道徳的動物日記

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アニマルライツとフェミニズム

 

The Feminist Care Tradition in Animal Ethics: A Reader

The Feminist Care Tradition in Animal Ethics: A Reader

 

 

 

 ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか

 

・上記のSutaro氏の記事にも書かれているように、Twitterにてフェミニストのシュナムル氏が「ハーゲンダッツを食べた」という旨の発言をしたことに対して、ヴィーガンRac氏が「フェミニストなのに乳製品を肯定するのか」と批判しことをきっかけに、ヴィーガニズムフェミニズムに関わる議論がにわかに巻き起こったようだ。その議論にはいわゆるTwitter論客も多数参加していたようだが(そして、その大半は反・ヴィーガニズムの主張をしていたようだが)、私はTwitterでの議論とは基本的に不毛なものであると思っているので参加しなかった。しかし、フェミニズムアニマルライツ(の理論及び運動)との関りは私の学生時代の研究のテーマでもあったので、この議論自体には親しみがある。参考までに書籍や論文の情報を紹介したり、このテーマに関する私の雑感を書いてみよう(ただし、論文を書いたのは数年前だし、論文も参考書籍もすべて実家において来てしまったので、内容はうろ覚え)。

 

 とりあえず、日本語で(タダで)読める論文としては鬼頭葉子氏と白石(那須)千鶴氏の論文がある。

 

動物倫理とフェミニズム

 

暴力・女性・動物:「動物の権利」とフェミニズム

 

 翻訳本としては、このテーマについての元祖的な存在であるキャロル・アダムズの『肉食という性の政治学ーフェミニズム・ベジタリアニズム批評』が翻訳されている。また、ローリー・グルーエンの『動物倫理入門』では動物倫理に関する様々な事例と立場が紹介されているが、著者のグルーエン自身がエコロジカル・フェミニストフェミニスト倫理学的な立場の人物であるということもあり、それらの立場についても紙幅を割いて紹介されている*1

 

 洋書としては、キャロル・アダムズとフェミニスト倫理学者のジョゼフィーン・ドノヴァンの共著であるThe Feminist Care Tradition in Animal Ethics:A Readerが、フェミニズムの立場から動物倫理の問題にアプローチした様々な論文が収録されており、最も網羅的というか代表的な感じ。理論ではなく運動に関する本としては、アニマルライツ運動を行っている女性たちのインタビューに基づいて書かれたWomen and the Animal Rights Movementがある。

 

・アダムズの『肉食という性の政治学フェミニズム・ベジタリアニズム批評』はいわゆるラディカル・フェミニズムの立場から書かれた本で、肉食というシステムが家父長制の維持といかに関わってきたかということや、家畜と女性はどのように同一視されて貶められてきたか、肉を食うことが「男らしさ」と繋げて称えられる一方で菜食主義は女性的なイメージと結び付けられて批判されてきた…などなどのことが論じられている。…が、内容としてこじつけや牽強付会な主張も多くて、読んでいて正直言ってトンデモ本に近い感じもしなくはなかった(といっても、私には大概のラディカル・フェミニズムやクリティカル・セオリーの主張はこじつけでトンデモに思えるので、アダムズの議論自体が他のそのテの理論に比べて特に酷いということはないと思うが)。

 

・アダムズの議論には無理が多いとはいえ、「女性」と「動物」を同一視することで女性を貶める、という言説が歴史的に用いられてきたことは確かである。有名な出来事としては、18世紀末に初期のフェミニストのメアリ・ウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を出版したのに対して、ウルストンクラフトの主張を貶めるために『獣の権利の擁護』というパロディが書かれたことがある。女性と動物を同一視して貶める言説に対して、伝統的にフェミニストたちは「いいや、私たちは動物ではなく(男性と同じ)人間だ」と主張して反論してきたわけだが、発想を逆転させて、動物を女性と共に男性・家父長制に貶められてきた共通の仲間と見なして共闘する、というのがアダムズらの主張の根幹だ。

 

・ドノヴァンやグルーエンらが行っている主張は、よりスタンダードなフェミニスト倫理学に近いものである。フェミニスト倫理学は「ケアの倫理学」と呼ばれる理論とも重なっているのだが、基本的には、「倫理は感情ではなく理性に基づくべきである」「自律した他者を尊重することが道徳的配慮である」といった考えを否定して、「理性ではなく、他者に対する共感やケアの感情こそが道徳の源である」「自律を強調するのではなく、他者との関係性や依存性を尊重することこそが道徳的配慮である」といった主張をする。なぜこのような主張がフェミニスト的かというと、「理性」や「自律」といった概念は伝統的に「男性的」と見なされて称えられてきた一方で「感情」や「依存」は「女性的」と見なされて貶められてきたから、理性を批判して感情を肯定することで男性中心主義的な発想を逆転させる、といった感じの理由である。

 動物倫理の議論においてフェミニスト倫理やケア倫理が持ち出される際にも、基本的には、「理性的」であるとされる主流の理論に対するカウンター的な議論が行われる。「功利主義は全体のために少数を切り捨てる恐れがあるから論外」「権利という概念自体がそもそも自律的な存在を前提とする男性的なものであるから、“動物の権利”を主張する理論も不適切」「また、功利主義や権利論では動物が苦痛を感じる能力や自身の生に対して利害を抱くための知能を持っているか否かが重視されるが、そのような発想は能力による生の選別につながるから問題である」といった批判をしたうえで、動物が感じる苦痛に対する「共感」や「ケア」の感情、あるいは人間と動物の間にある関係性を重視したうえで動物への道徳的配慮を説く、というのが基本だ。

 

 私としては、フェミニスト倫理・ケアの倫理に対しては基本的にかなり否定的である。このブログでも倫理学道徳心理学について様々に紹介してきたが、人間の感情と理性に関する心理学や哲学の知見を学べ学ぶほど、理性ではなく感情に基づいて道徳を築こうとすることの不安定さや危険さ(そして、逆説的に、「理性的な」倫理学理論がいかに有益で優れているかということ)が理解できる。例えば心理学者のポール・ブルームは「共感」の持つ危険性を口酸っぱく強調しているし、心理学と倫理学の双方について研究しているジョシュア・グリーンも、感情と理性との二重課程理論の見地や進化心理学・実験心理学の見地を踏まえたうえで、感情を抑止し理性を強調する功利主義が最善だと論じている。特に進化心理学の知見を参照すれば人間の持つ感情というものがいかに部族的で恣意的かということが理解できるはずなのだが、フェミニストの多くはそもそも科学的知見というものを重視しない傾向にあるので(とりわけ進化心理学は嫌われている)、心理学からのフィードバックが反映されて理論が改められたり更新されるということがないように思える。

 また、フェミニスト倫理やケアの倫理における動物についての議論にもあまり感心しない。たしかにピーター・シンガー功利主義には障碍者差別の側面があるとはよく批判されるし、功利主義ではない動物の権利論も動物の知能を重視する側面があるため能力差別のようにも聞こえるから印象が悪いという側面はあるが、しかし功利主義にせよ権利論にせよ主張が一貫しており各事例においても具体的な解答が出せる、という利点がある。一方、「感情」なり「関係性」なりを強調するフェミニスト倫理は限界事例の問題や生のトレードオフといった気まずく不愉快な話題に踏み込まなくて済むので口当たりは良いが、一貫した理論がないためにどの論文を読んでも場当たり的で恣意的な側面が強く、動物に対して人間はどう接するべきかとか動物に対する社会政策はどうあるべきかといった具体的な行動指針を論じる際にも役にも立たない。「権利」を男性的な概念だと言って否定するのも「産湯と一緒に赤ん坊を捨てる」ようなものだ。結局、主流の理論を批判して否定するのはいいが生産的な代案を導くことができない、ゲイリー・シュタイナーが言うところの「気分を良くするための倫理学」の一種であるように思える。

 

・理論ではなく、社会運動としての動物の権利運動とフェミニズムの関りについては、以前に別記事で書いたことがある。要するに、動物の権利運動の参加者は昔から女性が多かったので「女のヒステリー」とレッテルを貼られて貶められることが多く、それに対して「いいや、私たちの運動は理性に基づいたものである」と対抗するかあえて感情的なイメージを押し出すかといったジレンマが運動内部に存在する、という話だ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

*1:『動物倫理入門』についての私の記事はこちら:

davitrice.hatenadiary.jp