某所の連載で動物倫理についても何回か書くことになりそうなので、ピーター・シンガーの『動物の解放』を久しぶりに読み直している。
『動物の解放』では『実践の倫理』ほどに倫理学的な議論が詳細に行われているわけではないが、動物倫理の問題について語るうえで必要となるポイントは、第一章でばっちりと示されている。シンガーの主張の根幹である「利益に対する平等な配慮」の原理についても説明されているし。
そして、改めて読んでいて思ったのだが、以下の箇所はとくに重要だ。
多くの哲学者や著述家たちが、基本的な道徳原則として、なんらかの形で、利益に対する同等の配慮という原則を提唱してきた。しかしこの原則が私たちの種に対してと同様に他の種の成員にも適用されるということを認識した人は多くはなかった。ジェレミー・ベンサムは、このことを認識した少数者の一人である。黒人奴隷たちがフランス領では解放されたが、イギリス領ではまだ私たちが今日動物を扱うようなやり方で扱われていた時代に書かれた進歩的な文章の中で、ベンサムは次のように述べている〔P・シンガー編『動物の権利』戸田清訳、二三〜二十四頁)。
人間以外の動物たちが、暴政によっておしとどめることのできない諸権利を獲得する時がいつかくるかもしれない。皮膚の色が黒いからといって、ある人間にはなんらの代償も与えないで、気まぐれに苦しみを与えてよいということにはならない。フランス人たちはすでにこのことに気づいていた。同様に、いつの日か、足の本数や皮膚の毛深さがどうであるから、あるいは仙骨の末端〔尾の有無〕がどうであるからというので、ある感覚をもった生きものをひどい目にあわせてよいということにはならないということが、認識される時がくるかもしれない。いったいどこで越えられない一線を引くことができるのだろうか?分別をもっていることだろうが、それともおそらく演説する能力だろうか?しかし、成長した馬や犬は、生後一日や一週間、さらには生後一ヶ月の人間の乳児に比べても、明らかに高い理性をもち、大人の人間との意思の疎通もスムーズにできる。だが馬や犬がそうした意思疎通の能力を持っていないとしたら、人間の役に立つだろうか?問題となるのは、理性を働かせることができるかどうか、とか、話すことができるかどうか、ではなくて、苦しむことができるかどうかということである。
(『動物の解放(新版)』、p.28から。強調は私がつけた。)
関連するものとして、ちょっと前に公開されたわたしの文章も引用しよう。
…功利主義は、私たちの意識の外側にある「結果」をも考慮に入れる。そのために、ある社会ですっかり定着していて常識とされている慣習や制度についても、それが引き起こしている結果を冷静に見つめ直すことで問題の存在を発見して、異議を唱えることが可能になるのだ。創始者であるベンサムやJ・S・ミルの時代から、功利主義は奴隷制度に反対して、女性を男性と平等に扱うことを求めて、同性愛者に対する差別を非難して、さらには動物に対しても道徳的に配慮する必要性を説くことができた。功利主義者は権利を批判するとはいえ、現代の社会に定着している「権利」 の多くは、功利主義者たちによって発見されてきたものであるのだ。
一方で、「権利」という発想だけに頼る人は、すでに制度的に認められている権利ばかりを重視してしまい、法律などで権利が制定されていない存在に対しては目を向けられなくなってしまうおそれがある。18世紀にアメリカやフランスで採択された「人権宣言」が、女性の権利も、白人以外の人々の権利も考慮に入れていなかったことは象徴的だ。現代においても、動物の権利運動は、「肉を食べる権利」などの「人権」が障壁となって阻まれている状態にあるといえるだろう。
功利主義には他の倫理学理論にはない特徴と利点がいくつかある。実用性という観点から言えば、トレードオフの問題についてスタックやバグを起こさずに考えられる、というところが最大の利点であるだろう*1。
その一方で、功利主義は「社会ではまだ気付かれていない道徳的な問題を"発見"する」 という機能を持っている点でも優れている。功利主義によれば、だれかが苦しんでいて、なにかの利益が平等に配慮されていないなら、それだけでなんらかの道徳的な問題が存在することになる。「権利」や「尊厳」をベースとした道徳では、道徳的な問題を発生させるための条件がくどくどと付け足されてしまうために、こうはいかないのだ。
そして、功利主義がきわめて理性的な道徳であるというのも、もちろん重要だ。スナウラ・テイラーやローリー・グルーエンが行なっていたような「ケア」や「共感」のような感情に訴える倫理にせよ、トサヒ・ザミールやバーナードー・ロリンが行なっていたような「広く共有された信念」や「常識」に訴える倫理にせよ、その感情や常識を共有しない相手には、まったく通じようがない。「自分はそうは思わない、自分はそうは考えない」と言われたらそれで終わりだ。しかし、感情や常識とは違い、理性は有無を言わせずに伝播させることができるものだ。ある人が誤った価値判断をしていたとしても、その人が想定している前提やおこなっている推論に間違いがることを示されたら、その人は価値判断を修正せざるを得なくなる。すくなくとも「自分が間違っている」ということを認めざるを得なくなるし、それを嫌がって理性的であることを放棄したとしてもその人が「負けた」ということは本人も周囲も認めることになるだろう。
スティーブン・ピンカーやマイケル・シャーマーは、シンガーが『輪の拡大』でおこなった議論を下敷きとしながら、人類による道徳的配慮の対象の拡大の歴史は感情ではなく理性によってドライブされていることを論じていた、という点も忘れるべきではない*2。
以上のことをふまえると、『動物の解放』の序章で「動物好きといいながらハムサンドウィッチを食べる女性」が当て馬として紹介されながら、感情や共感ではなく理性に基づいた道徳が強調されている、というところにはかなりの慧眼や洞察が含まれているということがわかる。一部のフェミニスト倫理学者たちはそれに反発を抱いて「動物に対するケアの倫理」を説いたわけだが、いつまで経っても、わたしには彼女たちのやっている議論は本末転倒なものであるとしか思えない。いま現在、彼女たちのおこなっている議論がバカにされたり矮小化されたりせずにまともに耳を傾けるべき議論として真剣に扱われているのは、その前にシンガーのような論客たちが理性によって動物への配慮が「真剣に扱われるべき問題」であるということを人々に説得できたからなのだ。