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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「私たちは道徳的に賢くなっているのか?:IQの上昇、暴力の減少、経済的リベラリズムの関係」 by マイケル・シャーマー

reason.com

 今回紹介するのは、心理学者で疑似科学批判者で無神論者のマイケル・シャーマー(Michael Shermer)が Reason.com というサイトに掲載した「Are We Becoming Morally Smarter?」という記事。

 シャーマーは昨年に『 The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity toward Truth, Justice, and Freedom (道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか)』という本を出版している*1。副題の通り、人々が科学的・理性的な思考方法を身に付けるにつれて、他人に配慮した道徳的な思考もするようになったり、正義などの抽象的な概念を理解したり、宗教の権威を否定したり、民主主義などが普及したりして、暴力が減少してより多くの人々に権利や自由が認められるようになって世の中がより良い場所になった…的な内容が書かれている。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』とかなり内容が被っていて焼き直しな部分もあるのだが、『暴力の人類史』で取り上げられていたトピックの一部が更に突っ込んで書かれていたり『暴力の人類史』に向けられた批判に対して応答している箇所もあったりして、併せて読んでもいいだろう。

 今回の記事は、人々が抽象的能力を身に付けたことによる実質IQの上昇(フリン効果)と道徳的思考の関係について書かれたもの。『Moral Arc』の中でも同じ話題が書かれているし、記事中で言及されているように『暴力の人類史』でも取り上げられている話題である。

 

「私たちは道徳的に賢くなっているのか?:IQの上昇、暴力の減少、経済的リベラリズムの関係」 by マイケル・シャーマー

 

 1980年代、社会学者のジェームズ・フリンが画期的な発見をした。20世紀の初頭から、人々の実質的IQの平均点が10年ごとに3点ずつ上がっていることを発見したのだ。人々のIQが上昇していることは、IQテストの内容が平均点を100に戻すために世代ごとに更新されて改良されてきたという事実のために隠されていたのであった。

「フリン効果」として知られるこの現象には驚くべき意味が含まれている。現代において平均的な知能(100点)を持っている人が100年前に行ったとしたら、標準偏差により彼のIQスコアは130点を記録することになる。130点は「非常に優れた」IQスコアとして分類される点数だ。つまり、私はたちはどんどん賢くなっているのだ。それも非常に賢くなっている。

 フリン効果の原因が何であるかということについては、いまだに議論の的になっているところだ。しかし、単に私たちがテストを受けるのが上手になったからIQテストの点数が上昇したのではないことは確かだ。もしそうだとしたら、点数はIQテストの全ての項目において上昇しているはずである。だが、テストを受けることが普及した過去50年間においても、知識・算数・単語などの項目では点数はごくわずかにしか上昇していない。実は、点数の上昇は2つの項目にほとんど限定されて起こっていたのだ。IQテストのなかでも抽象的思考能力を特に要する2つの項目(そして、教育や慣習の変化による影響が最も少ない2つの項目)、「類似」と「行列推理」である。

 「類似」の項目で出てくる問題の例は「犬とウサギの共通点はなんですか?」である。あなたが「どちらも哺乳類だ」と答えられるなら、あなたは科学者のように考えることができているのだ、とフリンは言う。あなたは有機体を抽象的な類型に分類することができている訳である。「行列推理」とは、複数の抽象的な図形からパターンを判別して欠けているピースを推理する問題である。

「類似」と「行列推理」の項目において人々の能力が上昇していること(そして他の項目ではそれ程上昇していないこと)の理由は、広い範囲で起こった社会変革にあるかもしれない。社会は、より抽象的に考えることを人々に促すようになったのだ。19世紀まではほぼ全ての人が鋤や牛や機械を使って生きていたが、現代では単語・数字・記号を使って生きている人が昔に比べて遥かに多くなっている。私たちの経済は農業や工業的な経済から情報的な経済へと移行し、私たちに生活の全ての段階において概念的で抽象的な思考を行うことを求めるようになったのだ。

 フリン自身も、「科学の眼鏡」をかけて世界を観察する能力が人々の間で促進されたことがフリン効果が起こった原因であると考えている。私の主催する雑誌で彼にインタビューした際、フリンは心理学者のアレクサンダー・ルリアによる前世紀のロシアの小作農の推論能力についての研究に言及した。「ルリアが研究したロシアの小作農たちは読み書きができなかったのですが、彼らは仮説を真剣に扱うことにも消極的でした。『常に雪が降っているところから熊が来たと想像してください。また、常に雪が降っているところから熊が来た場合には、その熊は白い熊であると仮定してください。さて、北極にいる熊の色は何色でしょうか?』とルリアは言いました。小作農の返事は『俺は茶色い熊しか見たことがない。北極から来た老人が教えてくれるなら、俺も信じるかもしれない』というようなものでした。小作農たちは仮説的・抽象的なカテゴリに興味がなかったのです。彼らは具体的な現実に基づいて考えていました。『ドイツにはラクダがいません。Bという場所はドイツにあります。さて、Bという場所にラクダはいますでしょうか?』。『そのBという場所が十分に大きければ、ラクダはいるはずだろう 。それか、もしかしたらそのBという場所はラクダがいるには小さ過ぎるかもしれない』と小作農たちは答えました」。

 フリンと彼の同僚のウィリアム・ディケンスは、推論能力の上昇が数世紀前の産業革命から始まっている可能性もあったことを示唆している。産業革命は社会を工業化し、それまでの農業社会では必要とされなかった種類の認知能力を人々に求め始めたからだ。人々が複雑な機械を扱うようになったことと農村よりも複雑で多様な文化が存在する都市へと移動したことが合わさって、推論能力の上昇が始まる可能性も存在していた。しかし、推論能力の上昇は実際には1950年以降に起こったのだ、とフリンは言う。「1950年以降から、IQは新しくて変わったパターンで上昇し始めたのです。読解や算数など学校で教えられている内容に近い項目では、上昇は起こっていないか、起こっていたとしても微々たるものでした。それぞれの問題に応じて問題を解決する能力(on-the-spot problem-solving)を重視する問題で、大きく上昇が起こっていたのです。単語の中から共通項を見つけ出す問題・図形のパターンを分析して欠けているピースを見つけ出す問題・ブロックからパターンを作る問題・物語が伝わるように絵の順番を並べ替える問題、などです。産業革命によって人々は基本的な認知能力全般を向上させることを求められるようになりましたが、その後には、抽象的な問題解決能力の必要性を真剣に捉えて向上させることが求められるようになったのです」。これは筋が通っている。フリンによると、1900年のアメリカでは、マネジメント・医学・法律などの高度な認知能力が求められる職業に就いている人は3%しかいなかった。それが2000年には35%になり、現在でもその数は増え続けている。

 抽象的に考える能力が上昇した理由の一つは、科学的な思考方法…つまり理性的・合理的・経験主義的・懐疑的な思考方法が普及したことにもあるかもしれない。科学者のように考えることは、私たちの持つ知的能力の全てを駆使して、感情的・主観的・本能的な考えを克服することを意味している。また、科学的な思考方法は、物理や生物などに関する本質だけでなく、社会や道徳に関する本質についてもより優れた理解を追求することができる。政治学や経済学などの学問、人々はどのように配慮されるべきかということの抽象化などを行えるのだ。 

 
道徳的フリン効果

 

 人類における道徳の劇的な向上は啓蒙時代から始まった。今日の西洋社会に暮らすほとんどの人は、生命・自由・財産・結婚・出産・投票・言論・礼拝・集会・抗議・自律・幸福の追求などの権利を行使して生きている。リベラルな民主主義は独裁制神権政治を追い払い、最も普及した政治体制となっている。奴隷制や拷問は世界中のどんな場所でも違法となっている(今でも、時には奴隷制や拷問が実行されることはあるが)。死刑が存在している国も非常に減っており、2020年代のいつかにはこの世から死刑が存在しなくなる可能性も高い。暴力と犯罪は歴史的に少なくなっている。私たちは道徳の領域を拡大し、より多くの人を権利と尊重に値する人間コミュニティの仲間であると見なすようになった。一部の動物たちでさえも、感覚ある存在として道徳的配慮に値すると見なされるようになってきている。

 全ての道徳において、抽象的な推論と科学的な思考は基礎として欠かせない認識能力である。「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という黄金律と呼ばれるルールを実行するためにはどのように頭を働かす必要があるか、考えてみよう。自分から他人へと立場を変えることと、ある行為Xがその行為Xを実行する人や加害者にとってではなくその行為Xの対象となる人や被害者にとってはどのように感じられるかということを推定することが、黄金律を実行するためには求められる。黄金律は数千年前から存在していたが、過去の黄金律は今日に比べると非常に限定されたやり方でしか実行されなかった。ジェノサイド・幼児殺し・レイプ・他の部族の人々からの略奪などの物語に溢れた旧約聖書が良い証拠だ。

 今日では道徳の弧は正しい方向へと向かっていると思われる。その理由の一部は、心理学者のスティーブン・ピンカーが著書『暴力の人類史』で「道徳的フリン効果」と呼んでいるような現象が起こっていることにある*2。ピンカーは「(道徳的フリン効果という)考えは馬鹿げていない」と書いているが、私はピンカーよりもさらに強く主張しよう。抽象的な推論能力が全般的に上昇したことは、抽象的で道徳的な推論能力という特定の能力の向上…特に、私たちの友人知人でもなければ親族でもない人に関して道徳的に推論する能力の向上をもたらした、と私は考えているのだ。

 進化は、遺伝的に繋がりのある人たちに対しては優しく配慮する自然的傾向を私たちに授けたが、他の部族の人々に対して排外的・猜疑的・そして暴力的になる自然的傾向も私たちに授けている。だが、イヌとウサギを「哺乳類」というカテゴリにまとめるといった抽象的な推論をすることに私たちの頭脳がより適応するにつれて、黒人と白人・男性と女性・異性愛者と同性愛者といった人々を「人間」というカテゴリにまとめて考える能力も私たちは上昇させていったのだ。

 啓蒙時代の哲学者や他の学者たちは、科学の方法を意識的に採用することで権利・自由・正義などの抽象的な概念を生み出した。その後の世代の人々は、行列推理の問題を解くための思考方法を身に付けたのと同じように、権利や正義などの抽象的な概念を他人に適用して考えることも身に付けるようになったのだ。

 
証拠

 

 社会科学者たちは、様々な種類の知能と道徳的な価値観や行動の間につながりがあることを示す、検討に値する証拠を集めてきた。例えば、1980年代以降常に行われてきた膨大な数の研究が、知能や教育と暴力犯罪の間には負の相関関係があることを示している。社会経済的階級・年齢・性別・人種などで統計を調整したとしても、知能と教育が向上するにつれて暴力は低下しているのだ。

 新しい証拠はさらに興味深い。リテラシーと道徳的推論の間に正の相関関係があること、特にフィクション作品を読むことと他人の観点に立つこととの間の相関関係が強いことが示されているのだ。小説を読む際に登場人物の観点に立つためには、ある事象Xが自分の身に降りかかった時に自分ならどう感じるかということを理解できていなければいけないし、そのうえで行列推理の問題を解くのと同じように頭を働かすことが求められる。

 例えば、2011年、プリンストン大学神経科学者ユーリ・ハッソンの研究チームはある女性の脳を彼女が物語が読み上げている間にスキャンした。また、研究チームは彼女が読み上げた物語を記録して他の被験者たちに聴かせて、物語を聴かされている間の被験者たちの脳もスキャンした。脳の中の感情に関する領域は島皮質と呼ばれるのだが、朗読者と聴者たちの両方の島皮質が、物語の中の同じ特定の箇所で反応していた。物語の別の箇所では朗読者の前頭葉が活性化したが、それと同じ箇所で聴者たちの前頭葉も活性化していた。まるで、フィクションの物語が朗読者と聴者たちの脳を同調させているようであったのだ。

 2013年に心理学者のデビッド・コーマー・キッドとエマニュエル・カスターノによって行われた研究は、上質なフィクション文学を読むことと他人の観点に立つ能力との因果関係を明らかにするものだった。具体的には、他人の感情を読むことや他人が考えていることを視線から推測することなど、よく検証されている能力が計られた。そして、他人の視線を読んだり感情を判断したりする「マインド・リーディング」の能力は、事前にフィクション文学を読むという課題を与えられた被験者たちの方がそうではない被験者たちよりも明らかに上回っていたのだ。

 上記の研究は重要だ。なぜなら、フィクション文学を読むことによって他人の観点に立つ能力が向上するという因果関係の矢印がはっきりと示されているからだ。この研究は、他人の感情状態を推察することに興味があって上手なタイプの人々と小説を読む人々がたまたま同じ人々であるに過ぎない、という反論を否定するものである。

 正義や理性というテーマについては、適切にも「考えが足りない人は罰を増やす(Less Thought, More Punishment)」と題された心理学者のマイケル・サージェントによる2004年の論文を紹介しよう。サージェントは、「認知能力が多く必要とされる」状況(知能テストで出されるような問題を解くなど、頭を使う状況)と懲罰的な正義への要求の低下とに相関関係があることを示したのだ。この研究結果は年齢・性別・人種・教育・収入・政治的傾向などで調整したとしても変わらない。懲罰は犯された罪の内容に対応したものでなければならない、という啓蒙主義的な原則に基づいて考えるためには「比率」という抽象的な原則を把握していなければならない訳だ。比率の原則を把握しておくことは、全ての科学的な思考においても根本となることだ。

 ある人が他人を助けることに関する古典的リベラル傾向を持っているかどうかも、知能から予測することができる。「青年の健康に関する全米での長期調査」のデータが2010年に分析された結果、2万人の青年の間でIQの高さとリベラリズムの間に正の相関関係が発見された。総合的社会調査のデータは啓蒙主義的な古典的リベラリズムとIQとの関係の間に余計な要素が入らないようにして、さらに関係を明白化させた。より賢い人々は、政府は金持ちから貧しい人に収入を分配すべきだという主張に賛成する可能性が少なくなるが、歴史的な差別の補償として政府はアフリカ系アメリカ人を援助するべきだという主張に賛成する可能性は高くなるのだ。言い換えると、IQの効果は人々がどのように倫理的に配慮されるべきかという道徳的な領域で発揮されたのであり、経済的な調停という具象的な領域で発揮された訳ではなかった。

 上記の相関関係は、2008年にPsychological Science誌に発表された論文「賢い子供たちは啓蒙された大人になる(Bright Children Becone Enlightened Adults)」で心理学者のイアン・ディーリーと彼の同僚たちによって確認されていた。ディーリーたちはイギリスで調査を行い、同一人物の10歳の時点でのIQと30歳の際に抱く反人種差別的・社会リベラル的・女性の社会進出に肯定的な態度との間に正の相関関係があることを示したのだ。20年の間の間では潜在的に様々な要因が干渉する筈だが、それでも関係性は変わらず保たれていた。論文の題にある「啓蒙された」という言葉は、啓蒙主義に直接由来する価値観のことを意味している。ディーリーは「啓蒙」の定義をコンサイスオックスフォード英語辞書から直接引用している。「伝統よりも理性と個人主義を強調する哲学」。

 人々の経済的態度も、知能から予測することができる。特に、自由貿易はゼロ-サムゲームではなくポジティブ-サムゲームであるなどの抽象的な概念の理解が関わっている。自由貿易はポジティブ-サムゲームであるという概念は、経済的交換のほとんどは固定された富のパイを切り分けるゼロ-サムゲームである、という俗流の経済的直感とは相反している。経済学者のブライアン・キャプランとスティーブン・ミラーは、総合的社会調査のデータを調べた研究結果を2010年に発表した。論文には「知能は人々を経済学者のように考えさせる(Intelligence Makes People Think Like Economists)」と印象的な題名が付いている。キャプランとミラーは、移民の受け入れ・自由市場・自由貿易への支持と、政府主導の計画・保護主義的な政策・ビジネスに対する干渉主義への不支持とが、それぞれ知能と相関関係を持っていることを発見したのだ。

 具象的な思考は、人々を経済的部族主義へと導く。ポピュリストやナショナリスト的な、他の部族(現代の世界の場合では他の国家)に対するゼロ-サムゲーム的な態度である。抽象的な思考は、他の部族(国家)の人々のことを征服するか殺害しなければならない潜在的な敵と見なすのでなく、尊重に値する潜在的な貿易相手であると見なすように私たちを導く。

 民主主義的な傾向、特に法の支配も、知能から予測することができる。ドイツの心理学者ハイナー・リンダマンは、多くの国々から集められたデータセットを基に研究を行い、1960年から1972年までの期間における一般知能テストの平均点や学問的達成の程度を調査した。そして、この期間の知能テストの点数が、その後の1991年から2003年の期間におけるこれらの国々の繁栄・民主主義・法の支配の達成度を予測していたことを発見した。国々の繁栄の程度で調整しても、研究結果は変わらなかった。つまり、他の条件が全て同じであるのなら、抽象的に考えることがより得意な市民たちのいる国家の方がより繁栄して道徳的な国家になるのだ。

 

もう道徳的な愚か者にはならない

 

 もし道徳的フリン効果が実在しているなら(私は実在していると考えているが)、そこには人類の未来について肯定的な意味が含まれている。私たちが抽象的で複雑なテクノロジーと文化を拡大させると共に、道徳的な領域も拡大し続けることができるということになるのだ。

  20世紀初頭の人々は私たちよりも標準偏差2つ分頭が悪くて道徳面においても愚か者であった、という考えを受け入れるのは難しいかもしれない。人種やジェンダーに関する彼らの態度は現在の我々からすれば道徳的に馬鹿げてはいるが、50年後には私たちも同じように道徳面において呆れ果てた存在であると子孫たちから見なされてしまうことになるのだろうか? ある種の物事は文明を進歩させるし、その文明は「全ての人々の平等な権利」など相対的に永続的な原則に基づいている、ということを我々は学んでいるはずだ。私はそう信じている。

 道徳的フリン効果は進化に由来するものではなく文化的な効果であることをふまえると、この先の数百年や数千年において私たちにできることに生物学的な制限はかかっていないはずだ。道徳的な領域を拡大するために有効だと私たちが理解していることを適用し続ければ良いのだ。リベラルな民主主義と普遍的な参政権自由貿易と市場資本主義、財産権、市民権、法の下の平等、政治的境界と経済的境界の浸透性、旅行の自由など…私たちが数世紀をかけて学んで獲得してきた自由な社会における様々な特徴を適用するのである。今日の私たちは同性愛者の権利革命が新しく起こっている状況を目撃しているし、動物のための権利革命も登場しているところだ。より多くの場所でより多くの人々の生活を良くする方法について考えない理由はない。全ての人にとっての自由と繁栄の達成は、もはや私たちの手の届くところにある。私たちには道徳の弧を現在よりもさらに正しい方向へと向けることができるのだ。

 

 

 

なぜ人類のIQは上がり続けているのか? --人種、性別、老化と知能指数

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*1:

 

The Moral Arc: How Science and Reason Lead Humanity Toward Truth, Justice, and Freedom

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*2:

 

暴力の人類史 上

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