この本のスタンスは、序章となる「新しい動物倫理の必要性」の最後の段落に、おおむねまとまっているだろう。
たとえば、功利主義的理由のためにシンガー自身が、産業的な動物工場で育てられた農場動物の苦しみを改善する唯一の方法は、肉を食べるのをやめて、ヴィーガンでなければヴェジタリアンの食事を採用することだと論じている。少し考えればこの提案の怪しさが暴かれる。人々は、彼ら自身の健康を改善するため、あるいは彼ら自身の生命を救うために、内科医によってそうするよう助言されたとしてもステーキ、ホットドッグ、ハンバーガーをあきらめないだろう。それゆえ、彼らが哲学的議論によって、そうする可能性は限りなく低い。言い換えれば、成功する動物倫理は、論理的整合性があって、説得力があるだけでなく、実践可能でもあるように見えなければならず、それは人々が弁護し固執することができる現実的解決を提案しなければならないのだ。私たちが後で見るように、雌豚のための小さなストールを取り除くことは、豚の福祉においては大きな改善であり、養豚産業における大変化を要求することなく影響を与えることは難しいことではないのだ。
(p.16)
そして、「訳者あとがき」もこの本の立ち位置をよく示している。
シンガーとリンゼイの論理的帰結は、菜食主義を伴う「動物の権利」論である。それに対してローリンは、「動物の権利」という言葉を使うことがあるにせよ、常識から遊離することなく、実質的には「動物の福祉」と呼ぶのがふさわしい議論を展開してきた。したがって、とくに獣医倫理学において意味をなすのはローリンの作品だけである。なぜなら獣医療自体が畜産やペット飼育を前提としているからである。もちろん思想的にそれらを否定する立場は充分ありえるし、個人的倫理として実践することも可能である。だがそのような急進的な立場は一般に共有されることがないため、本来「慣習」を意味する「倫理」として機能しないのである。
(p.213)
つまり、極論や空論ではない、"常識的"で"使える"動物倫理を目指したという感じの議論だ。
とはいえ、この本のなかでローリンが主張しているような「動物の福祉」はあくまで動物本位な考え方であり、実践しようとなると畜産業や動物実験といった制度のあり方を大幅に変えて、それらの制度に従事している人たちに対してかなりのコストを要求するものではあるはずだ。「動物の福祉」の議論というと、現行の制度のあり方を前提としたうえでその範囲内で動物の痛みや苦しみをどう減らすか、という議論に落ち着くことが多いが、ローリンの主張はもっと大胆なものだ*1。
しかし、功利主義者であるシンガーを「動物の権利」論者としてみなすことは、やはり不当である。
そもそも、シンガーは「農場動物の苦しみを改善する唯一の方法」を「肉を食べるのをやめて、ヴィーガンでなければヴェジタリアンの食事を採用することだ」とは論じていない。それは「最大の結果を出す方法」であり、功利主義としてはその方法が(実現できるなら)ベストの方法だとは見なしているだろうが、それはそれとして「雌豚のための小さなストールを取り除くこと」といった漸進的で限定的な方法も「ほどほどの結果を出す方法」として肯定するのが、功利主義の特徴である。だからこそ、シンガーや他の功利主義者は「新福祉主義者」としてレーガンやフランシオンなどの「動物の権利論者」から批判される、という構図になっているのだ*2。……つまり、シンガーだってローリンと同じく「動物の福祉」を論じているのである。ローリンが畜産業などの制度の存在自体は認めるのに対して、シンガーはそれらの制度は究極的には廃止されるべきものである、と見なしているという違いはある。しかし、その違いは哲学的な議論においては重要であるだろうが、21世紀の現状の制度に対する具体的な提案や改善点の指摘というところでは同じような主張を導き出すものなのだ。
シンガーのような功利主義にせよ、レーガンやフランシオンのような権利主義にせよ、それらがあまりに現行の状況や常識に反していて"使えない"ものであるから、"使える"動物倫理を構築する必要がある……という議論は、ローリンに限らず多くの倫理学者が行なっているものである。だが、ザミールのEthics and the Beastについて評したときにも触れたように、こと動物倫理においては人々の"常識"の違いがあまりに大きすぎて、常識に基づいた議論はむしろ非生産的なものになりがちだ*3。ローリンは倫理学的な結論は「教える」のではなく「想起させる」こと、正論をぶつけ合う「倫理的相撲」ではない「倫理的柔道」の必要性を説いている。学校などにおける倫理学の教育や個人的に倫理学を学習するうえではローリンの言うことももっともであるが、関係者間の利害の対立を前提とする応用倫理の実践においては、「想起させる」ことはあまりに頼りない……人間には、自分の欲求や生き方やアイデンティティを守るためには特定の事実からいともたやすく目を逸らしてしまう「認知的不協和」が起こるからだ*4。だからこそ、「正論」を教えて叩きつける必要が生じるのである。
ローリンの倫理的主張の根拠となる「テーロス」論は、アドホックで曖昧であり自然主義的誤謬の感もあるというところで、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチとまったく同じ問題点を抱えているように思える*5。元ネタもアリストテレスという点で一緒だし。
なにより、『動物倫理の新しい基礎』の問題点は……これはザミールやヌスバウムなどの他の多くの倫理学者たちの議論にも当てはまるのだが……「つまらない」ということだ。哲学的な論証に力を割いておらず、常識や直感に依拠したアドホックな議論をしているために、シンガーや他の功利主義者の著書を読んでいるときに感じられるような論理のきらめきやスパークがないのである。
そして、先述したように、常識に依拠しているがために、実際に「使える」ものとなっているかどうかも微妙だ。「普通はそう思うでしょって言われても、わたしはそう思わないよ」と言われたらそこで話が終わってしまうような議論だからだ。「論理」には本人の主観を越えて有無を言わせず結論を認めさせる拡張性や強要力があるが、「常識」にはそれがないのである。
*1:ところで、「訳者あとがき」を読んでわたしが思い出したのは、ゲイリー・ヴァーナーによる以下の議論だ。
なお、世間的な意味においては、「動物の福祉/動物の権利」という二分法には「畜産や動物実験などで動物を利用して殺害することは認めるが、その過程における動物の苦しみを減らそうとする立場/畜産や動物実験などを一切認めずに廃止しようとする立場」という風なイメージがある。ヴァーナーは、現在のアメリカの獣医学や農学などの学問のカリキュラムでは、"動物の福祉主義者"たちは"私たち(獣医学者や農業従事者)"として好意的に扱われる一方で、"動物の権利主義者"は"私たち"と対立する危険で非科学的で狂った"彼ら"だとして扱われていることを指摘している。
環境倫理と動物倫理についての論文を雑に紹介 - 道徳的動物日記
*2:
*3:
*4:
*5: