道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

"女のヒステリー"と動物愛護運動

 ヒマなので、昔自分で書いた修士論文の内容の一部を参考にしながら、記事を書いてみようと思う。私はアメリカ史を専門にしていた訳ではないので歴史に関する文章については事実誤認とか間違いが含まれているかもしれないが、そこはまあ勘弁してほしい。

 

 アメリカで動物愛護運動が最初に活性化したのは19世紀の後半、南北戦争が終了してからだ。奴隷解放運動とそれに連なる諸々の社会改良運動・人道主義運動は戦争の前からも行われており、戦争後も、混乱・荒廃した社会を再建して道徳や秩序を取り戻そうとする人道主義運動は盛んに行われていた。そして、動物愛護運動も社会改良運動・人道主義運動の一環として行われていたのである。…アメリカの動物愛護運動は第二世界大戦の前後に一時勢いを失うが、20世紀の後半には再び勢いを取り戻した。従来の運動は基本的には犬猫の保護や毛皮への反対や家庭内・街中での動物虐待の防止などを目的とするものであったが、1970年代にはピーター・シンガーの『動物の解放』が出版されたことなどをきっかけとして、畜産や動物実験などの産業における動物の利用を禁止・撤廃しようとする「動物の権利運動」も登場するようになった。「動物愛護運動」と「動物の権利運動」は区別して論じられることも多いが、今回は一まとめに「動物愛護運動」として記すことにする*1

 

 19世紀から現在に至るまで、アメリカの動物愛護運動の特徴の一つは、運動の構成員の多くが女性であるということだ*2。「…(アメリカの動物愛護運動の)最も強烈な特徴の一つとして、女性が多数派を占めることがある。19世紀後半から現在にかけて、女性は動物の権利運動の前面に立ってきた」(Gaarder 2011, 1)。その理由は様々であると考えられるが、その一つには、19世紀後半のアメリカでは、女性には社会的な性役割として"優しさ"が要請されていたということがある。「女性は男性の定義する政治世界の不正や不道徳とは別の世界にいながら、女性の道徳心を公的な場に提供すること」(エヴァンス 1997, 208)を求められていたのだ。動物愛護運動だけでなく、禁酒運動や児童保護運動などのその他の社会改良運動の構成員の多くも女性であったのだが、女性たち自身も「母性的な価値観こそが公的な行為の元となるべきだという要求」(エヴァンス1997, 210)を発していた。禁酒運動や動物愛護運動は子供への教育や秩序ある家庭というイメージに結び付けられて、家庭や子供という“母親の領域”を守るためのものとして行なわれていたのだ*3

 社会的な性役割の他にも、心理学的な事象として、女性は男性よりも動物に対する愛着や同情やケアの感情を抱くことが大きい、ということの影響は強いだろう*4

 

 社会運動を行ううえで、「女性」や「母親」のイメージを有利に使用することはできる。たとえば19世紀の運動では、子供への動物愛護教育を普及するための活動や女性向けの製品であった羽根帽子の不買運動を行ううえで、運動家の女性たちは“母親としての子供への関心”や“女性にあるべき優しさ”といったイメージを使い、自分たち以外の女性の心を動かすことで、成果を挙げてきた(Beers 2006, 81)。

 また、どんな社会運動でもそうであると言えるが、動物愛護運動は人々の理性と感情の双方に訴えることで支持者を増やして目的を達成しようとする運動である。「動物に対する差別は、人種差別や性差別と同種のものであり、許されない」と論理的に相手を説得したり論破することで支持者を増やそうとする場合もあれば、動物たちが様々な苦痛を受けていることを強調して動物の苦痛に対する同情やケアの気持ちを呼び起こすことで支持者を増やそうとする場合もある。そして、一般的には、女性は同情やケアなどの「感情」と結び付けられることが多い。

 

 だが、運動の構成員の多くが女性であることや「女性的」というイメージが付いていることは、運動にとって足枷となる場合もある。運動の目的と利害が相反する敵対者たちが、女性は「感情的」であるために「理性的」な男性に劣る存在であるという価値観やイメージを利用して「動物愛護運動は女が感情に任せて行う運動だから理性的な主張ではない、理性的な人ならば動物愛護を否定するべきだ」といったことを主張することができてしまうからだ。

 19世紀の生体解剖反対運動から現代における動物実験反対運動まで、動物愛護運動の主要な標的の一つは医学や科学である。そして、医学者や科学者たちは自分たちが理性の側に立っていると強調し、女性たちは感情的なヒステリーに陥っていると "診断"することで、動物愛護の主張に反対してきた。

 たとえば、生体解剖反対運動においては、医学者は自らを医学を発展させ人々を救うという道徳的な行為を実践する存在であると自認した上で、生体解剖への反対は動物への同情のために医学・科学の発展を無視する運動である、と反論した。さらに、医学者たちは動物愛護運動家たちの動機を女性の身体に由来する精神病に還元した。

 

 「科学者たちは、医学への動物の利用に反対する人々をもの笑いの種にした。……当時、最も闘争的だったのはニューヨーク在住の医師、ジェイムズ・ウォーバスだろう。一九一〇年、動物研究の熱心な支持者であったウォーバスは、イヌ好きも度がすぎると悲惨な結果になると警告し、動物に愛情を抱くのは精神病、それも性的な精神病であるとほのめかしていた。そして自身の主張を裏づけるために、女性を「母親タイプ」と「娼婦タイプ」のふたつに分けたあるドイツ人研究者の研究を引き合いに出して、イヌを撫でまわす女性は母親タイプには属さないといさめた。」(ブラム2001, 161)。

 

 当時の医学者たちは「女性の精神の健康は彼女の出産器官に結び付いている」(Beers 2006, 124)としていたのであり、「普及していた理論では“ヒステリー”や“鬱病”とされている曖昧な疾病への正しい処方は、卵巣摘出や子宮摘出などである」(Beers 2006, 124)と考えていた。動物に過度な愛情を抱く「動物愛好症」はヒステリーや鬱病のように女性器と関連した精神病であり、動物愛護運動に興じる女性たちはこの動物愛好症の患者である、と医学者たちは主張したのだ。

 

 

 …現代の医学者や科学者や19世紀のような疑似科学的・女性差別的な「ヒステリー」論を主張することはさすがに少ないだろうが、程度の差はあれど、「この主張や運動は女が行っているものだから感情的で短絡的なものだ、俺の方が理性的で正しい主張をしているんだ」という類の主張は現代でも散見される。アメリカの動物愛護運動に限らず、たとえば日本の反原発運動や反放射能運動に対しても、この類の反論を見かけることがある。

 そして、運動が「感情的」なものとされることで運動の主張が否定されたり運動の説得力が奪われたりする、ということは運動家たちにとっても頭の痛い問題だ。対処法の一つとしては、議論になった際にも勝利することのできるような洗練された理論を発達させて、運動は「感情」ではなく「理性」に基づいたものであると自分たちの側から強調することだ。私の考えによると、シンガーの『動物の解放』が出版されたことが重要であったことの理由の一つは、感情的な要素を否定しつつ徹底的に理性的な理論を提供することで動物愛護運動のイメージを「感情」から「理性」の側にぐっと近付けたことにある*5。また、男性の哲学者といういかにも理性的な人によって権威のお墨付きを得ることができた、ということ自体も重要であるのかもしれない。

 だが、「自分たちの運動は感情的なものではない、一から十まで理性に基づいた運動だ」と主張するとすれば、多くの運動家たちにとっては自己矛盾をきたすことになる。実際問題、運動をする中で知識や理論を学んだり考えを洗練させていくことがあるとはいえ、多くの人にとって動物愛護運動に参加する最初のきっかけは動物への同情やケアなどの「感情」であることは否めないからだ。

 

 エミリー・ガーダーの著作『女性と動物の権利運動(Women and Animal Right Movement)』は現在のアメリカなどで動物の権利運動を行っている多数の女性運動家へのインタビューを通じて書かれた本であり、女性の運動家たちが抱えている悩みやジレンマが描かれている。女性であるという理由で「感情的」だとラベルを貼られて自分の主張が否定されることは不当に感じるが、しかし自分の感情を否定したくもない、場合によっては「感情的」や「女性的」というイメージを戦略的に使用することもある…などなど。たとえば、ある運動家は、「自分のやっていること(動物愛護運動)や、自分のやっていることをなぜ他の人もやるべきかということを説明する必要があるなら、知的な議論を見つけることはできる。でも、それ(知的な議論)が私を本当に動かしているわけではない。全く違う」(Gaarder 2011, 109)と証言している。

 

 

 …例によってまとまりがない記事になってしまったが、社会運動における「感情」と「理性」の関係とか、女性の運動家に向けられがちなレッテルや差別などについて考えたり研究したりするうえで、(アメリカの)動物愛護運動の事例は大いに参考になる、と言えるかしれない。

 なにか実践的な教訓を引き出すとすれば、自分が何か批判された時に「お前の主張は感情的だ、俺の主張は理性的だ、だから俺の方が正しい」みたいな反論をする時には慎重になるべきだ、ということだろうか。そういう反論を行う前に、本当に相手の主張は感情的で自分の主張は理性的であるかと慎重に考えるべきであるし、自分にとって不都合・不愉快な主張に対して無意識のうちに「感情的」というラベルを貼って切り捨てていないかということをよくよく検討すべきだろう。「お前は女だからヒステリーで感情的だ」みたいな主張をするのは差別であるので言語道断である。

 

 

Women and the Animal Rights Movement

Women and the Animal Rights Movement

 

 

 

 

参考文献:

Beers, Diane. For the Prevention of Cruelty: The History and Legacy of Animal Rights Activism in the United States.  Athens, Ohio: Swallow PressOhio University Press, 2006.

Gaarder, Emily. Women and the Animal Rights Movement. New Brunswick, NJ: Rutgers University Press, 2011.

Pearson, Susan. The Rights of the Defenseless: Protecting Animals and Children in Gilded Age America. Chicago: University of Chicago Press, 2011.

エヴァンス, サラ. 竹俣初美, 小櫓山ルイ,矢口祐人・訳.『アメリカの女性の歴史 自由のために生まれて』. 明石書店,1997.

ブラム, デボラ.寺西のぶ子・訳.『なぜサルを殺すのかー動物実験とアニマルライト』. 白揚社, 2001.

*1:「動物愛護運動」と動物の権利運動」、また「動物の福祉運動」と言った言葉の定義の問題はなかなかややこしい。以下の記事が多少なりとも参考になるかもしれない。

動物の権利運動と動物福祉 ー 規制か、撤廃か? 動物の権利運動における畜産をめぐる論争 - 道徳的動物日記

*2:アメリカ以外の国の動物愛護運動では男性が多かったり男女半々である…ということではなく、単に私はアメリカ以外の国の動物愛護運動の男女比についての情報を持っていないのでこう言う書き方になったというだけである。日本の動物愛護運動にしても私が関わった範囲では女性の方が多いように思われるし、おそらく一般的な傾向であるような気がする。

*3:しかし、動物愛護団体の構成員の多くが女性であり、団体の創設そのもの体に女性が関わっていた場合でも、世間的な見栄えを考慮して団体の代表者は男性となる場合が多かった。女性は“道徳の守護者”として見なされつつも、社会的な重責任を努める立場は努められないと見なされていたからだ。結局、女性が動物愛護団体の代表者になることが認められるようになったのは1950年代以降である(Beers 2006, 81)。 

*4:動物への態度に関する男女の性差に関する心理学的研究としては、ハロルド・ハーツォグの研究などを参照できる。

http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.2752/089279391787057170

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ハーツォグの著書でも、動物への態度に関する男女の性差について書かれている箇所がある。

 

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

ぼくらはそれでも肉を食う―人と動物の奇妙な関係

 

 

*5:

davitrice.hatenadiary.jp