道徳的動物日記

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社会運動をするなら心理学を知らなければならない理由

 

 

 ニック・クーニーによる Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (『心を変える:社会変革を拡げるために心理学が教えてくれること』)を初めて読んだのは大学院生の頃だが、他にはないオリジナリティを持った本であるために印象が深く、これまでにもこのブログで折に触れて紹介してきた。いま書いている原稿の参考にするため、先日に改めて読み返したから、こちらでも内容を紹介しよう。

 

 著者はこの本の他にも、効果的利他主義に関する本である How To Be Great At Doing Good: Why Results Are What Count and How Smart Charity Can Change the World ベジタリアンに関する本であるVeganomics: The Surprising Science on What Motivates Vegetarians, from the Breakfast Table to the Bedroom を出している。著者自身も社会運動家ではあるが、その考え方はかなり功利主義的であり、社会運動についても「できるだけ多くの不幸や苦痛や死を減らすために行うべきだ」という考え方をしている。そのため、著者がとくに実践していて関心があるのは菜食主義運動や環境保護運動、国際的な貧困を減らすための運動であるようだ。

 著者も留意しているように、功利主義的な理念に基づいて社会運動を行う人は少数派であり、通常は、運動家自身やその周辺の人たちの利益や興味関心、アイデンティティなどに基づいていることが多い。また、メディアで取り上げられて目立つ物事も、運動の対象になりやすい。しかし、社会運動家であるならどんな運動をどんな風に行うかはやはり功利主義的な観点から考えるべきだ、と著者は説く。通常の社会運動の対象となる物事は恣意的に選ばれているが、「どうすれば世の中を最大限に良くすることができるだろうか」と考えることで、自分は別の問題についての運動を行うべきだということに気がつけるかもしれない。たとえば、環境保護という目標を実現するにしても、単に現在の環境を守るための運動をするよりも世界的な出生率を抑制するための活動をするほうが、将来の環境を持続的に守るという点ではより効果的であるかもしれない(実際に一部の環境活動家はこの考えに基づいて活動の対象を変えているそうだ)。また、ブルース・フリードリッチという活動家は、当初はホームレスの人を支援するための活動をしていたが、動物の問題に集中したほうがずっと多くの苦痛を減らして生命を守れることに気が付いたので、動物の権利団体PETAの副会長になったのだ。

 

 とはいえ、この本の重要なポイントは、社会運動の目標ではなくやり方について功利主義的・プラグマティズム的になるべきだ、と主張している点だろう。

「どんな問題について活動するか」という目標選びは必ずしも功利主義的である必要はなく、人それぞれで違っていてもよいはずだ。一方で、目標がなんであっても、やるなら効果が出るようにやるべきだ、という点についてはより多くの人が同意するはずである。そこで必要となるのが心理学だ。

 個別の目標がどんなものであるかに関わらず、その目標についてより多くの人から同意や支持を得られるように訴えることで、個々人の行動や価値観を変えたり新しい政策が実施されたりすることを目指すのが、社会運動というものである。

 デモにせよビラ配りにせよその他の抗議活動にせよ、それを眺めたり接触したりした一般の人たちに「この問題は重要なんだな」「この問題を解決するために自分もなにかしよう」「次回に投票するときに政党を選ぶ際には、考慮する要素のなかにこの問題を含めよう」と思わせるようにすることこそが、活動の目的である。

 逆にいえば、一般の人たちの意見や考えになんらかの影響を与えられないような活動は、本質的には意味がない。そして、意見や考えとは、(理性だけでなく)個々の人の気持ちや心理に左右されるものである。したがって、一般の人たちの気持ちにより効果的に影響を与えられる活動ほど、そうでない活動に比べて、目標の達成に近付きやすくなる。そして、心理学(や行動科学)には、「他人の気持ちや意見や行動や価値観に影響を与えやすい活動とはどのようなものであるか」ということに関する知見がたっぷりと存在するのだ。

 

 ……とはいえ、「抗議活動は一般の人たちの意見や気持ちに影響を与えられるものでなければ意味がない」というシンプルな事実が、社会運動家たちのなかでは受け入れられなかったり忘れられたりしがちだ。

 その理由のひとつは、個々の活動家たちは「自分たちは社会運動家である」という集団的アイデンティティを強く持ってしまっていることだ。

 社会運動家は「一般人たちのことよりも「自分の活動は社会運動家の仲間たちからどう思われるか」ということのほうを気にしてしまうし、仲間内の価値観に影響されて「一般的な価値観はどうなっているか」ということを忘れてしまう。

 本書のなかで紹介されている印象的な事例は、「環境活動家たちが、デモをする前に髪を切ってスーツに着替えることを拒否してしまう」というものだ。抗議活動をしている人たちの見た目がどんなものであるかは、その活動が一般の人たちに対して与える影響力を左右する。そして、デモを行う労力に比べたら、髪を切ったりスーツに着替えたりする労力は大したものではない。しかし、社会運動家たちの多くは「自分たちは資本主義社会や既存の秩序に争うヒッピーやアナーキストだ」という自認があるため、運動のために生活を犠牲にしたり逮捕されたりすること以上に、髪を切ってスーツに着替えることを嫌がるのだ。……さらに、見た目によって人を判断すること自体がルッキズムという社会問題である。環境保護という正しい目的のために、一般の人たちが抱くルッキズムに従わなければいけないということ自体が、不公正で理不尽なことのように感じられる。

 しかし、環境保護と反ルッキズムを同時に達成しようとすることは「二兎を追うものは一兎をも得ず」となって、なんの効果も得られない。そして、自分たちのアイデンティティから生じる抵抗感を抑えてルッキズムに妥協することで、運動に効果がもたらされて環境保護という目的が達成されて、将来の人間や動物が救えるのであれば、そうしないにこしたことはないのだ。

 他の人や動物の幸福や生命が自分たちの運動の成果にかかっているときには、自分たちの価値観にしがみつくべきではない、ということである。

 また、運動の効果について冷静に考えることで「自分たちがこれまでやってきたことにはほとんど効果がなかったかもしれない」という事実に直面するのを避けるために(認知的不協和)、非効率な方法で運動を続ける人も多い、とも著者は指摘している。

 

 では、「効果的な方法の社会運動」とはどういうものか?

 まず、人間というものは原則として保守的であり、自分の価値観や行動を容易に変えようとはせず、いまの自分の価値観やアイデンティティを守る方向に作用する様々なバイアスを備えている。

 そのため、社会問題の存在を指摘されても、「その問題は他と比較すると大したものではないだろう」「わたしにはその問題に関する責任はない」「この問題について対処するべきは他の人たちだ」といった風に、価値観や行動を変えない理由をまず探してしまうものだ。

 現状維持バイアスのほかにも、公正世界信念のバイアスによって「その問題で被害を受けている人たちにも責任があるはずだ」と考えてしまったり、貢献度の過大視バイアスによって「自分はこの問題について然るべき貢献をもうしている」と自分に甘い判定を下したりするし、「この問題は重要だ」と認めてもそれを行動に移さないという「態度と行動とのギャップ」があったりするし、犠牲となる人が多いような重要で深刻な問題についてほど共感や同情が機能しなかったりするし(「特定可能な被害者効果」の逆バージョン)、そもそも考えることを拒んだりする。

 

 これらのバイアスを前提にしたうえで著者が提案するのが、バイアスに抵触しない方法で問題を訴えたりする方法や、バイアスを逆利用したナッジ的な対処法だ。

 たとえば、一般の人たちは「自分にも責任がある」と言われると責任を回避するために問題の存在自体を否定したり無視したりしてしまうので、「自分が責められている」と思わせないような方法で問題を訴えたほうがいい(市民たち一般の責任を強調するのではなく、大企業といった特定の対象の責任を強調することなど)。

 自分の行動や価値観を変えるべき理由を目の前で述べられた人の大半は「変えなくていい理由」を思いついて反論しようとするから、問題について伝えるにしても「こいつらはおれの行動や価値観を変えようとしているのだ」とは思わせないほうがいい(また、目の前で議論するのではなく、行動や価値観を変えるべき理由を書いたパンフレットや本を渡すほうが、相手が「おれの行動や価値観を変えようとしてくる奴」の存在を意識せずに議論に向き合ってくれやすくなるので、効果が高い)。

 統計よりは、かわいそうな被害者の個別的具体的なエピソードを述べたほうが真剣な関心を惹きやすい(ただしグロ画像などは直感的な拒否反応につながってしまうので逆効果)。

 一般の人たちと社会運動家たちや運動との対象となっている人や動物との違いや対立を強調するのではなく共通点を強調することのほうが、仲間意識や親密さなどのポジティブな感情につながって、拒否反応を減らすことができる。

 罪悪感を抱かせることは問題の存在を否認する反応につながるから止めたほうがいい。また、上述したようにルッキズムを利用することや、「権威に対する弱さ」という人間の習性を利用することもひとつのテだ。……などなど。

 

 この本が面白いのは、人間の「理性」が持つ力をとことん弱く見積って、「感情」の力を強大なものと認めたうえでそれを操作するための方策をあれこれと考えているところだ。それ自体はナッジや行動科学に関する本では定番のパターンであるが、この本では「社会運動」というきわめて民主主義的な物事をテーマとしながらも、民主主義の根本にあるはずの「理性」や「議論」が持つ力をほぼ否定する感じになっているところにオリジナリティがある。書き振りはポジティブで建設的だが、その背景にある人間観はかなりシニカルなものとなっているのだ。

 もちろん、近頃ではナッジの効果や心理学実験の再現性に疑問が生じているように、この本で紹介されているテクニックにどこまでの効果があるかというのには怪しいところもあるだろう。とはいえ、人間が保守的で現状維持的なバイアスを持っているということ自体は事実であるだろうし、その事実は民主主義や社会運動にとってかなり厄介なものであるということが、この本では逆説的に示されている。

 また、この本の内容や著者のスタンスが多くの社会運動家をイラつかせるものであることも間違いない。

 いずれにせよ……「感情」に関して倫理学的に考えていくと、人間の感情はバイアスまみれで信用できないものであるからこそ、他人に関することや社会的・政策的なことについては理性に訴えるのではなく感情を適切に操作するべきであるという功利主義的・ナッジ的な考え方はひとつの見識であり、耳を傾けるべきものがある。

 一方で、自分のことに関しては、自分には現状維持や自己正当化などのバイアスがあることを理解するからこそ感覚的な拒否反応に蓋をして、相手の言うことにあくまで素直に耳を傾けることを目指す、というくらいが丁度いいように思える。相手の議論に対する反論が思いついたときにも、その反論が自分自身の現状維持バイアスや自己正当化バイアスに影響されたものでないかどうか、まずは自省して確認する、という慎重さも必要になるかもしれない。いずれにせよ、感情やバイアスに左右される非理性的な存在のままであり続けることよりかは、難しさを乗り越えた先にある理性を行できる存在になろうとするほうが、社会にとっても自分にとってもよいことであるだろう。そういう意味ではストア派の哲学もいろいろと重要であるな、と最近は改めて思うようになっている。