この本の8章、"Animal and Cultrual Practices"(動物と文化的慣習)の内容について簡潔にメモ。前提となっている理論は今朝にアップした記事を参照せよ*1。
娯楽における動物の利用の場合と同様に、宗教や民俗的な行事などの文化的慣習における動物の利用も、「利益に基づいた権利」論においてはその慣習が動物の権利を侵害しているか否かで認められるかどうかが判断される。つまり、動物に苦痛を与えたり動物を殺害したりするなど、動物の重大な利益を侵害するもような文化的慣習は認められないということだ。文化というものが人間の個人にも人間のコミュニティにも利益をもたらすものであることは著者も指摘しているが、その利益が動物の権利を侵害することを正当化するわけではないのである。なお、文化相対主義的な反論(「動物の権利や動物の福祉に関する西洋の基準は他の文化には当てはまらない」「ある文化の倫理基準によって他の文化の慣習を判断することはできない)は、この章の冒頭にてあらかじめ著者によって否定されている。
北米の先住民による捕鯨などにおいては「この文化的慣習はこのコミュニティにとって最も中心的なものであり、この文化的慣習がなくなるとこのコミュニティの文化的アイデンティティが失われてしまう」と主張されることもある。だが、そういう場合においても、動物の権利を侵害することが正当化される訳ではない。人々は文化に対して重要な利益を持つといっても文化とは可変的なものであるし、利益の対象となる文化的慣習がたった一つのみというコミュニティの存在は考えづらい。結局、認められるのは、その文化的慣習が物理的な生存に必要とされる場合(動物を狩猟して食べなければ生存が不可能な場合)のみである。
宗教的な慣習についてはどうか?まず、ユダヤ教のコーシャーやイスラム教のハラールなどの屠殺方法の問題点はよく指摘されることではあるが、そもそもユダヤ教やイスラム教を信じるうえで動物の権利を侵害することが必然的に要請されるわけではない。これらの宗教では動物を食べること自体が教義として求められるわけではないからだ。しかし、サンテリアなど、動物の生贄を教義として求める宗教も世界には存在する。この場合、「宗教の自由」という人間の利益に特別の重みを付けて、動物に対する権利侵害を正当化することはできるだろうか?…しかし、宗教に関する利益を他の文化的利益よりも殊更に重要なものと見なすことは難しい。「宗教的信念は他の信念と比べて不可変的なものである」「宗教からもたらされる利益は他の物事からもたらされる利益と比べてスピリチュアルなものであり、代替不可能である」「宗教は個人の倫理判断やアイデンティティの中核となる」などの理由が主張されることはあるが、だからと言って宗教的信念に基づいて他人を傷付けることを正当化するほどの理由にはならないし、動物を傷付けることについても同じくである。
ただし、現状の世界では西洋諸国も含めた世界中の地域で様々な形(畜産や動物実験などを含む)で動物の権利侵害が起こっているなかで、特定の文化の慣習だけを批判するのは偽善的であり不公平でないか、という批判は考えられる。これについては、まず、現実世界ではどんな物事の規制でも漸進的にならざるを得ないことをふまえると、「他の場所で動物の権利侵害がまだ規制されていないのに自分たちだけ規制されるのは不公平だ」という主張は通じない。とはいえ、実情としては、特定の慣習が動物の権利侵害として狙い打ちされる一方で工場畜産や動物実験などの大々的な慣習が放置されがちなことはたしかである。特定の文化的慣習を「動物の権利を侵害している」と批判するときには、動物の権利を侵害している他の文化的慣習に対しても同様に批判を行うことが前提となる。