第2章「アクティヴィズム」の著者はジェフ・スィーボウとピーター・シンガー。どちらも倫理学者であると同時に動物の権利運動に実践的に関わっている人だ。
この章で主に論じられるのは<効果的なアニマル・アクティヴィズム>について。
これは、エビデンスと理性を用いながらできる限り多くの善をなそうと試みる「効果的な利他主義」の考え方を動物の権利運動に当てはめたもの。
<効果的な利他主義者たち>全般、また個別的には<効果的なアニマル・アクティヴィストたち>は考えうる最も多くの善をなすために、どのようにエビデンスと理性を用いようとしているのか。ウィリアム・マッカスキルは、人々にいくつかの問いを促す有力なモデルを考案している。このモデルによるなら、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、第一に、問題の規模を問うべきである。すなわち、その問題がほかの問題と比べてどれほど多くの害を及ぼすかと問うのである。第二に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は問題が見過ごされている度合いを問うべきである。すなわち、今現在、人々はほかの問題と比べてその問題にどれほど注意を払っているのかと問うのである。第三に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は問題の解決可能性を問うべきである。すなわち、ほかの問題と比べてその問題について人々のあいだに(もしあるなら)どれほど意見の相違があるかのかを問うのである。最後に、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は個人的な相性を問うべきである。すなわち、人々の個人的な才能や関心やバックグランドがどのようなものであるか、また人々がある種の仕事にどれほど向いているかということを問うのである。問題が及ぼす害が大きければ大きいほど、問題が見過ごされていればいるほど、問題が解決しやすければしやすいほど、そして<効果的なアニマル・アクティヴィズム>がその問題に取り組むのに向いていればいるほど、その分だけ<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、その問題に優先的に取り組むべきなのである。
(p.64)
スィーボウが理事会メンバーでもある「動物チャリティ評価組織」という団体の計算によると、コンパニオン・アニマルを救う取り組みには一頭につき数百ドルかかるが、家畜動物を救う取り組みには一頭につき10セントもかからない。そして、人間に利用され殺されている飼育動物の97パーセントは家畜である。そのため、<効果的なアニマル・アクティヴィズム>ではコンパニオン・アニマルよりも家畜の問題に取り組むことのほうが優先される。
一方で、野生動物たちにも多大な苦しみは生じているが、家畜の問題に比べると野生動物の問題は解決が難しい。干ばつや飢餓や他の動物からの捕食といった野生動物に苦しみを生じさせる原因にそもそもどう対処すればいいのか、対処できたところでどんな副作用が起きるか(生態系や環境のバランスの破壊など)、といったことが不明であるからだ。そのため、<効果的なアニマル・アクティヴィストたち>の多くは、野生動物の問題は後まわしにすべきであると判断している。
また、動物の権利運動をどのような方法で行うかということについて、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>とそうでない動物の権利運動家たちの間では意見が対立しがちである。効果的な利他主義者たちは計算可能なエビデンスに基づく費用便益計算を重視するがゆえに、利益が計算しやすく費用が計算しづらいアプローチを好む一方で、利益が計算しづらく費用が計算しやすいアプローチを嫌がる傾向がある。
そのため、効果的な<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は「懐柔的」なアプローチをとりがちだ。つまり、一般的な消費者たちを表立って批判したり糾弾したりするのではなく、工場畜産で生産された製品の消費を減らして動物福祉に配慮された環境で生産された製品を購入するように呼びかけるのである。このアプローチは、短期的に見れば効果が出やすい(実際に工場畜産で生産された動物性食品の消費が減って、劣悪な環境に生きる家畜の数が減ることにつながるから)。しかし、長期的に見れば、このアプローチは人々の信念を変えて動物性の製品そのものの消費を止めるように促すかもしれない一方で、「動物福祉に配慮された環境で生産されたなら動物性の製品を消費することは一切問題がない」という信念を植え付けてしまい、動物性の製品の存在を撤廃するという動物の権利運動の目的にとっては逆効果な結果を生じさせるかもしれない。
一方で、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>ではないタイプの動物の権利運動家は、動物福祉に配慮された環境で生産されたかどうかに関わらず動物性の製品を消費することそのものを批判する「対決的」なアプローチを取ることが多い。短期的に見れば、このアプローチは有害な結果を生じさせる可能性がある。「懐柔的」なアプローチであれば理解を示していたかもしれないオルグ対象の人々が動物の権利運動に悪印象を抱いて、動物の福祉に対する配慮や関心も失ってしまうかもしれないからだ。長期的に見てもこの悪影響は持続して、動物の権利運動は一般大衆からの支持を得られないものになるかもしれない。……しかし、妥協抜きの対決的なアプローチが抑圧的なイデオロギーへの異議申し立てとなって、ラディカルな変革の道を開く可能性もある。
このあたりは動物の権利運動や効果的な利他主義などに限らず、たとえば公民権運動においてキング牧師とマルコムXがそれぞれに対比的なアプローチを取ったことに示されるように、社会運動全般に付き物のジレンマであるだろう。また、効果的な利他主義や功利主義的な発想が、構造やイデオロギーといった複雑な問題について見落としがちであるという側面はたしかになくはないと思う*1。
<効果的なアニマル・アクティヴィズム>に対するこうした批判は運動の内部から必然的に出てくるものである。それは、できる限り動物の苦しみを減らそうとすることに反対するものでもなければ、その過程でエビデンスと理性を用いることに反対するものでもない。むしろそれは、もしできる限り動物の苦しみを減らし、その過程でエビデンスと理性を用いることを望むならば、個々の行動の直接的で個別的な効果にばかり焦点を当てないよう注意すべきだと主張するものである。というのも、もし個々の行動の直接的で個別的な効果にばかり焦点を当てることになれば、アニマル・アクティヴィストが個人として、また集団として何をするべきかということをめぐる分析は、不完全で、またおそらく不正確なものになってしまうからだ。
(p.70)
スィーボウとシンガーは、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は、以下の方法によって自分たちが行うリスク便益分析を改善することができる、と述べる。
- 評価方法の拡大:歴史や社会、政治や経済に関する理論などを参照しながら、より広い観点から評価を行うこと。たとえば社会運動の歴史を学べば、懐柔的なアプローチと対立的なアプローチが相互に作用しあってきたことがわかる。
- 評価範囲の拡大:拡大された評価方法を、より広範囲に及ぶ問題に適用する。
- 評価におけるバイアスの是正:効果的なアニマル・アクティヴィストたち自身の身分やバックグラウンドについて反省的に分析して、自分たちの視野がどのようなかたちで狭まっているかを検討して、それを改善する。たとえば、多くの効果的なアニマル・アクティヴィストは裕福であったり学歴に恵まれていたりするためについつい現行の制度を支持してしまいがちであるという点(「特権」)を自覚したうえで、それによるバイアスが生じないように、改めて判断や計算をし直す。
上記のような方法を実施する際には、よく言えば合理的で悪く言えば「浅薄」な考え方である効果的な利他主義やそれに基づく効果的なアニマル・アクティヴィズムにとっても、よく言えば「深遠」で悪く言えば曖昧な批判理論やそれに基づく<アニマル・スタディーズ>から学べることがある……という点が、この章のキモである。
また、スィーボウとシンガーは、ジョン・スチュアート・ミルが間接功利主義を推奨したことや、功利主義に基づいて「リベラルな多元主義」を提唱したことを支持しており、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>は自分たちとは異なる考え方や方法論に基づいて動物の権利運動を行う人たちにも寛容でなければいけない、と述べている。
ただし、「リベラルな多元主義」にも限度はある。まず、あまりにも暴力的な手段を用いることは、動物の権利運動全体に「テロリズム」の烙印を押して非暴力的な手段で行われる活動の効果すらをも毀損するので、そのような行動をする運動家や団体を許容すべきではない。
また、運動の戦略をめぐって運動家同士で意見が対立すること自体は問題ないが、運動のそのものの標的である「動物虐待を擁護する者たち」(畜産業者や動物実験業界など)と「動物の側に立つ人間」との区別は付けておくべきであり、内ゲバに終始することがあってはならない。……たとえば、狭い意味での「動物の権利運動家」を自称する個人や団体が、畜産業者や動物実験業界よりもシンガーやPETAのような「新福祉主義者」に対する批判や攻撃に熱心になる、というのは実にありそうなことだ。
はっきり言うと、『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』に収められている他の学者たちの章のうちのかなり多くにも、内ゲバ的な傾向は見て取れる(そうでもしなきゃ理論や論文としての差別化が図れない、という事情もあるのだろう)。これも私見だが、批判理論や「〜・スタディーズ」に基づく研究は「一見すると良いと思われていたり道徳的だと思われていたりする理論や価値観には、実はこんな問題があるのだ」と言いながら他の学者たちの粗探しに終始したり、「こんな隠れた問題に気が付くわたしのほうが真面目でエラい」といった美徳シグナリングにばかり熱心になったりしてしまい、実際に社会に存在する問題の改善からはむしろ遠ざかってしまいがちだ。
スィーボウとシンガーもわたしと同じような問題意識を抱いていて、<効果的なアニマル・アクティヴィスト>たちに対する反省を促すのと同時に、<アニマル・スタディーズ>側の人たちにも遠回しにやんわりと釘を刺しているのではないだろうか。
*1:「構造」の話ばっかりしていればいい、というものでもないけど。