第20章「理性」の執筆者は、カント主義の哲学者クリスティン・M・コースガード。なかなか難しい内容であった。
本章の冒頭では、道具を用いて、天井の外に吊るしてあったり檻の外に置いてあったりしたバナナを入手することができたチンパンジーのサルタン(ヴォルフガング・ケーラーの実験)について紹介しながら、人間を他の動物から区別するのは人間が「理性的 rational」であったり「理性 reason」を持っていたりすることである、という見解について論じられる。
…社会科学においては、合理的行為が通常意味するのは、分別ある行為(自分自身にとって最も利益になることを行うこと)ーーあるいは道具的合理性〔以下の説明にあるように、目的と関連づけられ目的と連動して働く理性のこと〕による行為(つまり自分自身にとって最も利益になるかならないかにかかわらず、希求している目標を達成するためなら何でも行うこと)である。この意味において、ある人物の行動が合理的[ラショナル]であると言うとき、通常、それはその誰かの主観が、一定の分別や道具的合理性の基準によって支配されているということをも意味している。すなわち、その人物には、自分のためだと信じていることをする動機があるということを、あるいは目標が何であれ、それを達成させてくれると信じていることをする動機があるということを、したがって、その人物は自身の信念によって動機づけられているということを意味しているのである。…
(p.509)
…サルタンのようなケースが示している通り、道具として有効な〔道具的理性に適う〕動物の行動のすべてが、必ずしも本能的・自動的なものだとは言えない。知的な動物は、本能が教えてくれないことについては、自分で頭をひねるものである。また動物たち自身の視点から見ても、それこそがまさに動物たちの試み、つまり目標達成のために頭を働かせることだということを疑う理由はないのである。ところがカント派の伝統に連なる哲学者たちは、サルタンのような動物が知的な道具的思考に従事するときでさえーーすなわち、希求している目標をいかに達成するべきかを考えているときでさえーーその動機は必ずしも「理性的/合理的」であることを示していないと主張するだろう。こうした哲学者たちの議論によれば、合理的動機に伴う自覚とは、行動の基になった考慮[consideration]が、その行動の理由であるという自覚なのである。行為主体は自分がしていることに対し理由を持っていると私たちが言うとき、私たちが暗に示そうとしているのは、その行為に対する評価基準ーーその行為は何らかの点で「筋が通っている reasonable」あるいは「合理的 rational」であるという基準ーーが存在しているということである。そして、その行為主体はある程度は目論見通りにその基準を満たしているということである。したがって、自分がある理由のためにふるまっているのを知っているということは、評価基準がそのふるまいに適用されたことを知っているということである。しかるべきふるまい方、ないし当然のふるまい方があるのを知っているということである。もしくは、そうふるまうのが適当ないし正しいというのを知っているということである。そして、その自覚によって、いくらか動機づけられているということである。サルタンのような動物、つまり、ある手段を取ることで自分の求める目標に到達できることを知った動物は、そのように動機づけられていることの規範的適正について考えることなく、ただその手段を取るという決断によって動かされているのかもしれない。…
(p.510 - 511)
要するに、目的を達成するための手段についてあれこれと思考できるという点では動物も道具的理性を持っているとは言えるが、目的そのものについて批判的に思考する能力はないため、動物は真の意味では理性的/合理的であるとはいえない、というところだろうか。
最近の倫理学で重要なタームとなっている(らしい)「理由」という単語については以下のように説明されている。
理性はまた、私たちに「理由」ーー信念や行為に奉仕する特定の考慮や動機ーーを特定させる能力と同一視される。この意味における理由というのは、合理的原則によって選別された考慮/動機[consideration]か、心の積極的な能力という意味での「理性」によって直接把握された考慮/動機ということになるのかもしれない。通常、私たちは、行為が何のためになされたのかを正当化し、かつ説明するために、あるいは少なくともその行為を理屈の通ったものにするために、理由に頼る。私たちに、行為主体の理由が何かわかっているならば、その行為主体に状況がどのように映っているか、なぜその行為主体がそうした行為に駆りたてられたのかがわかる。<理性/理由>をこのような意味に捉えれば、他の動物が人間と同じように、理性/理由に応じてある行為をしたりしなかったりしていることは明らかである。一匹の動物が檻の柵に身体をぶつけていると仮定すれば、なぜそうしているのかと私たちは問うだろう。柵を壊すか曲げるかして、檻から脱出しようとしているのだという答えなら、動物には状況がどのように映っているか、その状況に対して何をするつもりであるか、私たちはいくらか把握しているので、その理由が何であるかを見て取ることができるだろう。いや、そうではなく、檻に閉じ込められているせいで、動物が心を病んでいるのだという答えなら、彼の行動には原因があっても、その行動が、理由のためになされたということにはならない。理性/理由をこのような意味に捉えれば、サルタンに二本の棒を組み合わせるようにさせた理性が、サルタンに檻の外に置かれたバナナに手が届くようにさせたことは明らかである。
(p.513 - 514 )
人間は動物とは異なり自分が抱いている理由が適切なものかどうかを問い直すことができるので、動物とは異なり人間の信念や行為には規範的な性質が備わる。また、人間に特有なタイプの理性のこの特徴(反省的であること?)が、科学を発展させてきた。
そして、多くの人々が「道徳は人間に固有の特徴だ」と思っている原因でもある。
理性が道徳に関連するという考え方にも、いくつかの種類がある。多くの哲学者は、人間が理性的であること自体が、わたしたちの存在や生命に価値を付与する、と主張してきた。キリスト教的な「人間は神の似姿」論や、イマヌエル・カントとその後継者による「 すべての理性的存在者は目的自体として扱わられなければならない」論など。
また、権利と義務について理解して、道徳や規範によって互いに束縛し合うためにも、理性が必要となる。理性的存在者である人間は法律や社会契約などに合意して道徳システムに参加できるが、動物はそうではないから道徳的配慮の対象外となる、という考え方はかなり一般的なものだろう。
もうひとつは、いわゆる「パーソン論」的な考え。ある存在が理性的であることはその存在により高度なアイデンティティ意識を抱かせて、それによってその存在が自分自身の生命に対して持っている利益や賭け金を大きくするが、高度なアイデンティティ意識を持たない非理性的な存在が自分自身の生命にとって持っている利益や賭け金は僅かだから、人間の生命に対しては動物の生命に対してよりも重大な配慮が必要である、という発想だ。
「理性を持たない動物に対する道徳的配慮は必要がない」という考え方に対する批判として頻出するのが「周辺的事例からの議論」*1。人間であっても他の人たちと同じような理性を持たない人々は多々いるが(乳幼児、痴呆症の高齢者、重度精神的障害者など)、わたしたちは彼らを道徳的配慮の対象とする。ならば、彼らと同程度の理性を持つ動物たちも道徳的配慮の対象にしなければ「種差別」である、という議論である。
周辺事例からの議論に対して、コースガードは理性をさらに「記述的」なものと「規範的」なものに区別したりしながら、コメントを行なっている。コースガードは周辺事例からの議論を提出する人たちが意図している結論……痛みの感覚があること[センシェンス]だけで、人間[と動物]を道徳的関心の対象とするには十分である、という結論……を必ずしも否定しないようだが、たとえば乳幼児が現時点では理性的でないとしても他の動物と異なり人間は理性的存在者として機能するように「デザインされ」ているのだから、ある人が人生の一時点で表出させている属性ではなく、その人の人生の全体を代表する属性に基づいて判断すべき、と述べているようだ(そして、どうやら、生まれつき理性的ではない人についても人間と「異なる種類の生物」であるわけではないから、その人についても他の人間たちと同じような配慮が必要である……と主張しているようだ)。
いずれにせよ、コースガードの結論は「人間は理性を持っているからこそ動物に対して義務を負う」といった、かなり多くの動物倫理学者がこれまでに論じてきたような、スタンダードなものだ。ポストモダン的な「理性主義はよくない」という批判を免れるために「理性」の定義を無理に弄って「動物だって理性を持つ」(または「人間ですら理性を持たない」など)と主張するタイプの主張に比べると、穏当で好感が抱ける。
以下、最終段落から抜粋。
[前略]…たとえ合理的/理性的であることが人間特有の性質だとしても、それはユニークな道徳的価値の源ではなく、異なる種類の道徳的立場の源となるものかもしれない。…[中略」…理性を所有していることは、動物のなかでただ人間のみが、世界を共有[シェア]している他の動物たちに対し、道徳的義務を負っているということなのである。
(p.524)