道徳的動物日記

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「利益に基づいた権利」による動物の権利論(読書メモ:Animal Rights without Liberation)

 

 

 この本の著者のアラスデア・コクレーンについては、彼が書いた「動物の福祉 VS 動物の権利:誤った二分法」「人権から感覚のある存在の権利へ」という記事を訳している。この記事では、この本のイントロダクションと1章の内容をまとめて、この本の主軸となる「利益に基づいた権利」論を紹介しよう。

 

 動物の道徳的地位に関する議論では、ピーター・シンガーが『動物の解放』で論じたような功利主義に基づいた動物への道徳的配慮、そして功利主義の議論を批判する形で登場したトム・レーガンによるカント主義に基づいた「動物の権利」論、この二つの議論が古典となっている。功利主義では動物の道徳的地位は無条件に保証されるわけではなく、関係者全員の利益を考慮した結果によっては動物を利用したり動物に危害を与えることが認められることもある。一方で、権利論では動物の道徳的地位には権利という形で無条件に保証され、どんな場合であれど動物を利用したり危害を与えることが認められない。功利主義による議論はいまでも影響力があるし、レーガン流の権利論は現在ではゲイリー・フランシオンなどの論者に受け継がれているといってよいだろう。

『動物の解放抜きの動物の権利論』と題されたこの本では、功利主義では動物の道徳的地位が充分に保証されないとして「動物の権利」論が提唱されるが、レーガンが論じたようなカント主義的な権利論も否定される。レーガンはカントが人格について唱えたような「手段としてではなく目的そのものとして扱われること」の対象を動物に拡大したのだが、カントによれば、目的そのものとして扱われるためには道徳法則を理解してそれを実行するための推論能力や反省能力などの理性的能力が必要とされる。ほとんどの動物(や一部の人間)にそのような能力がないことが明白だ。レーガンは「生の主体」などのオリジナルな概念を導入してカント主義を動物に援用しようとするのだが、そもそもの理論が破綻している、というのが著者による批判である。

 そして、「権利」を主張するためにはカントの理論を用いなければならない、ということはない。著者は、ジョセフ・ラズジョエル・ファインバーグ、またはバーナード・ロリンジェームズ・レイチェルズが主張したような、「利益に基づいた権利」論を提唱する。この理論によると、理性的能力があるかどうかということは権利を持つ条件にはならない。その代わりに、その存在が何らかの重要な「利益」を持つことで、その重要な利益を保護するものとしての「権利」が発生して、他者に対してもその権利を守る「義務」を発生させる、ということである。

「利益に基づいた権利」論は、「自然権」や「自明の権利」という考え方も否定する。まず「利益」が存在しており、それを守るための二次的な道徳原則としての「権利」を主張する、ということだ。二次的なものはいえども、権利は権利なので、無条件に保証されることになる。つまり、功利主義の場合のように「状況によっては権利を侵害してもよい」という考え方は認められない。

 とはいえ、権利と権利が衝突する場合はどうするのか?まず、著者は権利が発生する「利益」とは、他者に義務を課すことが認めるのに充分なほど重要な利益に限られる、と説く。つまり、些細な利益の場合は権利が発生しない。そして、権利と権利が衝突する場合には、どちらの権利がより重要な利益を守る 「確固たる権利 concrete right」でありどちらの権利が「一応の権利 prima facie right」であるかを状況ごとに見定めて、前者を守る、ということが求められる。このような権利の軽重の算定は状況ごとに行わなければならないし、法的な手続きや政治的な手続きも必要とされる(人権が衝突する事例に関して、現在の社会で行われているのと同じことだ)。

 そして、レーガンやフランシオンの権利論では動物を利用したり動物を手段や財産として用いることは認められないが、「利益に基づいた権利」論では動物の利用が認められる場合もある。ただし、畜産や動物実験などは大半の場合で動物の重大な利益(それによって発生する権利)を侵害することになるので、認められない。認められるのはペットとして飼育することや映画などのアニマル・アクターとして動物を用いることなどである。

 この本の2章以降では「動物実験」「農業」「遺伝子工学」「エンターテイメント」「環境」「文化的慣習」のそれぞれの領域において、動物の重大な利益を侵害しているから認められない事例と、重大な利益を侵害していないので認められる事例とが、細かく論じられていく。このような繊細さが「利益に基づいた権利」論の長所と言えるし、逆にその曖昧さが「利益に基づいた権利」論の欠点ともみなされるだろう。