道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

マーサ・ヌスバウムによる動物の「繁栄・開花」/「可能力アプローチ」論と、その問題点

 

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 

 

 

 ドナルドソンとキムリッカの『人と動物の政治共同体』を読んだついでに、同じく政治哲学の視点から動物を扱っている、マーサ・ヌスバウムの『正義のフロンティア』の第6章「"同情と慈愛"を超えて」も、ぱらぱらと読み返してみた。

 

『正義のフロンティア』は「障害者・外国人・動物という境界を超えて」という副題の通り、ジョン・ロールズの『正義論』のような社会契約の枠組みでは排除されたり上手く扱えない立場の存在について、政治哲学的に配慮の対象とする方法を探る、的な本である。

 通常の社会契約論では動物は配慮の対象にならないというのは、考えてみれば明白である。ほとんどの動物は人間のような合理的な道徳的主体ではなく、互恵性や協力をする能力やルールを守る能力を持たないために、契約能力がないからだ。それらの能力を持っている動物はいるとしても限られているし、人間が持つ複雑な能力に比べればかなり限定的であったり異なる種類のものであったりするし、例えばある生物種の動物同士の間では互恵性や協力が存在するとしてもその動物が人間との間に互恵性や協力を結べるとは限らない。社会契約には「資源が限られている状態でお互いが争い合うと相互に傷付いてどちらも損をするから、お互いの利益のために契約を結ぼう」という相互利益の観点から行う側面もあり、そしてある資源(食料や居場所など)をめぐって人間と動物が競争する状況にある事例は十分に想像できるが、大半の場合には人間は動物に対して圧倒的に強くて有利な状況にあるので、相互利益の観点から行う契約も成立しない。人間は自分が傷付くことなく動物を排除することができるから、わざわざ契約を結んで妥協してやる必要がないのだ。そんなこんなで、社会契約論によって動物を配慮の対象に入れることは難しい、とヌスバウムは論じる。「動物に対して残酷な人々は人間に対しても残酷になるだろうから、人間同士の間の残酷を防ぐために動物に対する残酷も防ぐべきである」とか「動物も苦痛を感じる以上は動物に対して残酷になるべきではないし、社会契約の当事者に対して負うのとは異なる種類の義務(同情や慈愛の義務など)は存在する」などの間接的であったり曖昧な道徳的義務は主張できるかもしれないが、動物を直接の対象とする道徳的義務を社会契約論から明白に論じることは困難であるのだ。尚、社会契約論において障害者を配慮の対象に入れようとする時にも、動物の場合と同様の様々な難点が生じることも指摘されている*1

 しかし、社会契約の当事者にはなれないとしても、動物たちはそれぞれの動物なりに「善(Good)」を持っている存在である。「善を持っている」というのは、要するに、あることが起こったり物事がある方向に変わったらその当人にとって良かったり嬉しかったり快適に感じられること、あるいは悪かったり苦痛だったり不快に感じられることが存在する、というような意味だ。また、動物たちはそれぞれの生物種に基づいた仕方で「繁栄・開花(Flourishing)」をするための「可能力・潜在能力(Capability)」を持っている。適切な環境があれば犬は走り回って群れで遊んだと犬らしい行動をとるし、牛にせよライオンにせよイルカにせよ、動物たちにはそれぞれにその生物らしく生きて「繁栄・開花」する可能性を抱えているのだ。ある動物が自分の「可能力」を「繁栄・開花」することは、その動物にとって善である。そして、動物たちがその種らしく生きているところを目にした時、私たち人間は、驚嘆を覚えて感心する。また、何らかの環境や状況のために動物たちが自分たちの種らしい生き方をできない場合には、そのことは良くないことだという倫理的判断を私たち人間は下す。これらの事柄をふまえると、動物たちが「繁栄・開花」するための「可能力」を害しないようにしたり積極的に維持や保証をしてやることは道徳的義務だということができるし、動物が社会契約の当事者になれないからといって動物の「可能力」を無視する理由はない。これがヌスバウムの「可能力アプローチ」である。「このアプローチにおいて重要なのは、動物には幅広く機能するための可能力が、そして繁栄・開花した生活つまり各々の生き物の尊厳に見合った生活にとってもっとも本質的な可能力が、権原としてあるということである。動物は正義に規定された権原を有している」(p. 446)*2

 

 ヌスバウムは、守られて尊重されるべき、動物の「可能力」のリストを以下のように挙げている。ただし、このリストが絶対唯一のものであるとはヌスバウムも主張しておらず、あくまで一つの例としての大まかで一般的なリストとされている。

 

(1)生命:「功利主義のアプローチは感覚性にのみ焦点を合せるため、動物の自覚的な利害関心のひとつが持続する生命である場合を除いては、生命への権原を動物に与えない。可能力アプローチでは、そのような自覚的な利害関心があるか否かにかかわらず、苦痛と老衰によって死が危害となるまでは、すべての動物にはそれぞれの生命を維持する権利資格がある」(p.447)。…私の見解によれば、動物の利害関心に「持続する生命」が含まれないとしても、動物が幸福を感じ続けられるなら(幸福の総量が増加するために)その動物を生き続けさせるべきである、という主張を功利主義が行う場合もあるはずである。「持続する生命」に対する利害関心を重要視するのは功利主義の特徴というよりもパーソン論の特徴であるはずだ(パーソン論の中には功利主義以外のものも含まれるし、パーソン論を採用しない功利主義が存在する可能性もあるはず)。ともかく、ヌスバウムは「虫や、他の感覚性が無かあるいは最小限の生命の形態を扱う場合には、この権原はそれほど頑強ではない」(p.447)としている。感覚性にこだわる功利主義を批判する一方でヌスバウムも感覚性を重視しているのであり、曖昧な感じがする。また、年老いており苦痛を感じ続けている動物を、十分な考慮を行ったうえで安楽死することも認めており、生命を絶対視している訳でもないようだ。

 功利主義には「動物を殺すことによって人間が得られる利益や効用の方が上回るのなら、動物を殺すことは認められる」という結論が導き出される可能性が常に存在しており、動物に多大な苦痛や死を与えている制度である食肉産業すらも肯定してしまう危険性が常に存在している、ということをヌスバウムは指摘する。一方で、可能力アプローチでは利益や効用の計算を度外視して動物の生命を尊重することを求めるし、「搾取しかつ虐げる仕事には、権原がない」(p.448)として食肉産業を否定することができる。そのために可能力アプローチの方が優れている、とヌスバウムは主張している*3

 

(2)身体の健康:健康的な生活に対する権原。このことをふまえると、動物を殺さないとしても不健康な状態にさせ続ける動物園や水族館は問題とされる。

 

(3)身体の不可侵性:怪我をさせられないことや、その他の形で身体に介入されないこと。動物に暴力を振るうことはもちろんダメだし、人間の都合のために動物を改造すること(見た目を良くするために犬の尻尾を切る、家具を傷付かないようにするために猫の爪を切ることなど)も、その動物がその種らしく繁栄・開花することを妨げるのでダメである。

 ただし、「…不妊手術は個々の動物の生活に特段の影響を及ぼさないが、個体数の過剰増加とその結果生じる食料不足と餓死放置、これらを防止することによって、将来の動物の生活をよりよくするだろう」(p.450)ということでOKとされている。人間に対する強制的な不妊手術は「人間の生活において特に重要な、ある特定の自由と選択への権原を侵害する」(p.450-451)から問題だが、動物の場合にはそうでないとされているのだ*4

 

(4)感覚・想像・思考:人間の場合には、教育が保証されることや言論や芸術的表現の自由、また宗教の自由などの権原があるとされる。動物の場合には宗教や言論への権原は必要とされないが、楽しい経験を過ごすことへの権原は必要とされるし、退屈な生活を強制されない権原も持つ。つまり、ほとんどの動物園(や工場畜産)のように生活に刺激のなく移動の自由も保証されていない、ストレスと退屈さに満ちた環境は道徳的に否定される。また、ペットとして飼われる犬や猫のトイレ・トレーニング、また人間による訓練がなければその種らしく走り回ることができない多くの品種の馬などの事例では、それらの動物には教育への権原があるとされる。

 

(5)感情:身体的な苦痛を受けない権原のみならず、悲しみや孤独や恐怖といった負の感情を抱かされない権原も動物は持っている。動物に様々な負の感情を引き起こす、心理学的な動物実験は問題とされる。また、愛着やケアなどのポジティブな感情への権原も動物は持っているとされる。

 

(6)実践理性:人間だけでなく動物もそれぞれの種なりの理性を持っているので、それを発揮するための環境への権原がある。

 

(7)連帯:「…動物に特徴的な形態の絆及び相互関係に携わること」(p.453)への権原。群れで生きることが最適な動物には群れで生きることへの権原があるし、親子関係や友情関係への権原もある。ただし、野生の動物の群れでは年老いた個体や雌などの弱者が虐待されることも多いが、群れとしての自然なあり方は維持されるべきだがあまりにもひどい暴力は制御されるべきだとされている。

 

(8)ほかの種との共生:たとえば、人間と共に生きることで幸せになれる家畜動物には人間と共に生きることへの権原がある。

 

(9)遊び:退屈にならないことへの権原や移動の自由への権原があることの延長線上で、その動物の種ごとの遊びができるための適切な環境への権原も動物は持つ。

 

(10)自分の環境の管理:人間の場合には政治的なものと物質的なものがあるが、動物の場合にも、自分たちの利害が様々な意思決定の場で考慮されることへの権原があるとされる。動物たち本人は意思決定に参加できないとしても、後見人として動物たちの利害を代表する人間が参加すればよい。

 

 この他にも様々な可能力がリストに追加される可能性がある、とされている。

 

 

 …さて、ここで、功利主義者のピーター・シンガーによる、ヌスバウムへの批判を紹介しよう。

 

www.utilitarian.net

 

 ヌスバウム功利主義が特に動物の問題において一定以上の貢献を成し遂げてきたことを明記しつつ、功利主義における理論的な問題点を様々に取り上げて批判しており、シンガーはそれに対する反論を行なっている。しかし、ここではそのことは脇に置いておいて、ヌスバウムの「可能力アプローチ」に対してシンガーが向けている批判を紹介したい。

 

 可能力アプローチはアリストテレス的な「自然法」倫理の変種と言えるものであり、「自然法」倫理が抱えているのと同様の問題を可能力アプローチも抱えている。つまり、「自然であることは善いことだ」「人間(動物)にとっての自然的な性質なら、それは人間(動物)にとって善いことだ」という発想が根底にあるのだ。これは、「ナイフの目的は切ることにあるので、善いナイフとは鋭いナイフである」という理屈を人間や動物にも当てはめて「人間(動物)はある目的のために存在しているのであり、善い人間(動物)とはその目的を達成する人間(動物)である」という目的論的な人間観が抱かれていたアリストテレスの時代には説得力があったかもしれないが、現代に通じる理屈ではない。自然科学的に考えれば、人間(や動物)が持つ様々な性質は、価値中立的であり何らかの目的や意志が介在しない自然淘汰のプロセスによって進化してきたものであるからだ。

 ヌスバウム自身もこの問題は意識しており、「自然であることは善いことである」という主張を否定しようとしているとはいえ、動物や人間にとって「繁栄・開花」することは善であるという彼女の主張が「自然であることは善いことである」という主張からいかにして区別されるかは明白ではない。たとえば、人間にとって「繁栄・開花」することが善いことであるとすれば、大量の女性を集めてハーレムを作り自分の子供を孕ませまくる男性は、人間という種らしい行為を行っているために他の誰よりも「繁栄・開花」していると言えるだろうし、その男性のハーレムに参加できている女性も「繁栄・開花」していると言えるかもしれない。人間は狩猟採集民時代から他集団に対する戦争や虐殺を行ってきたが、戦争や虐殺を行うことは人間の「繁栄・開花」のために必要なのか?もっと穏当な例を挙げるとすれば、例えば人間は泳ぐことができるが、「泳ぐ」ことは人間にとっての「繁栄・開花」なのか?プールや海が近くていつでも泳げる人間は「繁栄・開花」している人間であって、近くに泳ぐ場所がない人間は「繁栄・開花」していないのか?…いや、泳いだりハーレムを作ったり虐殺したりするようなことが「繁栄・開花」をしていることであるとはとても言えない、とヌスバウムが主張するとすれば、彼女は「可能力」や「繁栄・開花」という言葉に対して、「その種らしい行為をすること」以外の別の価値判断に基づいた意味をこっそり導入しているということになるのだ。

 実際、上述してきたように、ヌスバウムは「人間が食肉産業を運営することによって動物を殺すことは、人間の可能力を繁栄・開花させていることとは言えない」「動物の個体数が増えることを防止するためには、動物の不妊手術を行うことは認められる」「動物の群れにおける自然なあり方であっても、個体に対する重大な危害が看過される訳ではない」といったように、「繁栄・開花」論だけでは導き出せないような、様々な価値判断を行っている。動物のその種としての性質が何でもかんでも「繁栄・開花」することが必ずしも善であるとされているわけではないのだ。だが、あるタイプの「繁栄・開花」は"なぜ"善くて別のタイプの「繁栄・開花」は"なぜ"善くないのか、異なる「可能力」が衝突してトレードオフが生じた際に片方が選ばれるべき理由は "なぜ"であるのか、あるいはその種らしい自然な行為であっても善ではないので「繁栄・開花」と呼ぶことはできないのは "なぜ"であるのか、…その "なぜ"をヌスバウムは明示していないことが問題となる。そして、シンガーによると、ヌスバウムは彼女が散々に否定している功利主義に頼るしかないのである。たとえば、「その可能力が繁栄・開花すればその動物の選好は満たされる、またはその可能力が繁栄・開花しないとすればその動物の選好は満たされないために、その可能力が繁栄・開花することは善である」あるいは「その可能力が繁栄・開花すればその動物は幸福を感じることができる、またはその可能力が繁栄・開花しないとすればその動物は苦痛を感じてしまうために、その可能力が繁栄・開花することは善である」という風に定義すれば、選好や幸福とは関係のない性質や能力までをも可能力だとみなして「繁栄・開花」せよと主張する必要は無くなるし、異なる可能力が衝突した際にも選択を行うための基準として幸福や選好を参照することができる。しかし、こうなると可能力アプローチは功利主義の一種に過ぎなくなるだろう。…結局のところ、ヌスバウム功利主義を否定しつつ「可能力アプローチ」を主張したいのなら、ある「可能力」が「繁栄・開花」することは重要で善であり他の「可能力」が「繁栄・開花」することは重要ではなく善ではないということは "なぜ"であるかということを示すための基準を明示しなければならないのである。

 

 …その他、ヌスバウム功利主義に対して「効用の比較不可能性」「洗脳・適応的選好形成を排除できない」「非道徳的な結論を導き出す可能性を排除できない」「人間の個別性を考慮しない」といったお馴染みの批判を行っている。これらに対しては上記の記事でもシンガーが反論を行っているし、他の様々な論者が書いた著作でも、功利主義の立場からの反論を参照することができる(なので、ここでは取り上げない)。

 

 …読み返していて思ったが、『人と動物の政治共同体』に比べると遥かにマシであるとはいえ、『正義のフロンティア』もかなり場当たり的で曖昧な理論を用いた議論を行っており、動物をめぐる問題において生じることが明確であるはずのトレードオフやその他の困難について、耳触りの良い綺麗事を並び立てることで目を逸らしている節がある。おそらく倫理学に比べて政治哲学は扱う問題が複雑で具体的になり過ぎるし、配慮しなければならない事柄が多すぎるために、功利主義のように一貫した理論を主張するよりも曖昧で総花的な議論を行わざるをえない傾向があるのかもしれない。でもやっぱり読んでいてイライラするので、政治哲学よりは倫理学の本を読んでいる方が楽しい。

 

 

 

 

 

*1:『人と動物の政治共同体』では、動物たちの行動や能力の一部を恣意的かつ大袈裟に取り上げたり「規範」や「主体」といった言葉の意味をかなり拡大解釈することで、動物たちにも「規範に従う能力」とか「利害を表明する能力」とか「主体」とか「主権」とかが存在するのでありそのために動物は政治的な配慮の対象となったりするし動物たち自身も政治的主体であるのだ、という議論が行われていた。以前の記事でも書いたが、これはかなり無理があり説得力に乏しい議論であるように思われる。社会契約に動物を参加させるのは難しい、ということを早々に認めるヌスバウムの議論の方が妥当であり潔いように思われる

*2:ヌスバウムの議論において、動物たちが「善」を持っていることと、私たちが動物たちの「繁栄・開花」に驚嘆することと、どちらがどれくらい重要であるか、ということはややこしくて、理解しづらい。私が「正義」という(倫理学的というよりも政治哲学的な)概念をよく理解していないということも悪いのだが、ヌスバウムの議論を読んでいても、私たちが動物の繁栄・開花した生活に驚嘆を覚えるということがなぜ動物が正義の対象になることにつながるのか、という理屈がちょっとよくわからない。たとえば、人間の進化の歴史が現在存在するものとはちょっとだけ違っていたために他の動物の繁栄・開花の仕方について感嘆する能力を人間が備えていなかったとすれば、動物は正義の対象とならないということになりそうだ。あるいは、極端に金銭主義的な物質主義的であるために自然や美しい物事に対して感嘆するということを忘れてしまった人々ばかりが暮らす国では、動物に対して人々が感嘆することもないので動物は正義の対象とならない、ということになるかもしれない。だが、人間が感嘆するかどうかということがそこまで重要で本質的なことであるようにはとても思えない

*3:功利主義は、計算の結果、食肉産業や奴隷制などの非道徳的な制度を認めてしまうかもしれない」という危険性はよく指摘されることだが、食肉産業が動物に与える苦痛や奴隷制が奴隷に与える苦痛の重大さとそれらの制度によって得られる利益の相対的な軽小さについて真剣に計算してみれば、功利主義がそれらの非道徳的な制度を認めてしまうことはありえないし、そのような危険性は杞憂である、というのが功利主義の側の言い分だ

*4:私も動物への不妊手術は認められて人間への(強制的な)不妊手術が認められないことには同意するが、それは、セックスを奪われることは動物にとって大した危害ではなく、そして個体数の過剰増加を防ぐことは大きな利益になる、と考えているからだ。人間の場合には「自分のセックスや妊娠の機会は無理矢理奪われてしまった」と意識することができてしまうし、動物とは違ってセックスができなかったり子供が作れなくてもセックスをすることや子供がいる生活について想像をして自分の現状と比較することが人間にはできてしまうことなどのために、人間に対する強制的な不妊手術は動物の場合とは異なって様々な苦痛を引き起こすだろう。…しかし、動物がセックスできなかったり妊娠できなかったりすることがその動物のその種らしい「繁栄・開花」を損なわない、という理屈にはとても納得できない。セックスや妊娠がその種らしい「繁栄・開花」でないとすれば、他のほとんどの行為も「繁栄・開花」ではなくなるだろう。この点に関しては、ヌスバウムは自分の理論の問題点から目をそらすために無茶苦茶な主張を行っているように思える