道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

「動物の福祉 VS 動物の権利:誤った二分法」 by アラスデア・コクレーン

 

www.casj.org.uk

 

 今回は、イギリスのシェフフィールド大学の政治学部で政治学理論の講師をしている政治学者アラスデア・コクレーンの記事を紹介。コクレーンは動物の権利・動物倫理に関する単著も出版している。

 原文が掲載されているサイトは「Centre for Animals and Social Justice」で、動物と社会正義について扱うシンクタンクである。この記事も、動物保護運動を行っている・賛成している人向けに書かれていると思われる。

 

「動物の福祉 VS 動物の権利:誤った二分法」 by アラスデア・コクレーン

 

 先日、イギリス保守党の下院議員サイモン・ハートが、RSPCA(Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals, 英国動物虐待防止協会)を「団体の動物福祉的な起源の影に隠れた、動物の権利団体」になりつつあると非難した*1。この非難の背景にある理由も(意外性がないとはいえ)興味深いものであるが、私が最も興味をそそられるのは、この非難の前提になっている考えだ。「動物の権利」と「動物の福祉」との間には基本的な違いがあって矛盾が存在している、という考えである。

 もちろん、この考えはハート議員だけが抱いているものではない。実際、動物の権利と動物の福祉という二分法は動物たちにより良い保護を与えることを目標に努力している人たちのことを区別するのに有意義で便利な方法だ、という考えはありふれている。

 しかし、私はこの二分法は誤っていると主張しよう。動物の保護についての考えや議論において、この二分法が普及してしまっている事態は無益である。 動物の権利と動物の福祉との間に根本的な違いは存在しない、と私は考えている。動物保護運動を行っている人たちはこの二分法によって自分たち自身を分割するべきではないし、他人から分割されることも拒否するべきだ。

 では、一般的には動物の権利と動物の福祉はどのように区別されているだろうか?多くの場合は、人間による動物の使用についてのそれぞれ違った考えであると表現されている*2。世間に定着している説明は以下の通りだ。動物の福祉という立場は、動物に対して不必要な苦しみを与えない限り人間による動物の使用自体には全く問題が存在しないと見なしている。他方で、動物の権利という立場では、生じる苦痛の量がどれ程のものかということには関係なく人間による動物の使用と搾取は全て拒否される。

 上述の二つの立場が動物保護運動の代表的な理念として見なされているのは、奇妙なことだ。そもそも、どちらの立場も、私たちは動物にどのように接するべきかということについての首尾一貫した考えであるという評価はさほど得られていない。さらに、動物保護運動を行っている個人や団体の中でも、動物の権利と動物の福祉とのどちらかの立場に従って運動を行っている人や団体を見つけることは難しい。例えば、自分たちは動物の権利という考えに基づいて運動を行っていると称している団体でも、実際には、動物に苦しみを与えることに対して反対活動を行うことが多い。

  実のところ、動物保護運動を行っている人と団体の大半は、動物の権利や動物の福祉よりも思慮深い考えを抱いているのだ。人間による動物の使用について、一部は完全に正当であると見なしているし別の一部は全く許されないことであると見なしているのである。

 例えば、猫をペットとして飼うことは動物の使用としても全く問題のない行為である、と大半の人は考えている。盲導犬や障害者の補助犬として犬を使用することについても、全く問題のない行為だと大半の人は感じている。同時に、人間が武勇を誇示するためにショットガンを持ってゾウを追い回すことは動物の使用としても全く許されない行為である、と私たちの大半は考えている。化粧品のために行う有害な動物実験にラットやマウスを使用することも、許されない行為であると私たちの大半は感じている。

 人間による動物の使用のうち何が認められて何が許されないか、ということについて全ての人が同じ意見を持っているのだと主張している訳ではない。そのような主張をするのは馬鹿げているだろう。動物保護運動を行っている人たちの間でも、人間による各種の動物の使用について、それぞれ違った意見が抱かれていることは明白だ。そのような意見の多様性が存在していることは予期できるし、成功している社会運動では歓迎される特徴でもある。私が強調したいのは、動物の使用は全て認められないという考えに基づいて運動を行っている動物保護団体は存在しないし、動物の使用は全て認められるという考えに基づいて運動を行っている動物保護団体も存在しない、ということだ。動物保護に関わる思想家や活動家がとっている立場は、動物の権利や動物の福祉という立場よりも遥かに繊細な立場なのである。

 さらに言うと、思慮深い唯一の立場とは上述したような繊細で洗練された立場であるし、このことは特に驚くべき事態でもないのだ。結局のところ、人間の使用という問題について論じる際にも、物事を黒か白かで判断する意見は思慮深いものではない。問題の文脈や事情について敏感でありながら考える繊細な意見こそが、思慮深い唯一の意見なのだ。例えば、ラジエーターを修理するために配管工を使用することが認められるのは明らかであるが、鉛管に問題が起こった時にはいつでもすぐに配管工を使用することができるようにしておくために配管工を地下室に監禁することが認められないのも明らかだ!

 同じように、これまで世間で考えられてきた動物の福祉と動物の権利という二つの立場は、どちらも首尾一貫していないし、動物のより良い保護を求める思想家や活動家たちを分別するのに有意義な二分法でもない。では、動物保護運動において、動物の福祉や動物の権利という言葉を使う意味はあるのだろうか?

 意味はある、と私は考えている。ただし、動物の権利や動物の福祉という言葉は、動物のために闘っている人たちの間の共通点や団結を表現するために使われるべきである。

 まず、動物たちの経験している窮状が気がかりであり彼らに保護を与えたいと思っている人たちは、全員が福祉主義者である。つまり、動物たちのために戦う人たちの動機となっているのは、動物たちの福祉であるということだ。動物たちは自分たち自身の生を過ごしており、その生は楽しく過ごせるものになる場合もあれば耐え難いものになる場合もあるという事実こそが、私たちが動物たちの窮状について懸念する理由である。感覚があり、意識があり、経験をできる全ての生き物たちが抱く苦しみへの配慮こそが、動物保護運動を成り立たせて結びつけるものだ…だから、根本的には、動物保護運動に参加している人々は全員が福祉主義者なのだ。

 そして、動物保護運動に参加している人々の全員が動物の権利に携わってもいる。私たちの全員が、動物の使用の一部はまったく許されないのであり禁止されるべきだ、という考えを共有している。この考えは、必然的に動物の権利に携わることを要求する。もちろん、動物を巻き込む慣習のなかでもどの慣習が禁止されるべきでありどの慣習は禁止されるべきではないか、ということについては私たちの間でも意見の違いがあるだろう。だが、上述したように、そのような意見の違いは健全な社会運動にとっては避けられないことである。認められない習慣が存在しているということに私たちが同意していて、動物たち自身のためにその習慣は法的な強制力を用いて禁止されるべきだということに同意しているのなら、私たちは動物の権利に携わっていることになるのだ。

 要するに、動物の権利運動を行っている人たちは自分たち自身を「福祉」や「権利」というラベルで分割するべきでないし、他人から分割されるべきでもない、と私は提案したいのだ。むしろ、動物の福祉と動物の権利はどちらも価値があり矛盾せずに両立する考えなのだ。重要なのは、動物の福祉と動物の権利という考えは、動物たちにより良い保護を求める人たちを結び付ける核心となる考えであるということだ。

  

 

 

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)

Animal Rights Without Liberation: Applied Ethics and Human Obligations (Critical Perspectives on Animals)