↑ 昨年の5月に触れた話題について、改めてちゃんと書いてみた。
日本で動物の権利を主張する団体の最大手であるアニマルライツセンターは、2016年からほぼ毎年、渋谷で「動物はごはんじゃない」というプラカードを掲げたデモ行進を行っている。
そして、2019年の6月1日は、「動物はごはんじゃない」デモに対抗する形で「動物はおかずだ」デモが行われた。
同年の5月に発表された「動物はおかずだ」デモの声明文には、以下のような文章が書かれている。
「しかし「動物はごはんじゃないデモ行進」は、自らが肉を忌避するだけでは飽き足らず、他者の権利や自由を否定し肉の撲滅を目論んでいる。」
「憎むべきは、ヴィーガンという生き方を選んだ人間ではない。他者の権利や自由を踏みにじる行為である。」
動物の権利を主張する言説や、それに基づいた菜食主義を主張する言説に対しては、上記のように「肉を食べる自由」や「肉食の権利」を想定した反論がなされることが多い。
このような反論に背景にある考え方を文章にしてみると、以下のようなものになるだろう。
「動物の権利を主張する人たちが自分の信条に基づいて菜食主義を実践することは構わないし、自分たちも菜食主義を行なっている人に干渉するつもりはない。しかし、菜食主義を主張する人たちが自分たちに菜食主義を他人に押し付けようとしたり、自分たちの肉食の習慣を批判することは認めない。それは、肉を食べる自由や肉食の権利に対する侵害であるからだ。」
このような反論は、動物の権利を支持しない人の間では説得力を持って受け入れられているようだ。しかし、当然のことながら、動物の権利を支持している人たちにとってはこのような反論は認められるものではない。
また、動物の権利を主張する言説に対して「肉を食べる自由」に基づいた反論を行うことは、ほとんどの場合、議論をすれ違いさせる結果になってしまう。
なぜなら、「肉を食べる自由」を主張する言説は、「現時点で、制度的に認められている権利」と「将来的に、道徳的に認められるべき権利」とを混同したものであることが多いからだ。
現代の民主主義社会では、権利や自由というものの多くは法的に認められている。たとえば生存権や参政権などは法律によって保証されているし、信教の自習や居住・移転の自由などは侵害してはならないものとされている。法律の他にもこれらの権利や自由の実現をバックアップする様々な制度が整備されており、人々の間でも「個人の参政権や信仰の自由などは保証されるべきであり、侵害されてはならない」という価値観は常識として浸透している。
だが、歴史を振り返ってみればわかるように、様々な権利や自由は常に保証されてきたわけではない。むしろ、歴史上の大部分において、大半の人々の権利は認められていなかったり自由が制限されてきたりしていた。
そして、歴史上のある時点までは認められていない状態にあった権利や自由が現時点で認められている状態になるためには、まず、その権利や自由は認められるべきだという主張が登場することを必要とした。そして、認められるべきだというその主張が一定以上の支持を得られることなどを通じて、それらの権利や自由を保証する法律などの制度が実現する……という過程を経てきたのである。
逆に言えば、現時点では認められていない権利や自由が、やがては認められるようになる可能性もある。「動物の権利を認めるべきだ」という主張も、もしその主張が広く受け入れられることになれば、やがては法律などの制度によって動物の権利が保証されることになるだろう。とすれば、現在の私たちに認められている権利や自由と動物たちに認められるべき権利や自由とは本質的に違いがないと言えるかもしれない。ただ、私たちの権利や自由はより早い段階で認められたために制度的な保証まで進んでいるのに対して、動物の権利や自由はまだ「認められるべきだ」という主張が行われている段階であるという、時間や順序の違いがあるに過ぎないのだ。
そして、現時点で認められていない権利や自由を認めるべきだという主張は、多くの場合に、その時点で認められている権利や自由の一部を否定することも意味している。
たとえば、18世紀のアメリカで行われた奴隷制廃止運動は「奴隷とされている人にも人権や自由を認めよ」という主張を前提としていたが、その主張は「白人が黒人奴隷を持つ権利」や「奴隷農場で生産された物品を購入したり使用したりする自由」を否定することも意味していた。
子どもの人権を認めよという主張も、親や周りの大人たちが子どもをコントロールする権利の否定につながる。
また、女性の参政権を認めよという運動は、当時の男性たちが暗黙のうちに前提としていた「女性を排除して男性だけで政治的意思決定を行う自由」を否定するものであったのだ。
これらの権利や自由のうちには、奴隷を持つ権利のように法律などによって明文化されて制定されているものもあれば、子どもの人権や女性の参政権などを認めないことによって間接的に存在していたものもあっただろう。しかし、明文化されていたものにせよそうでないにせよ、奴隷制廃止運動や女性の参政権運動などが行われることによって、それまでは当たり前のものとして認められていた権利や自由が否定されることになるのである。
「動物の権利」と「肉を食べる権利」の関係も、「奴隷の権利」と「奴隷を持つ権利」などとの関係と同じようなものである。ひとたび動物が自由を認められるべき存在であり理由もなく危害を与えられてはいけない存在であると認められたなら、動物の自由を制限して動物に危害を与える行為である畜産は認められないことになるし、畜産を前提とする「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」も認められないことになるのだ。
ここで認識するべきは、現時点では自明のものとして制度的に認められている権利そのものの存在の正当性が問われている、ということである。
「動物の権利」を主張する運動は、平等主義や反差別主義などの論理に基づいて、なぜ動物の権利が認められるべきかということの正当性を主張する。もし動物の権利に反論して「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」を擁護したいのなら、平等主義や反差別主義などの論理に対抗して、肉を食べる自由や権利はなぜ認められるべきかという正当性を積極的に主張しなければならない。つまり、自由や権利の根拠に関する議論が必要とされるのだ。
しかし、「動物はおかずだ」デモの声明文などを見てみても、「肉を食べる自由」や「肉を食べる権利」がなぜ認められるべきかという根拠が論じられていることはない。現時点で制度的に容認されている権利や自由であるから、それらの権利や自由は認められるべきである、としか読み取れないのだ。……しかし、上述してきたように、権利運動というものは、ある権利が新しく認められるべきであると主張すると同時に、現時点で制度的に認められている権利の自明さを否定するものだ。
「肉食の自由」や「肉食の権利」の正当性を立証する根拠も示さずに「肉を食べる自由や肉食の権利を侵害するな」と言うだけでは、反論として成立しないのである。