道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「安楽死」をめぐる議論のおかしな構造

 

 7月23日に京都のALS嘱託殺人が発覚して医師二人が逮捕された事件を受けて、メディアやネット上でも安楽死に関する議論が盛んにおこなわれた。当初は、事件の特異性から「この事件をきっかけに安楽死についての議論を行うこと自体を、避けるべきである」という意見もよく目にしたが、けっきょく、賛成派も反対派もいつも通りの主張をおこなう展開に終始した感がある。

 どちらかの側が「いまは議論をするべきではない」と思っていても、別の側が自分たちの主張を唱え出したら、それに応答して議論を行わざるを得ない……というが、議論というものの厄介なところではある。「いまは議論をするべきではない」と思っていても、相手の側の主張を反論せずに野放しにしてしまうと、相手の主張ばかりが拡散されて自分たちの側の主張の影響力や説得力を相対的に弱まってしまうからだ。

 また、「いまは議論をするべきではない」という主張自体が、「いまこそ議論をするべきタイミングだ」と思っている相手の側からすれば、自分たちの意見に反対する側が自分たちの意見を抑圧しようとする行為だと思えてしまうだろう。相手の側としては、それにおとなしく従う義理はない。というわけで、「いまは議論をするべきではない」という主張もむなしく、けっきょく議論は発生してしまうものなのだ。

 このブログでも安楽死の問題は何度か扱ってきたが、改めて、安楽死をめぐる議論の構造そのものについてわたしが思っていることを、整理しよう*1

 なお、安楽死に関して本気で議論するなら、「積極的安楽死」と「消極的安楽死」や「自発的安楽死」と「非自発的安楽死」などの用語ごとの定義を明確にしたうえで、医療の現場における運用や各ケースにおける法律的な問題などの具体的な話をおこなうことが欠かせないはずだ。しかし、倫理学や法学などにおける専門的な議論はともかく、世間レベルでおける「議論」を見てみると、そのような細い定義や現場と制度のそれぞれのレベルにおける具体的な話にまで興味が向けられているとは思えない。

 だからこそ、漠然としたイメージとしての「安楽死」についてみんなが行なっている議論を整理したうえで、それに関する自分のコメントや主張を展開することにも、それはそれで価値があるはずだ。

 

 さて、安楽死賛成派の主張と反対派の主張は、以下の4つに大別できるように思われる。

 

:個人の自由や自己決定権、または幸福を重視して、安楽死に賛成する立場。

 病気になり自由に身動きが取れなくなったりすることで生じる苦痛が大きく、本人が「もう生きたくない」と判断したのであれば、安楽死は認められるべきだとする。

 

B:社会の資源の再分配や経済効率などの観点から、安楽死に賛成する立場。

 身動きが取れなくなったり苦痛に満ちた症状で生き続ける人に資源が投入されることで他の人に資源が行き渡らなくなり社会全体の効用が低下することや、医療費や社会保障費がかさむことで経済が悪化することを危惧して、安楽死のハードルを下げるべきだとする。

 

C安楽死が認められてしまうと、「生きたい」と思っている人に対しても安楽死を選択することを強制する圧力が生じるようになるはずだという前提にもとづいて、安楽死に反対する立場。

 家族や社会に対する申し訳なさや同調圧力から不本意ながらも安楽死を選択したり、公権力や福祉制度の不作為から「生きたい」と思っていても実質的に安楽死しか選択肢がなくなるような社会が到来することを恐れている。

 

D:人間の生命は神聖なものであり、生き続けることそれ自体に価値があるから、安楽死に反対する立場。

 ある人の生命の価値は、その人の自己決定権を凌駕するものだと考えている。

 

 Dの立場を正当化する根拠は宗教的なものにならざるを得ず、日本においては、すくなくともネットやメディアにおける議論ではあまり目にするものではない。

 Cの立場は、Bが存在することを前提としているだろう。安楽死そのものの是非には言及せず、Bの立場からの主張が影響力を持ってしまうことで、"安楽死を認めること"に伴う副作用が悪化する、という理屈だ。安楽死に反対する主張の大半は、Cの立場から主張されているようである。

 Bの立場は、まともな議論が成立する環境で見かけることはあまりない。要するに「社会全体のためには個人の命を犠牲にしてもよい」ということであり、あまりに悪役っぽい主張であるからだ。議論になったときにBの立場から説得力のある主張を展開することも難しいはずだ。しかし、維新の会の政治家である松井一郎社会学者の古市憲寿など、権力や影響力のあるような人物がBの立場であることを示唆するような発言をしていることもたしかだ*2

 Aの立場は、安楽死に賛成する立場としてはもっともポピュラーでスタンダードなものであるように思える。わたし自身も、Aの立場だ。自己決定権を重視するという点でリベラリズム的やリバタリアニズム的な理路で主張される場合もあれば、本人の苦痛の減少(=幸福の増加)を重視するという功利主義的で理路で主張される場合もあるだろう*3

 

 日本人のあいだでA・B・C・Dのうちどの立場が最も強いか、年齢層ごとや地域ごとや性別ごとにはどうなっているか、ということはわたしにはわからない。

 実際の支持者の数とは別にして、ネットやメディアにおける議論において最も"強い"立場であるのはCであるようだ。つまり、名前が通っていたり読者たちからの評価が高かったりする知識人や論客などはCの立場から主張することが多い、ということである。

 それと同時に、Cの立場は他の三つの立場とは位相が異なる。というのも、他の立場では主張の根拠となる「価値」を明確に示されているが、Cだけはそれを示していないのだ。

 Aの立場であれば「自己決定権」または「個人の幸福」、Bの立場であれば「社会全体の効用」や「経済効率」、Dの立場であれば「生命の神聖さ」と、それぞれがいちばん重要だと思っている価値が明確に示されている。そして、"その価値を守るためにはどうすればいいか"ということを考えた結果、安楽死への賛成または反対という結論がそれぞれに導かれる……という理路になっているはずだ。

 しかし、Cの立場からの主張は「価値」に基づいたものではない。基本的には、Cの立場はBの立場に対するアンチテーゼとなっている。Bの立場からの主張が力を持った世界で起こり得る、「全体のために個が犠牲となること」や「本人の意思とは相反するかたちで安楽死が行われること」に対する危惧ありきの立場なのである。

 

 Cの立場はAの立場と同じく「自己決定権」という価値に基づいたものである、と見なすことはできるかもしれない。つまり、安楽死が認められてしまった世界では、本人の意思ではなく国家や社会や身内からの同調圧力や強制にもとづいて安楽死を選択することが必ず発生するので、安楽死を認めてしまった方がむしろ「自己決定権」が侵害されてしまう、という理路である。

 この理路であれば、「同調圧力や強制にもとづく安楽死が行われる可能性」を排除できれば安楽死は認められる、ということになるはずだ。つまり、AもCも自己決定権の価値を認めているという点では同じであり、Aは「安楽死が認められていない現在に起こっている、自己決定権の侵害」を重視しているのに対して、Cは「安楽死が認められてしまった将来に起こり得る、自己決定権の侵害」を危惧している、ということになる。

 だが、実際には、Cの立場の人たちが自己決定権を重視しているようには思えない。たとえば、「自己決定権は幻想である」という考え方に多かれ少なかれ賛同している人が、Cの立場には多いようである。

 Cの立場の人たちが好むのは、「死にたい、もう生きたくない、と思う人がいなくなるような社会を実現することが先決だ」という考え方である。Aの立場の人が重要視している「現在に起こっている、自己決定権の侵害」という問題への解決策は、Cの立場から言わせると、安楽死を認めることではない。そうではなく、社会保障費や医療費への支出を拡大させて、病人や障害者や高齢者に対してわたしたちが抱いている意識を変革して、そして「責任」や「生産性」という概念に対するわたしたちの意識を変革することで、「死にたい、もう生きたくない」と思う人をいなくすることができる。だから、Aが重要視している問題はそもそも発生しなくなる……という理路での主張を、Cの立場の人たちはおこなうのだ。

 

 わたしがAの立場を代表してCの立場への反論をおこなうとすれば、以下の2点になるだろう。

 

1)Cの立場は「同調圧力や強制にもとづく安楽死が行われる可能性」を危惧しているが、それは、安楽死の制度や運用を工夫することで予防できる問題であるはずだ。たとえば、安楽死の実施過程で、本人が同調圧力によらない自分の意思で安楽死を選択したことが確認できなければ、安楽死は実施できない、とすればいい(医師や担当者が時間をかけて本人にヒアリングしたり、書類にサインするときに周囲からの誘導がなかったことを確かめたりする、など)。

 とはいえ、先述したように、Cの立場の人の大半はそもそも「自己決定」を疑っている。権力や同調圧力は無形でありどんな形で個人の意思に介入するか知れたものではないから、それを排除した自己決定は原理的に実現不可能だ、と考えているのだ。

 だから、この主張はCの立場の人からは却下されるだろう。

 

2)「死にたい、もう生きたくない、と思う人がいなくなるような社会を実現することが先決だ」なんて聞こえはいいが、それを実現するには経済的にも政治的にも膨大なコストや手間がかかるはずだ。仮に将来的にはそのような社会が実現するとしても、何十年後・何百年後になるかわかったものじゃない。そして、その社会が実現されるまでの間は「死にたい、もう生きたくない」という人は存在しつづけるのであり、彼らの自己決定権は侵害されつづける。

 また、そもそも安楽死が希望される理由の多くは身体的な苦痛やストレスであることをふまえると、経済や政治や社会の状態をいくら良くしたところで「死にたい、もう生きたくない」と思う人が発生することを完全に防ぐことはできないだろう。人間の苦痛やストレスを完全になくすレベルに医療や緩和ケアが発展することが必要とされるが、ほんとうにそれは実現可能なのか?

 ……とはいえ、Cの立場の人には、「理想的な社会」の必要性を強調するわりにその社会の実現可能性という問題からは目を逸らしたがる傾向が存在する。また、Cの立場の人は、身体的な苦痛やストレスという問題にもあまり興味を示さない。それよりも、「"障害や病気を負っている状態は苦痛やストレスに満ちあふれているはずだ"というイメージは健常者の偏見や差別意識の産物であり、実際にはそんなことはないのだ」という議論を行いたがるのだ。

 

 というわけで、AとCの間における「議論」は平行線になりがちだ。Bの立場からの主張は議論というレベルに至らないことが多いし、Dの立場の人はそもそも議論に参加する機会自体があまりない。だから、安楽死に関する「議論」なんてほとんどの場合に成立していないのだ、と言ってしまってもいいのかもしれない。

 

 とはいえ、改めて、”権利”や”義務”という言葉を使いながら、Cの立場とAの立場の主張のすれ違いを描いてみよう。

 Cの観点から見たら、こうなる。「現在、安楽死を望んでいる人」が安楽死を望まなくなるようにすること、そして「将来、安楽死を強制される人」が発生しないようにすること、それぞれについての義務が、「わたしたち」や「社会」には負わされている。安楽死を認めてしまうことは、両者に対する義務を果たさない行為である。

 一方で、Aの観点から見たら、こうだ。「わたしたち」や「社会」が安楽死を認めないことは、「現在、安楽死を望んでいる人」の自己決定権、つまり権利を侵害する行為である。彼らの権利を侵害しないために、わたしたちや社会には安楽死を認める義務がある。

 そして、Aの観点からすれば、Cの主張とは「将来、安楽死を強制される人」の生きる権利を守るために「現在、安楽死を望んでいる人」の自己決定権を侵害する行為に過ぎない。権利侵害を予防するために、別の権利侵害を発生させているのだ。もし仮に「安楽死を認めると、将来、安楽死を強制される人が発生する」という予測が正しいとしても、それを理由にして安楽死を認めないこととは、わたしたちや社会が負うべき義務を果たさずに、そのツケを「現在、安楽死を望んでいる人」に支払わせることであるのだ。……そして、「将来、安楽死を強制される人」は蓋然的で仮定的な存在であるのに対して、「現在、安楽死を望んでいる人」はいまこの世界に存在している人である。

 とはいえ、繰り返しになるが、Cの観点からすれば「自己決定権」は存在しないので、この反論は通じない。未来予測についても、Bに対する危惧の度合いがAとCとの間では、そもそも違うのである。

 ここまで来ると、もはや世界観の違いという領域になる。

 

 わたしは、Cの立場の人たちの大半は本心としてはDと同じく「生命の神聖性」を信じているのではないかと思っている。しかし、宗教に依らない世俗的な論理で「生命の神聖性」を主張することはむずかしい。だから、Bに対するアンチというかたちで、Cの論理を発展させたのだ。A・B・Dと異なりCだけは依ってかかる「価値」を持たないことも、CはあくまでDの隠れ蓑的な論理であるからに過ぎないかもしれない。

 ……上記のわたしの主張は藁人形論法であるし、Cの立場の人たちに対する人格批判にもなりかねないものだろう。だから、学問的な場で主張できるような内容ではない。しかし、Cの主張は他の主張に比べても前提の疑わしさや不安定さが激しいこと、それにもかかわらずここまで"強い"理論となっていることは、やっぱり不自然に思えて仕方がないのだ。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

news.yahoo.co.jp

 古市については、自著の小説などでは基本的にAの立場からの安楽死賛成論を主張しているらしいが、落合陽一との対談でBの立場に類する発言をしたことで炎上した経緯がある。

 

ddnavi.com

news.yahoo.co.jp

*3:ただし、功利主義的な理路で主張する場合には、効用の計算や起こり得る事態の予測の仕方などによっては、Bの立場にもCの立場にも転ずる可能性もある。