もしかしたらこのブログの読者ならご存知かもしれないが、私にはインターネット中毒の傾向がある。
特に、Twitterとはてなブックマークはついつい見てしまう。
会社でフルタイムで働きだすようになってからは本を読める時間が減った一方で、インターネットを見る時間は増えてしまった(仕事の合間にもブラウジングしてしまうことは可能なためだ)。
だが、中毒であるということは、なにも好きこのんで意欲的にネットを見ている訳ではないということだ。
むしろ、Twitterとはてなブックマークで見れるような人々の意見やコメントにはうんざりさせられることが多い。
ところで、ここ数ヶ月は、生活習慣や生活環境を変えたことで、学生時代ほどではないが多少は読書をする時間を取り戻すことができた。
そして、しばらくネットの海にひたった後に改めて読書を再開すると、ネットに書かれていることと本に書かれていることとの傾向の違いを以前よりも意識できるようになった。
西洋の倫理学を見てみると、ここ20~30年ほどは「徳倫理学」が復権している時代といえる。
徳倫理学といっても様々だが、それが復権する背景の一つとしては、近代や20世紀以降の西洋の倫理学や哲学の人間観があまりにも「合理的」なものであり、実際の人間が感じる幸福の本質を捉えきれていなかったり人間社会に現存する「道徳」の実態から乖離した抽象的な規範理論が唱えられてきたことに対する反動、という面がある。
そして、徳倫理学の復権は哲学の枠内にとどまらず、心理学や社会科学などの領域でも目覚ましい。
たとえば、以前にも紹介したジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』をはじめとして、ポジティブ心理学では徳倫理学的な"エウダイモニック"な幸福観が主流となっているようだ。
しかし、ネット上における言説では、「合理的」な人間観や幸福観がいまだに主流であるようだ。それも、かなり短絡的で浅薄なタイプの「合理性」である。
私がここで想定しているのは様々な言説であり、ひとくちにはまとめきれないのだが、ネット言論の特徴のひとつとして「コスパ至上主義」というものがあるように思われる。
いわゆる「原価厨」は嫌われがちだし、「趣味に惜しみなく投資して業界やクリエイターを支える」行為は賞賛されがちでもあるネット言説だが、「コスパ」や「効率」の重視は主流な価値観であると思われる。
ストロングゼロのブームをきっかけに、値段を据え置きのままアルコール度数がどんどん高くなるチューハイの新製品や、イオンだかトップバリュだかにおける驚異的な安さのビールなりウィスキーなりがネットで話題になり、それらを飲んでいることをアピールするSNS投稿やWEBメディア記事も盛んだ。
この傾向については「アルコール依存症を助長するのではないか」という批判や危惧の声も散見される。しかしその声はどうやら少数派のようであり、「日本社会で生きることがあまりに辛いんだから酒に逃げるしかないんだ」というような「ネタ」や「自虐」もまじえつつ、ストロングゼロや安いアルコール飲料を肯定する言説の方が主流はである。
そのため、常識的な範囲内のアルコール度数や値段の飲料を「ほどほど」に楽しむという、飲酒に関しては本来なら最も穏当で王道な言説がかき消されている感もある。
そしてコスパ至上主義は飲酒だけでなく飲食店に関する評価も見受けられる。
たとえば、サイゼリヤはちょっと異常なほどにポジティブな評価を受けており、サイゼリヤについて否定的なことを書くと炎上しかねない始末だ。他の安めのファミレスチェーンや、松屋などの牛丼チェーンも、基本的には高評価される。
それらのチェーン店が「値段のわりに美味しい」「コスパが良い」ことは認めるとしよう。しかし、一部の言説を見てみると、他に評価軸がなく「コスパが良いということは食事として優れているということだ」と言っているかのような転倒した価値観を感じることがある。
また、コスパの良いチェーン店を賞賛する代わりに、個人経営の飲食店の価値を認めなかったり貶めようとする傾向も一部にはある。
食事や飲食店というものには「優れたものを味わう」という鑑賞行為としての価値なり文化的価値なりも存在するはずなのだが、そういうものは後回しにされがちである。
あるラーメン漫画に「客はラーメンを食べているんじゃない、情報を食べているんだ」という旨の有名なセリフがあるが、ネットにおけるストロングゼロやサイゼリヤへの賛美には情報どころか「合理性」そのものが飲食の対象となっている節がある。つまり、その酒や飲食店が「コスパが高いこと」や「合理的に運営されていること」自体が評価や賞味の対象になってしまっていないか、ということだ。その裏返しとして、「非合理的」な個人経営の飲食店がディスられるのである。
(ついでに言うと、このような傾向はネットで「化学調味料」や「遺伝子組み換え食品」や「農薬付き野菜」がやたらと肯定的に評価される傾向とも関連しているように思える。もちろん、これらの食物について既存メディアで不当な批判がなされてきたことに対する反動という側面があることは理解しているのだが、それにしても肯定が過剰な気がするのだ)。
合理性への信奉は飲食物や飲食店への評価に限らない。
恋愛関係や家族関係などの親密な人間関係すらをも「合理的」に解釈して「効率的」に営む方法を紹介したり提案したりする、というタイプの言説がネットでは人気が出がちである。
つまり、人間関係を男女や家族の「利害」の一致という観点から分析して、"このように相手を扱えば自分の利益を最大化できる""このような「契約」を結べば互いに与える危害を最小化して、効率的な人間関係が営める"というライフハックなり一言アドバイスなりが目につくのである。
しかし、「契約」というものは見知らぬ他者と関わらざるを得ない公共の場における論理であり、利害や効率というものは市場の論理だ。それを私的な親密圏に持ち込むことは合理性の履き違いであり、人間関係の本質を外しており、本来なら人間関係から味わえる幸福や豊かな感情を損なうものである…という点はそれこそ徳倫理学が散々に指摘しているところだ。
そして、上記の記事でも触れたが、そもそも人間関係を築くことや努力をすることから逃避して趣味の世界に逃げ込むことを是とする安直な幸福観も散見される。これも、徳倫理学やポジティブ心理学の観点からすれば的外れもいいところだ。
ネットの言説にこのような傾向が生じる原因は、ネットでは「誰にでも物が言える」点に由来しているように思われる。
本というものを書ける人はなんだかんだで特別な存在だ。その人生経験や特異なアイデンティティゆえに本が出せる人もいれば、勉強や研究の成果が認められたうえで本を出せる人もいる。前者の場合は自身の経験や他人たちを観察したことから得られた「厚み」のある人間観や幸福感が期待できるし、後者の場合でも哲学や社会科学などの様々な文献から得られる客観的な人間観や幸福観が得られる。
しかし、SNS投稿がバズったりなにかのブログやよくわからないWEBメディアに記事を書く人たちの大半は、どこの誰かもわからないような人たちだ。彼らには大した人間経験がなく、知識の蓄積もなければ、文化的教養もロクにない可能性は大いにありえる。
「合理性」の特徴のひとつは、それが誰にでも頭で考えればたどりつける、ある意味で平等で民主的なものであることだ。
つまり、「なにか一言それっぽいことを言ってやろう」となった時に、経験や教養のない人でも、「合理的な主張」なら言えてしまうのである。そして、その主張を理解して共感する側にも経験や教養が必要とされない。
だから、みんながみんな、ときに現実から乖離して不毛ですらある「合理的な主張」を言い合ってそれにスターを付けたりリツイートをし合う、異様な状況が生まれているのかもしれない。