道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

引用メモ:R・M・ヘア「倫理学理論と功利主義」

 

 

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

功利主義をのりこえて:経済学と哲学の倫理

 

 

 

レベル1の諸原則は、実践的な道徳的思考、特にストレスのかかる状況下での道徳的思考で用いられるものである。これらの諸原則は教育(自学も含む)によって伝えることができるほどに一般的なものでなければならず、また「緊急時に適用する準備があるような」ものでなければならない。とはいえ、これは経験則とは混同されてはならない(経験則は破っても後悔の念を引き起こさない)。レベル2の諸原則は、事実について完全に適切な知識をもっているときに、十分な時間的余裕をもってなされる道徳的思考によって、個々の事例における正しい答えとして到達されるものである。このレベルでの諸原則は普遍的なものであるが、必要に応じて、同時に明細的なものでもありうる(明細的は「一般的(general)」の反対であって「普遍的(universal)」の反対ではない)。 (p.39-40)

 

…私たちに必要な思考の一つであるレベル2の思考が、そもそも、功利主義的であるのみあらず、行為功利主義的な 思考だからである(ここまで見てきたように、このレベルでの明細的な規則功利主義的思考と普遍主義的な行為功利主義的は実践的に等しいものであるため)。そして、教育者にとっては自分の教え子たちを、ほとんどの場合にはレベル1の思考ーー質の高いレベル2の思考によって選択された一組みの諸原則に基づいた思考ーーにしたがうよう育てることには、優れた行為功利主義的理由がある。このことは自学の場合にも同様に当てはまる。したがって少なくとも、教育、自学と呼ばれるような活動はすべて、強固な行為功利主義的な基礎をもちうる。自分や他人をレベル1の諸原則において教育することはもっとも善いことであり、それがわからないのは粗野な行為功利主義者だけである。そしてまた、ほとんどあらゆる場面において、善い一般的諸原則にしたがうことには、十分な行為功利主義的な理由があるだろう。そうすることは合理的であるだろうし、正しいものになる可能性ももっとも高いだろう。そして、何をなすべきかを選択する際に、どのようにして考えを進めるべきかを述べる段にあっては、行為功利主義者であったとしても、私たちは選択の際には何が正しいことであるかを知らないのだから、もっとも正しいことである蓋然性がもっとも高いことをせよということしかできない。

(p.45-46)

 

 このブログでは、ゲイリー・ヴァーナーという人による、ヘアの二層功利主義を動物倫理の問題に応用した単著について、何度か紹介してきた。

 

 

 

 

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↑ 上記の記事で紹介しているように、ヴァーナーの議論では「科学的知識」とその取り扱い方が重視されている。実際、功利主義の優れているところの一つは、道徳判断を定性的にではなく定量的に扱えるところだ。その点では、他の規範理論に比べてずっと「科学的」な思考方法を行うものと言えるだろう。

 マイケル・シャーマーは、著書の『道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』のなかで、人間の思考は基本的に訂正的なものである、ということを指摘していた*1。つまり、「程度」や「可能性」の問題を無視した、「◯か✖️か」の判断をしてしまいがちなのである。権利論や義務論も、定性的な思考をしてしまいがちという人間の特性にマッチしたものであり、だからこそ人気があるのだと言える。だが、世の中が複雑になり、人々が直面する状況にバリエーションが生じるようになればなるほど、定性的な思考は誤作動を起こしがちになってしまう。求められるのは、状況ごとの固有の事情や条件を考慮に入れた、定量的な判断を下すことだ。ただし、そんなことができる場面は限られているので、定性的な判断を行う際の基準や傾向を現代の状況にあわせてアップデートすることも必要とされる。

 

 また、動物の道徳的地位を主張する議論に対するもっともよくある反論ともいえる「プランツ・ゾウ論法」は、教育などによって植え付けられた「レベル1」の思考が誤作動を起こしている典型例だと言える。つまり、「植物も動物も生命はみんな大切にしましょう」「生命はすべて平等です」という道徳訓はほとんどの場合には適切な判断を導き出すのだが(道端の植物を思い付きで引っこ抜くことが何か善い効果を与えるということはほぼないのだから「植物も生命だから意味もなく殺さないようにしよう」という直感を抱くことは有益だし、パーソン論のように人間や動物間の道徳的地位に軽重をつける理論は直感レベルでは都合よく解釈されがちなので「生命はすべて平等である」という直感がある方が無難である)、食事に関するときのように動物と植物の生命のどちらかを奪うべきかという選択を行う際の指標にはならないのである。

 

 ところで、直前に読んでいた『一冊でわかる 古代哲学』に以下のような記述があった*2

 

古代の徳の概念…そのすべての理論が共通して認めているのは、徳を備えた人間においては、感情や感覚が理性と争ってはいないし、もはや争うことはありえないということである。道徳的な行為が要求していることを理解して吐いても、その行為をするために、それに反対する欲求を打ち負かす必要がある人間は、まだ徳を備えておらず、ただ自制心があるというのにすぎない。その人間の欲求が、その人間の持つ理解と同調するものであることを、徳は求めるのである。(p.77)

 

 このような徳の概念は、同じ著者の『徳は知なり』でも強調されていた。そして、これは、二層功利主義における「レベル1」の理想的な状態をあらわしているものとも言えるだろう。

*1:シャーマーの著書に関する記事のひとつ。

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

 

古代哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

古代哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)