道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

内田樹の「被害者の呪い」論

blog.tatsuru.com

 

 たまたまの偶然で、2008年に内田樹が書いたブログ記事が目に入ってきた*1

 この記事は、直接的には、当時開催されていた北京オリンピックの「聖火リレーをめぐる騒動」について言及したものである*2。また、文中には「統合失調症」についての記載があるが、当時に付いたはてなブックマークコメントでも指摘されている通り、この部分はかなり問題含みで不適当なものだ。

 それでも、このブログ記事の後半で展開されている議論は、なかなか鋭い。当時よりも現在の社会に対してなおさら当てはまるような、含蓄のある指摘だ。だから改めて取り上げてみてもバチはあたらないだろう。

 

  私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

 

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。

(……中略……)

 「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。

(……中略……)

 「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

 

 ごく簡単にまとめれば、自分が「被害者」であると主張することは権利要求や政治的交渉の場では有利な戦術であるが、本人の意識に「呪い」をかけて精神的健康や生活の幸福を蝕む可能性がある、という指摘である。

 

 わたしがこれまでに書いてきた文章のなかでも、「被害者意識」の問題については何度か取り扱ってきた。そのなかでも上述の内田の指摘にもっとも近い議論をおこなっているのは、下記の記事であるだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 この記事のなかでも紹介している心理学者のジョナサン・ハイトは「被害者意識」の問題について特にこだわって議論している人物だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

gendai.ismedia.jp

 

 ついでに、(現代)ストア哲学者も被害者意識の問題について論じている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 「被害者意識」というトピックについてわたしがどんなことを考えているかは上述の各記事に書いてきたので、ここではいちいち繰り返さない。

 

 ところで、内田の指摘は、「被害者意識」に限らず、「コンプレックス」や「怒り」など、「負の感情」全般にひろく当てはまるかもしれない。結局のところ、負の感情とは「負」なのであり、他人を批判・非難したり自分の要求を通したりしたいという目的のためであっても、負の感情を言語化して形を与えることはそれを強化することにつながって、まわりまわって自分に対する「呪い」として機能する、ということだ。

 そして、ある種のSNS界隈や社会運動界隈、もっと広く言えば「文芸」や「人文」の世界一般には、怒りやコンプレックスをはじめとする「負の感情」に価値を見出したがる風潮がある。世間や一般人はポジティブな「正の感情」のほうを大事にして称えて「負の感情」を抑圧しようとするからこそ、その逆をいってネガティブなものに寄り添うことが反順応的で反権威的で反マジョリティ的で反資本主義的でエラいことである、みたいな感じのマインドに立脚しているであろう主張はネット上でも雑誌や書籍でもごまんと見かける。

 とくに今年に入ってから、この問題についてわたしは色々と考え続けている。基本的には、「負の感情」やあるいは「弱さ」「欠落」に寄り添いましょう、的な主張に対してわたしは気休め以上の価値を見出せなくなっている。「気休めとしての価値があるならそれでいいじゃないか」とも言えるかもしれないが、とはいえ、負の感情を増幅させたり前を向いて建設的・積極的になれば解決できるはずの問題を解決から遠ざけたりするなどの「副作用」も生じかねない。それってどうなのと思うし、わたしの目からすると、「負の感情」や「弱さ」を肯定するタイプの議論を行っている論客の多くは自身の議論が副作用を引き起こしている可能性についてあまりに無頓着だ。

*1:この記事は本にも収録されているようだ。

 

 

*2:

おそらく、「騒動」とは下記のような事件のことを指している。

www.asahi.com