第22章「権利」の著者は政治哲学者のウィル・キムリッカと哲学者のスー・ドナルドソン。『人と動物の政治共同体:「動物の権利」の政治理論』を執筆した夫婦であり、このブログでは二人の著書や論文も何度か取り上げてきたので期待を抱いていたのだが、今回の文章にはあまり感心しなかった。
本章の前半では、西洋における「権利革命」について述べられている。19世紀から20世紀の前半まで、リベラル・デモクラシーはベンサムやミルの唱えたような功利主義によって正当化されていた。また、労働者階級・女性・植民地化された国家に暮らす人々などが自分たちの政治的権利を求めるために行なった運動は、「少数」の特権階級のために「多数」の被抑圧者の幸福が侵害されているという問題を改善するためのものとみなすことができたから、「最大多数の最大幸福」を追求する功利主義によっても支持することができた。
……しかし、アフリカ系アメリカ人による公民権運動は、アフリカ系という「少数」が白人という「多数」に対して異議申し立てを行う運動であったために、功利主義では支持しづらい。むしろ、少数派であるアフリカ系を抑圧したままにしておいたほうが最大多数の最大幸福につながるかもしれない。同性愛者の権利や先住民の権利、障害者の権利についても同様だ。これらの権利を求める運動が活発化したのに伴い、リベラルな政治哲学者たちは功利主義に代わる理念を追求する必要があると考えるようになっていった。それがロナルド・ドウォーキンが「切り札」と表現した「不可侵の権利」論や、ジョン・ロールズによる『正義論』へとつながっていく。
人間のマイノリティに関する運動/理論と同様に、動物に関する運動/理論においても、功利主義から権利論やリベラリズムへの転換が起こった。動物解放運動の嚆矢はピーター・シンガーの『動物の解放』であるが、功利主義の理屈では動物のことを暫定的にしか保護できない。もし、檻に閉じ込められた動物に生じる苦痛よりもその動物を眺めることで得られる多数の人間の幸福の総計が上回ったり、食用に飼育される動物たちの苦痛よりもその肉などを食べることで人間たちが得られる幸福の総計が上回るなら、理論上、動物に対する搾取や虐待は肯定されることになる。
キムリッカとドナルドソンによると「<動物の権利>という立場はシンガーの著作に対する批判的反応として現れたことに留意すべき」(p.556)で、「シンガーの功利主義的な動物倫理におけるこうした欠陥にまさに反応するかたちで、現在の<動物の権利>運動が起こったのである」(p.557)。具体的には、トム・レーガンの『動物の権利の擁護』をはじめとして、ゲイリー・フランシオンやゲイリー・スタイナー、パオラ・カヴァリエリなどの哲学者たちが、功利主義的な効用計算を度外視して絶対に守られるべき不可侵の<動物の権利>を主張する著作を発表していった。
しかし、キムリッカとドナルドソンの書きぶりは、功利主義やシンガーに対してあまりに厳し過ぎるように思える。
まず、広い意味での「動物の権利運動」……つまりPETAのように狭い意味での<動物の権利>運動の支持者からは「新福祉主義」などと批判されるが、工場畜産の撤廃や動物実験の大幅な規制などを求めており、一般的には「動物の権利」を主張していると解釈されているような団体や運動家を含んだ場合には……シンガーの理論は未だ影響力を持っているだろう。そもそも、いわゆる「動物の権利運動」を引き起こしたのはやはりシンガーの著作のほうであり、その後にせまい意味での<動物の権利>を提唱した諸々の著作が、理論的にはともかく現実の運動や社会に対してどれほどの貢献を行えたり影響を与えられたりしたのか、という点には疑問符が付く。
また、たしかに功利主義は理論上は畜産業や動物園などの制度・慣行を肯定し得るし、実際にシンガーはかなり厳しい条件付きでごく一部の動物実験は認められると論じているが、ほとんどの場合には功利主義者たちは<動物の権利>を提唱している人々とほぼ同じ主張を行っている。つまり、効用をどのように計算したところで、現行の畜産業や動物園や(大半の)動物実験などの制度・慣行が認められる道理はないのだ。
そして、功利主義が出す結論が常に暫定的なものであることは「欠陥」などではなく、柔軟さや実用性という「美徳」として捉えることもできるだろう(それらの美徳はまさに権利論が欠いているものである)。
多様な功利主義者たちが勇猛果敢にも示そうとしたのは、たとえマジョリティの選好を蹂躙したところで、それがゆくゆくは最大多数の最大幸福につながるということだった(例えば、差別は経済的に非効率的になるとか、他の集団に不安をもたらすなどという理由で)。だが、功利主義者たちがそんな理屈をでっち上げたところで、彼らは間違った理屈で正しい答えを導いたことにかわりはない。確かに、アフリカ系アメリカ人の人種隔離は、そもそも道徳的に間違っていた。なぜなら人種隔離は、彼らの人間性と公民権を尊重しなかったからである。たとえ人種隔離が、全体の選好充足にゆくゆくは変化をもたらすとはいえ。公民権闘争にとって、反マジョリティの道徳的主張がぜひとも必要だったのだ。
(p.554)
字数の都合もあるだろうが、本章では、功利主義の理屈がなぜ「間違っている」のか、または「人間性と公民権を尊重」することがなぜ正しいのか、ということに関する理論的な議論はほとんど行われていない。現代の大多数の人が既に持っている「権利が尊重されるのは当たり前だ」という常識に阿りながら、功利主義は人権侵害を許容し得るという点をことさらに強調して悪者扱いする……つまり印象操作を行なっているだけであるように思える。
本章の後半では、<動物の権利>という概念に対する様々な異議や懸念が検討される。
- 戦略面での異議:<動物の権利>という概念は過激かつユートピア的に過ぎるので、「動物の福祉」を軸にした運動でないと効果が得られないだろう、という懸念。先日に紹介した「懐柔的」アプローチと「対立的」アプローチの比較に関する議論とほぼ同じようなもの。
- 権利は人間中心主義的:動物に不可侵の権利を保障することを目指す運動のなかでもとくに影響力があるのは「グレート・エイプ・プロジェクト」であるが、動物の権利運動は大型類人猿のように「人間に近い」動物を優遇してそうでない動物を冷遇する傾向がある。また、フランシオンなどは、動物は法律上「所有物」ではなく「人格」とみなされるべきだと主張しているが、「人格」を重視するアプローチに対しては人間至上主義(=男性ジェンダー至上主義・白人至上主義)や障害者差別的であるという批判がなされている。
- 権利は消極的:<動物の権利>という概念を提唱している論客の多くは、「危害を加えない」「殺さない」などの消極的義務についてばかり論じており、動物に対する積極的義務を示したり、動物とどんな関係を築くことが望ましいかという前向きな話をしない。フランシオンなどが「廃止論」を主張しているように、後ろ向きでネガティブな議論が多いのだ。……『人と動物の政治共同体』は、まさにこの懸念を受けて、シティズンシップやデニズンシップなどの用語を用いながら前向きでポジティブな動物の権利論を提示することを目指して書かれた本であった[その試みがうまくいっているとは、わたしには思えないけれど]*1。
- 権利は敵対的:先日にも触れたような、権利という概念は敵対や競合が存在する環境でなければ考えつかない発想であるというタイプの批判。また、アメリカ先住民系の学者は、アングロ・アメリカの権利モデルと、連帯と和解を目指した自分たちの伝統との違いを強調している*2。さらに、動物は法廷で自身を「弁護」できないのだから、(法廷における)敵対関係を前提とした議論は必然的に動物にとって不利になる、という批判もある。……これに対してドナルドソンとキムリッカは、オンブズパーソンや管財人などの制度(権利主張を第三者が代行する制度)を動物にも適用することを示唆している。また、たしかに敵対的な関係がない社会のほうが望ましいが、そのような社会を実現するためにこそ不可侵の権利の確保が必要なのだ、と述べられている。
- 権利は空疎:リベラルな政治哲学者たちが述べる権利論など所詮は机上の空論であり、実際に権利を保障するのは被抑圧者たちが行う政治闘争である。そして、動物たち自身が政治闘争を行うことはできないのだから、<動物の権利>を求める運動は無駄な試みとなることが運命づけられている、という批判。……とはいえ、歴史上、子どもの権利を求める運動を子どもたち自身が行なってきたわけではないが、一部の大人たちが子どもの権利についての理論を考案したうえで政治闘争も行なった結果として、いまや子どもの権利は保障されている。同じことは動物にも起こり得るだろう*3。また、『人と動物の政治共同体』のなかでは、動物は政治的な行為者となって権利主張のプロセスに参加できる、という議論も行なわれている[かなり無理のある議論だったけれど]。
……以上、こんな感じ。後半で紹介される<動物の権利>批判については無理があるものも多いし、論文や本を量産したりサヨク界隈や批判理論界隈内での美徳シグナリングを行うためにラディカルで耳障りのよい主張を放言しているという感じも漂ってきて、白けてしまった。『人と動物の政治共同体』にビミョーな議論が含まれていたのも、こういった難癖に真面目に対応しようとした結果であるのだろう。