道徳的動物日記

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科学的知識に基づいた動物倫理:ゲイリー・ヴァーナーのパーソン論

 

  動物について言及する倫理学的主張の多くは「人間だけでなく動物も道徳的地位を持つ」「人間だけでなく動物も道徳的配慮の対象になる」と主張するが、「人間と動物は全く全く同じ道徳的地位を持つ」とは主張しない。例えば人間と猫を比較する場合には、多くの倫理学者は「人間一人が死ぬことは猫一匹が死ぬことよりも重大である」「人間一人を殺すことは猫一匹を殺すことよりも非道徳的である」と説くだろう。

 ただし、世間一般や倫理学以外の学問などで挙げられる「人間が動物よりも特別である理由」「人間を動物よりも道徳的に優遇する理由」の多くは、倫理学では否定される。「人間は神の似姿だから動物よりも特別だ」と言った宗教的な理由は根拠がないので否定するし、「ホモ・サピエンスの一員として種の保存に努めるのは人間の義務であり、ホモ・サピエンス以外の生物を優遇する理由はない」というタイプの主張も科学的にも論理的にも色々と間違っているので否定される。「人間は道徳を理解して道徳的に行為することができるが、動物には道徳を理解して道徳的に行為することができないので、動物は人間と違って道徳的地位を持たない」「動物は社会契約に参加できないので道徳的配慮の対象とならない」といったタイプの主張については、それを認める倫理学者もいるかもしれないが、否定する倫理学者も多いだろう。

 では、"なに"が人間一人が死ぬことを猫一匹が死ぬことよりも重大であるとしているるのか、人間の持っているどのような性質や特徴が人間を動物よりも特別な存在にしているのか…それを、宗教や文化や心理などに由来する偏見や予断や非合理的思考などを排して、合理的・客観的に考えることが倫理学では求められる。

 

 よく主張される考え方の一つは、以下のようなものだ。人間は動物と違って言語が使えたり理性的思考ができたりするために将来についての計画や"自己意識"を持つのであり、人間は動物と違って「"自分"が過去・現在・未来に渡って存在すること」や「"自分"の生を生きているのは"自分"であるということ」が理解できるので、一人の人間にとっての「"自分"」の命は一匹の猫にとっての「"自分"」の命よりも重い、だから人間一人を殺すことは猫一匹を殺すことよりも重大な不正だ、という考え方である。この、人間の命を当人にとって価値のあるものにする、人間の持つ心理学的な性質や能力に「人格(person)」という名を与えたものが、いわゆるパーソン論と呼ばれる議論である。

 

一般に、「人格とは何か?」という問いをめぐる議論のことを指す。 生命倫理学でこの問いが重要になるのは、 この問いの答え方次第で、胎児、 植物状態脳死状態の患者などをどう取り扱うかが変わりうるからである。

たとえば、人格というのを「自己意識を持った存在」と定義づけるならば、 ある時期までの胎児や脳死状態の患者は人格とみなされないことになるだろう。 すると、これらの「人格を有しない者」に対しては 「人格を有する者」とは別の取り扱い方が許されることになる。

…(中略)…もし1.人格を殺すことの不正さが、 本人にとっての自分の生の価値と関係しており、 2.さらに本人にとっての自分の生の価値が、 (1)で述べられたような人格の条件となる特徴の程度によって異なるならば (たとえば、合理的思考能力の程度に応じて、 生の価値が増減するならば)、 人格があるかないかは程度の問題であることになる。 この議論を認めるならば、動物にもある程度人格を認めなければならないかもしれないし、また、通常の人間も小さな頃や老いた頃にはより少ない人格を 有するということになるかもしれない*1

 

 

 上の引用に付け加えると、「本人にとっての自分の生の価値が…人格の条件となる特徴の程度によって異なる」ことは、それぞれに異なった生物種に属する動物たちにも当てはまる。例えば、類人猿は何らかの自己意識を持っているように見える一方で、昆虫が自己意識を持っているとは考えづらい。

 

 ゲイリー・ヴァーナー(Gary Varner)の『Pesonhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-level Utilitarianism(人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける)』では、動物の認識能力と動物の人格や道徳的地位との関係について論じられている*2。ヴァーナーは、人間と動物を「人格(Person)」「準-人格(Near-Person)」「感覚だけの存在(Merely Sentient)」の三つのカテゴリに分けている。このカテゴリ分けはあくまで便宜的なものであり、例えば人格はいついかなる場合でも準-人格に優先されるという訳ではなく、功利主義的な計算のために準-人格を人格を優遇することが求められる場合もある、ということは留意される必要がある。ただ、人格にとっての自分の生の価値は準-人格や感覚だけの存在にとっての自分の生の価値よりも大きいために、一般論的・基本的には人格を優遇すべき、ということである。

 

 ヴァーナーによる「人格」の定義は以下の通りだ。

 

伝記的な自己意識(biographical sence of self)を持つために、その生が特別な道徳的意義(moral significance)を持つ存在(p. 134)

 

 過去や未来に自分が存在しているという意識は準-人格も持っているのだが、準-人格と人格の違いは、人格の生は「物語的(narrative, storytelling)」であるということだ。人間である私たちのアイデンティティは、過去の出来事についての記憶や自分は未来にも存在するであろうという意識だけでなく、過去や未来と現在を有機的に結びつける「自分自身についての物語として私たちが語ることのできる、私たちの伝記」(p. 134)にも由来している。自分の人生を物語的に理解することで、自分の生が自分自身にとって持つ意味を認識して主張することが私たちにはできる。そして、健常な大人の人間のほとんどは物語的な生を過ごしているが、人間以外の動物が物語的な生を過ごしているという証拠は発見されていない。人間の持つ特別な言語能力が、物語的な生を過ごすことを可能にしているのだ*3

 物語的な生という概念について、ヴァーナーは哲学者のマリャ・シェクトマン(Marya Schechtman )による議論を特に参照している*4。また、人間の生は物語的であることこそが人間の生を動物の生よりも特別にする、という考えは古来より様々な哲学者たちが主張してきたことでもある*5。物語的な生という概念の解説として、ヴァーナーの本の書評を書いている、タル・スクライヴン(Tal Sriven)の書評から引用しよう*6

 

…この考えによると、自分自身の生の物語に自分を位置付けることができる個人たちの内にしか、完全な人格は存在しない。他の存在や他の自我が存在する世界において自分を位置付けるために人格が語る物語が持っている特別で道徳的な意義は、ソクラテスを特別にしていてブタには欠けている性質とはなんであるか、ということを説明する。ソクラテスは物語のなかに生きているのだ。ブタは、ソクラテスのような人間が語らない限りは物語を持てない。語られたとしても、実際にはブタが自分自身の物語を意識することはできない。ブタの生を、過去・現在・未来を強く結び付ける複雑な物語にまで高めることはできないのだ。人間が物語を語ったとしても、日々を生きるブタの人生そのものに意味を与えることはできないのだ。そのため、人格が過ごしている生に対するのと同じだけの敬意を、ブタの過ごしている生に対して払うことはできない。人格が過ごす生には、過去についての認識から生じる人生の軌道が存在しており、また将来についての計画に人格自身が投影されている。人格の計画に干渉することは人格に危害を与えるし、人格が持っている計画を理由もなく無視することは人格を冒涜するということなのだ。(p. 201-202)

 

 

 物語として自分の生を語れないため存在は人格ではないが、現在だけでなく未来や過去における自分の存在を理解できる動物たちは準-人格である。ヴァーナーは、準-人格を持つ存在とは自伝的記憶(Autonoetic consciousness)を持つ存在であると定義している*7。どの動物が自伝的記憶を持っておりどの動物が自伝的記憶を持たないかをどう調べるのかということについては、ヴァーナーは自伝的記憶を以下の3つのカテゴリに分けて、それぞれを調べればいいとしている。

 

1・エピソード記憶。自伝的記憶のなかでも、過去に向けられるものである。

 

2・鏡を見て自己を認識すること。これは、現在における自伝的記憶の存在を示唆する。

 

3・心の理論の使用や、特定の種類の計画を行うこと。両方とも、自伝的記憶のなかでも未来に向けられるものと関わりがあるように思われる。

 

…(中略)…この3つのカテゴリーを通じて、自伝的記憶の存在を示す最も強い証拠を私たちが発見できる動物が、準-人格である可能性が最も高い動物である。

(P.182)

 

  そして、心理学や動物行動学の様々な研究結果を参照しながら、大型類人猿・クジラやイルカ・ゾウ・カラス科の鳥(カラスやカケスなど)が、準-人格である可能性の高い動物たちであると論じられる*8

 

 残るは「感覚だけの存在(Merely Sentient)」だが、もちろん、彼らも道徳的配慮の対象となる。人格や準-人格に比べると地位が低くなる、というだけだ。相手が高度な記憶や理性を持たないとしても、苦痛を感じられる存在に無意味に苦痛を与えることは不正なのだ。ではどの動物が感覚を持ち苦痛を感じられるか、ということは生物学や解剖学などの科学的知識によって知ることができる。ヴァーナーがまとめた結果によると、哺乳類や鳥類だけでなく、魚類や両生類や爬虫類を含めて全ての脊椎動物は苦痛を感じる能力を持つ可能性が高い。一方で、無脊椎動物が感覚を持ち苦痛を感じるという証拠は少ない。イカやタコなどの頭足動物については、他の無脊椎動物に比べると感覚を持ち苦痛を感じる可能性が高いが、脊椎動物に比べると可能性は低い。

 

 このように、ヴァーナーの議論は科学的知識に頼っている部分がかなり大きい。この種類のアプローチに対してよくある反論は、「科学的知識が正確とは限らない」「人間たちがまだ知らないこともあるかもしれない」「動物たちが痛みを感じていると確実に断言できる証拠はない」「植物も痛みを感じるかもしれない、それを完全に否定する証拠はない」「曖昧な知識や可能性に基づいた恣意的な基準で、特定の動物を他の動物よりも優遇するのは人間の傲慢だ」といったものだ。このような主張に対するヴァーナーの返答を引用して、この記事を締めくくろう。

 

基準に基づいた私の議論に対する、哲学者のコリン・アレンによる批判に対する私の最初の返答は、「ラムズフェルドの返答」と呼ぶことができるかもしれない。最高の装備や改良型の高機動多用途装輪車両が、イラクに向かうアメリカ軍の全軍に対しては配備されていない、という批判に対してアメリカの元国防長官のドナルド・ラムズフェルドが言ったとされる返答に由来しているからである。ラムズフェルドはこう言ったのだ。「君も知っているように、戦争には手元にある軍隊で行かなければならないんだ。自分がこれだけ欲しいと思っている軍隊や、後からこれだけ欲しかったと思うことになる軍隊で戦争に行ける訳じゃないんだ」。ラムズフェルドと同様に、私もこう言おう。倫理的な判断は、自分が欲しいと思っている証拠ではなく、自分が手にしている証拠に基づいて行わなけばならない。

 科学者や、心の哲学を専門にしている哲学者なら、無期限に結論を保留する余裕があるかもしれない。しかし、倫理学者や立法者は、その判断を下すときに入手可能な最善の証拠に基づいて判断を下さなければならない。そして、日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ。私はいつも自分のことを「倫理学者」ではなく「倫理理論学者(ethical theorist)」と呼んでいる。ポピュラーメディアは、「倫理学者」のことを自分に投げかけられた全ての倫理的問題についての答えを持っている人だと描写するからだ。しかし、問題が投げかけられた時の私の答えとは、多くの場合は「その答えは、事実がどんなものであるかということによる」というものだ。「日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ」という私の主張は、全ての倫理的問題に対して表明できる意見を全ての人が持っている、ということは意味していない。私が言いたいのは、私たちの全員が、倫理的な議論の対象となる判断を数え切れないほど多く下している、ということなのだ。その判断の多くは待つヒマのないものであるし、その問題に関して必要であったり求められたりする情報を全て集める前に判断を下す必要がある。このことは、立法者にとっては明白なことだ。立法者は、広い範囲に重大な結果をもたらす政策や法律を不完全な情報に基づいて頻繁に制定しなければならない。しかし、立法者に比べると判断の与える影響は少ないといえ、同じことは私たちの全員に当てはまるのだ。

(p.115-116)

 

 

 

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

Personhood, Ethics, and Animal Cognition: Situating Animals in Hare's Two-Level Utilitarianism

 

*1:

THE PERSON THEORY

*2:この本は三部構成であり、第一部では副題にも書かれているR・M・ヘアの二層功利主義の解説と擁護が行われている。動物の認識能力と人格について論じられているのは第二部で、第三部では応用的な問題が論じられているが、第二部も第三部も、第一部で論じられた二層功利主義が前提とはなっている。

 しかし、二層功利主義について解説しなくてもヴァーナーによる動物の認識能力と人格についての議論を説明することはできるので、話が散漫になるのを避けるために今回の記事では二層功利主義についての説明は省いた。

*3:人間であっても言語能力が未発達な子供は「人格」に含まれないこと、証拠は発見されていないがゾウやクジラ・イルカは物語的な生を過ごしている可能性があることなどを、ヴァーナーは読者に留意させている。

*4:

 

The Constitution of Selves

The Constitution of Selves

 

 

*5:アリストテレスフリードリヒ・ニーチェ、バーナード・ウィリアムズ、アラスデア・マッキンタイアなど。

*6:

"Review of Varner's Personhood, Ethics, and Animal Cognition" by Tal Scriven

*7:Autonoetic consciousnessには「想起意識」や「自己思惟的意識」などの訳語もあるようだ。「自伝」的記憶といっても、前述で出てくる「物語」や「伝記」とは意味合いが違うので注意。

*8:カラス科の鳥を除けばみんなアメリカ人たちに人気のある動物たちだが、「この件については世間の常識も十分に正当であることが示唆されるかもしれない」(p. 217)とヴァーナーは書いている。