道徳的動物日記

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「アニマル・ウェルフェア」の多様な意味(読書メモ:『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』⑤)

 

 

 第29章「ウェルフェア」の執筆者はクレア・パルマーとぺテル・サンデュ。どちらも倫理学者であり、前者についてはこのブログでも過去に何度か取り上げている。また、両者はコンパニオン・アニマルの倫理についての共著も出版している*1

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

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 まずは「アニマル・ウェルフェア(動物福祉)」をめぐる一般的な議論から。

 

…アニマル・ウェルフェアは、かなり物議をかもしたり、争いの種になったりするのだが、それは概して、人間の利益に対する配慮と、アニマル・ウェルフェアに対する配慮とのバランスをどうとるかについて意見が一致しないからである。たとえば、しばしば主張されるのは、科学的実験が人間の病気を治す一助になるのであれば、動物実験は、たとえアニマル・ウェルフェアを損ねることになろうとも認められるといったようなことだ。この場合、人間の利益に必要ということでアニマル・ウェルフェアを損ねることがあるとしても、それを最小限におさえることが、アニマル・ウェルフェアの努力目標となる。同様に農場飼育動物のウェルフェアを向上させる努力も、人間は食肉、乳、卵のために動物を飼育することは容認されていると最初から決めてかかっているところがある。そのためウェルフェアの努力目標は、動物たちがその過程で不必要に苦痛を受けなくて済むよう保障することとして矮小化されてしまう。

アニマル・ウェルフェアは往々にしてこういったかたちで定められるため、人間の利益のための動物利用を容認しない人々は、アニマル・ウェルフェアをめぐる概念をまるごと否定する(本書、第1章[廃止論]および第22章[権利]参照)。しかし、これでは赤ん坊を湯水と一緒に捨てる〔不要なものと一緒に大事なものまで捨てるという意の慣用表現〕ことになる。アニマル・ウェルフェアは、動物自身の観点に立つことで価値を生むものとして理解されるため、動物の世話にたずさわるすべての人々にとって関連性を有しているはずなのである。本章では、感覚をそなえた[センシェント]動物たちにとって重要なことは何かーー「良きウェルフェア」とは何かーーについての考えを深めることになろう。…

 

(p.724 - 725)

 

 人々は昔から動物の苦痛に対して関心を抱いており、1822年にはイギリスで世界初の動物虐待防止法が成立したが、現代的なアニマル・ウェルフェア概念が誕生したのは1964年にルース・ハリソンが出版した『アニマル・マシーン』を受けて1965年に発表されたブランベル報告書(『集約畜産システムにおいて飼育される動物のウェルフェアを調査する専門委員会による報告書』)においてである。

 それまでの動物虐待防止法は「悪意による」苦痛を予防するもの(意図的な虐待を禁ずるもの)であったのに対して、効率的な食糧生産[工場畜産]の過程で生じる苦痛の予防を目的としたことが、ブランベル報告書の革新的な点であった。

 ブランベル報告書は「動物たちの欲求が満たされないときに苦痛が生じる」と理解したうえで、「行動欲求」の阻害も苦しみを生じさせるということが指摘されていた。つまり、単純な「痛み」は生じないとしても、閉じ込められたり動けなくされたりすることで何らかのかたちの「苦しみ(不快感やストレスなど)」が生じる、ということである。

 ブランベル報告書でなされている訴えは、後に「5つの自由」にまとめられて、動物福祉という概念の基本となる。

 

  1. 飢えと渇きからの自由
  2. 不快からの自由
  3. 痛み・傷害・病気からの自由
  4. 恐怖や抑圧からの自由
  5. 正常な行動を表現する自由

動物福祉について|公益社団法人日本動物福祉協会

 

 パルマーとサンデュによると、ブランベル報告書には以下のような限界があった。

 まず、「苦痛の不在」のみに焦点が当てられており、肯定的ウェルフェア(喜びなどのポジティブな状態)が無視されている。

 次に、ブランベル報告書は、「不要な苦痛」さえ取り除ければ工場畜産という制度そのものに問題はないとした。このため、バタリーケージといった現代では問題視されている慣行も容認されてしまったのである。

 そして、ブランベル報告書はあくまで動物の「主観的経験」に焦点を絞っており、動物の「性質的行動」を考慮することはなかった。

 

 ここから、「ウェルフェア(福祉/福利/厚生)」という概念についての本格的な議論がはじまる。

 まず、不快な状態が取り除かれているだけでは、人であっても動物であっても「幸せ」な状態とはいえない。むしろ、不快な状態を多少残っていても、快適な状態が充分に存在することのほうが幸福には不可欠だ。そもそも不快な状態のなかには避けようのないものもあるが、快適な状態を経験することで、不快な状態に折り合いをつけて対処することができる。また、ある種の快楽は、不快な状態を経由しないと経験することができない。

 ブランベル報告書のように主観的な経験という観点によってのみウェルフェアを理解する考え方は、いわゆる「ヘドニズム」に属するものであり、一定数の功利主義者が採用しているものだ。しかし、だれかが「幸福」であったり「良い状態」であったりするかどうかを測る際に、当人の主観のほかの指標を参照することは、人間の場合にはごく一般的に行われている。動物のウェルフェアについて測る際にも同様の発想が必要となるだろう。

 たとえば、屋内で飼われているネコはやがて屋外に出ることに興味を無くして部屋の中で暮らし続けることに満足するかもしれないが、それはネコが「適応的選好」を形成してしまったからかもしれない*2。たとえ重い病気にかかったり自動車に轢かれてしまうリスクがあるとしても、ネコは屋外に出れたら様々な喜びを経験できるかもしれないし、ネコの飼い主の多くは屋内飼いによって不快な経験のリスクを減らすか外に出すことによって快適な経験をより多く与えるかについて悩んだことがあるだろう*3

 ロバート・ノージックが「経験機械」の思考実験によって功利主義を批判したように、ウェルフェアについてどう考えるかということは、哲学の分野において問われ続けてきた問題とつながってくる。

 

 パルマーとサンデュは、バーナード・ローリンの「テロス論」やマーサ・ヌスバウムの「潜在能力アプローチ」などを参照しながら、ウェルフェアを測る際には主観的経験のみならず「性質的行動 natural behavior」も参照しなければならない、と論じる[ロリンもヌスバウムアリストテレスの「ユーダイモニア」論に基づいた議論をしており、ヘドニズムとユーダイモニア論は幸福論において有名なライバル関係にある]*4

 

この考えが意味するのは、動物が性質にしたがって生きれば、良い経験を得られるはずだというものでありーー本質的には快楽主義的観点である。あるいはこういう意味かもしれない、つまり動物にとって性質にしたがって生きることが、結果としての経験とは無関係に良いウェルフェアを生成するということだ。どちらのアプローチも一理ある。快楽主義観から一歩も出ない最初のアプローチでさえも、実際に動物の生活を豊かにすることでアニマル・ウェルフェアを向上させられることを人々に意識させるのに役に立つ。

 

(p. 733 - 734)

 

 ただし、ただ単に性質的行動を重視すればいいというものではない。「人間は、人間性[human nature]に基づいて生きれば幸せになれる」という一般論は人間の多様性を考慮していないために、批判されたり役に立たなかったりする。同じように、動物たちも個体ごとに多様であるうえに、コンパニオン・アニマルや家畜は品種改良によって生物種そのものを変化させられているのだから、「動物の性質はその種によってすっかり決まっているわけではない」(p.735)。

 また、性質的行動が不快な主観的経験を生む場合も多々ある。オス同士が闘うことが自然であっても、闘いによってストレスや怪我が生じる。それをふまえると、闘いを避けるために去勢して攻撃性を減らすほうが良いかもしれない[猫エイズなどの病気のリスクを避けるためにネコの去勢や避妊手術を行うことも、多くの飼い主が行っていることだ]。

 かように、ひとくちに「アニマル・ウェルフェア」といっても多様な定義や考え方が含まれており、統一した評価基準を作成することは困難である。パルマーとサンデュは、農場間を比較してウェルフェアをスコア化することを目指したEUの大規模プロジェクト「ウェルフェア・クオリティ」を紹介したのちに、そのプロジェクトすらも評価基準の統合に失敗してしまったと批判する*5

 

 ここでパルマーとサンデュが持ち出してくるのが、「動物の自律性」という発想だ。人間が動物たちのウェルフェアを測ることに限界があるなら、自分のウェルフェアについての動物自身がどのような好みを示すかを見てみればよい、ということである。

 

人間性心理学[ヒューマニスティック・サイコロジー]の考え方を適用しながら[テリー・]メイプルが主張するのは、動物は困難に直面しそれを乗り越えようとし、一層奮起しているとき、自己実現への契機を必要とすることだ。メイプルの主張では、動物園動物の理想的健康のために求められるのは、「ただ動物園側の制限や要求へ対応するだけではなく、あらゆる行動の発露へ準備を整えさせ、元気旺盛な状態に達するよう」動物を促す「刺激的環境」である。これは、性質的行動をとるための機会を動物に与えるという考え方と、彼らが自分の志向で選択でき、自分たちの生活をできるだけ自己規制できる動物の自律性[アニマル・オートノミー]という考え方の両方にかかわっている。

 

(p. 739 - 740)

 

「動物の自律性」という発想の問題点は主に二つ。

 まず、動物はときとして自己破壊的で有害な選択を行なってしまうかもしれない。人間の場合には愚行権が認められるとしても、多くの動物は、人間の大人のように自分の選択について反省的に検討したり帰結を理解したりする能力は持っていない。……したがって、人間の子どもの選択に保護者が介入するのと同じような、ある程度のパターナリズムはやはり必要となる。

 また、ある程度の自由が与えられているコンパニオン・アニマルや動物園の動物たちとは異なり、畜産や動物実験のために農場や研究所で飼育されている動物たちに自律性を与えるというのは、そもそも難しい。……もっとも、嗜好性試験という手法によって、管理下の動物が何を望んでいるかということもある程度までは測れるようだ。しかし、嗜好性試験においても「適応的選好形成」の問題が生じてくる。

 

 本章の最後のほうでは、「アニマル・ウェルフェア」という概念が初期には「重い苦痛を与えないこと」を意味していたが、現在では「繁栄[性質的行動が取れること]と自律性」が強調されている、ということが改めてまとめられる。

 また、現代的なアニマル・ウェルフェア概念は完全論[perfectionism]と見なすこともできれば、依然として広義の意味でのヘドニズムだとも見なせるということが指摘されている*6

 そして、動物の権利論者や廃止論者はアニマル・ウェルフェア概念そのものを全否定するかもしれないが、実際問題として、人間の利益とアニマル・ウェルフェアのバランスをどのようにとるかという議論はいまなお重要なのである……と、パルマーとサンデュは述べる。

*1:動物倫理に関する洋書の「ほしい物リスト」はこちら。いただいたところでいつ読めるかはわからないけど。

www.amazon.co.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:これについては、とくに都会に住んでいたり飼育知識があったりするタイプの日本人の飼い主なら、「屋外に猫を出すなんて言語道断で選択肢のうちに入らない!」と反応する人も多いだろう。わたしの見聞からしても、アメリカ人の飼い主の多くは日本人よりも外飼いに肯定的だ。パルマーとサンデュは、別の論文において、外飼いを必ずしも肯定しないが室内飼いの問題点も指摘しているようである[Chat Gptに論文を要約させた]。

philpapers.org

*4:

 

 

 

*5:

www.welfarequality.net

*6:ピーター・シンガーヌスバウムの潜在能力アプローチについて結局は功利主義に基づくものだという批判を行なっている。

philpapers.org