流となっているから、訂正してやろう」「トンデモな異端論を言い出した奴があらわれたから、主流派の意見が正しいことを改めて証明してやろう」などの動機を持ったりした状態で、議論を行ってもらう必要があるだろう。

 だが、社会やネットなどにおける実際の議論を見ていると、そもそも言っている当人が自分の意見を真理だとは思っていなかったり、「何が真理であるかを明らかにする」ということからは程遠い動機で行われる議論が多々ある。

 私が観察していて、特によく見かけるのは、次の2タイプの動機だ。

 

①:「自分が議論によって相手をやり込めるところをオーディエンスに見せ付けることで、自分の能力や知性を誇示して、尊敬されたり地位を得たりしたい」

 

②:「"自分はあなたたちと同じ意見を持っている"というシグナルを仲間たちに示して認めてもらうために、仲間たちとは違う意見を持っている相手に反論する」

 

 これらの動機から議論が行われる場合、自分の意見が真理にどれだけ近いかどうかは二の次となる。①の場合は「議論に勝つこと」が最終目標となるし、②の場合も「自分が意見を主張していること」を仲間たに見てもらえれば、その意見が正しいかどうかは関係なく目標が達成される。

 

 もちろん、意見を言っている当人が真理を志向しているかしていないかを外側から判断する方法はない。また、本心から「真理なんてどうでもいい、議論に勝つことが目的なんだ」と思っている人もいれば、実際には真理をさほど重要視しておらず他の目的があるのだが表面上の自己意識では「自分は真理を志向している」と思っている場合もあるだろう。また、真理を志向していない人による詭弁でも、それに対処することで結果としてより確かな真理が得られるという場合がある。詭弁がたまたま真理を突く、ということもごく稀にはあるだろう。

 …なので、結局のところ、真理を志向していない人たちであっても議論の場から弾くことはできない。彼らを弾いてしまうと、おそらく我々は真理から遠ざかってしまうからだ。そのために、対人攻撃を禁止するなど、議論の場におけるルールやマナーを設けることで対処するしかないだろう。

 しかし、真理を志向していない詭弁家たちは「思想の自由市場」にフリーライドしており制度を蝕む存在であることも、また事実であろう。

 だから、「議論に勝つこと」を目標としている人や「ただ意見を主張すること」を目標としている人を見かけたら相手にせず、その分の時間を「何が真理であるかを明らかにする」ことを目標としている人だけを相手に議論する…というのが正しいかもしれない。

 しかし、この対策にも落とし穴がある。我々は自分とは同意見の人々には好印象を抱くので、彼らのことは「何が真理であるかを明らかにする」ことを目標にしている人だと見なしがちであろう。他方で、自分とは異なる意見を持つ人々には悪印象を抱くので、彼らに対しては「議論に勝つこと」や「ただ意見を主張すること」を目標にしている人だ、というレッテルを貼りがちである。こうなると、元々から自分たちと近い意見を持っている人とばかり議論をしてしまうことになり、「思想の自由市場」が機能しなくなってしまう。

 難しいことである。

 

 ところでネット上の「表現の自由」論争といえば、児童ポルノやコンビニでのポルノ雑誌販売問題、少年漫画雑誌でのグラビアや漫画での性的描写の方法など、性的な表現の自由に関することが多い。…だが、言うまでもなく、性的な表現が目指しているのは真理ではない。少なくとも『自由論』のなかでは性的な表現の自由は主題となっておらず、特に擁護されないように思える。

 おなじく、芸術表現の自由についても、上述したような「思想の自由市場」的な考え方ですべてを擁護することは難しいように思える。文学を中心とする多くの芸術作品は、通常の言論では表せないような種類の「真理」を別の形に置き換えて表現するという意図で作られているから、そのスジで擁護することができるかもしれない。また、政府や企業や個人による悪業だったり歴史的事実を「告発」することを目的として作成された芸術作品は、政治的主張の一種と見なすことができるのでそのスジで擁護できるかもしれない。だが、どちらの方法も、芸術表現自体の自由を擁護している訳ではなく、話をずらしている感もある。芸術表現の自由そのものを擁護する議論については、改めて別の本をいつか参照してみたい。