道徳的動物日記

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読書メモ:『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』

 

 

 はじめに断っておくと、わたしはこの本をフラットな状態で読みはじめたわけではない。『隠された奴隷制』でデヴィッド・グレーバー(やジェームズ・スコット)が援用されている箇所を読んだときには「アナーキスト人類学って胡散臭そうな主張だなあ」と思ってしまったし*1国家制度や西洋社会や資本主義の欠点をできるだけあげつらってオルタナティブな社会の価値を強弁する、という彼の基本スタンスも気に食わない。

 Twitterなどを見ていても、グレーバー(的な主張)を好んでいる層にはわたしにとってノーサンキューな人が多そうだ。

 

 とはいえ、労働というテーマについてはわたし自身もこれまでに色々な本を読んできたし、自分なりに色々と考えてきたし*2、「ブルシット・ジョブ」という概念自体については「俺がこれまでやってきたどの仕事もブルシットだったよなあ」と思って共感できなくもない。ベーシック・インカムだって、(実現可能であるなら)大賛成だ。

 

 というわけで、読んでみることにしたのだが…(税込4000円以上とクソ高くて自分には手が出せなかったので、ほしい物リストでどこかの優しい人に買ってもらった)、結果としては、文体や論調からして苦手過ぎてちょっとまともに読み通せなかった。

 カタカナの振り仮名が多用される翻訳も苦手だし、エピソードやインタビューの抜粋が多すぎるせいで著者の理論をつかむことも面倒になっている。

 序盤からして「ネオリベラル」な政治体制が槍玉に挙げられているし、ブルシット・ジョブを蔓延させるにいたった"悪玉"として近代西洋に発展した労働に対する規律とか「経済学者」たちを挙げているところもビミョーだ。そして、経済学を否定しているわりに「ケア」や「ケアリング」の価値をやたらと讃える(つまり、フェミニスト経済学だけは肯定する)ところも、さいきんのサヨクの流行りにノっているという感じが強くて軽薄に思えた。

 終盤にはおきまりのごとくフーコーを持ち出して、いま人々が苦しくつらがっているのは「権力」や「支配」のせいなんだとアジって読者を特定の方向に誘導するくせに、最後にはしれっと「本書の主要な論点は、具体的な政策的提言をおこなうことにはない」(p.364)と済ませる、という無責任さもどうかしている。

 訳者あとがきですらも、グレーバーの"お言葉"(インタビュー)が引用されまくっているせいでいちいち論旨が明快でなく、読みづらい。

 

 とはいえ、訳者あとがきでは以下のように書かれている。

 

主流の経済学的立場からもマルクス派からも、論拠はさまざまであれ、こうしたブルシットとされる領域そのものが不在であるといった批判がぶつけられている。しかし、総じてみるならば、既成の理論的枠組みによって現象を否認する態度と、いまこの世界の人びとの感覚に深くもぐり、そこから理論的枠組みを組み立てていこうとする態度のちがいはあきらかであるようにおもう。ものすごく粗くいうならば、「資本主義システム」(そう名指そうと名指すまいと)の論理的一貫した存在は大前提として、そこから現実に切り込んでいく態度と、そうしたシステムの存在を自明の前提とせず(述べたように「経済」領域すら自明のものとせず)、人びとがいま現実になにをやっているのかといったところから現代世界のありようをつきとめようとする態度のちがいというのだろうか。

(p.424-425)

 

 また、グレーバーのスタンスをよく象徴しているとわたしが思うのは、以下のような箇所。

 

富裕国の三七%から四〇%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄と感じているのだ。 経済のおよそ半分がブルシットから構成されているか、あるいは、ブルシットをサポートするために存在しているのである。しかも、それはとくにおもしろくもないブルシットなのだ!もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるのだろうか?

この議論は人間の自由に強力に寄与するものである。……

(p.364)

 

"世界の人びとの感覚に深くもぐる"というミクロな視点にこだわるあまり、人びとの感覚の外側にあるマクロな視点や法則から経済や労働をとらえる発想……すなわち経済学的発想を無視していることが、グレーバーの最大の問題点だ。

 たとえば、エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことは価値に対するわたしたちの考え方が刷り込みによって歪まされているからではなくて、ただ単に需要と供給の法則の結果であるかもしれない*3。多くの人々がサボっている人々や怠惰な人々に対して批判的であり彼らに制裁や制限を与えたいと思っているのは、資本主義のイデオロギーを内面化しているからとかではなく、集合行為のジレンマに対処するうえで自然に生じる発想であるだろう。

 また、「人びとが人類に有用なことをみずからの意志で決定できる」環境になったとしても、みんながそれを行なうようになったら、やはりそこには需要と供給や集合行為などに関わる様々な法則が発生して、けっきょくは思っていたよりもやりたいことを自由にできるわけでもなければのびのびと生きられず楽しくもない社会に落ち着くかもしれない。

 タイラー・コーエンが論じているように、組織管理などの本来は必要な仕事すらもたやすく"無用"扱いされてブルシット・ジョブ認定されてしまう、という問題も大きい。特にこの本の前半では「大企業の顧問弁護士」がブルシット認定されているが、弁護士本人には価値の感じられない仕事であっても、大企業の経営者にとって顧問弁護士は不可欠なものであるだろうし、そして顧問弁護士がいないことでその大企業の下ではたらく何千何万の労働者たちが困ることになるかもしれない。価値や必要というものは、その仕事をしている人々の主観的な感覚や意識とは異なるところに存在するものかもしれないのだ*4

 たとえばベーシック・インカムを導入するにしても、そこで必要となるのは、人々のインセティブに対してどのような影響が出てどのような副作用が出るかなどについての、冷静な検討と試算と実験と対策である。人びとの感覚に深く寄り添った耳心地のいいアジテーションはお呼びでない。

 

……しかし、これはいつも思うことなのだが、それなりに本を読んでいて物事を考えて生きているであろう人がこういうアジテーション的な主張にコロッとやられてしまうのは不思議なことである。

 あるいは、こういう本を好む人は本のなかで主張されている内容の理論的妥当性とか実現可能性とか批判の正当性とかはどうでもよくて、幾多のエピソードとカタカナ言葉に彩られた「ラディカルな解放の書」を読むという行為自体に楽しさや気持ち良さを感じているのかもしれない。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:『資本主義が嫌いな人のための経済学』のなかでそのような議論がなされていたはずだ。

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

だからこそ、本人にとって価値が感じられずにやり甲斐もないが他の人たちにとっては必要な仕事には、他の人たちにとっても必要であり本人にとっても価値が感じられてやり甲斐もある仕事よりも高い給料が支払われることになる……前者と後者の給料が一緒であれば、前者の仕事をやりたがる人がいなくなって、多くの人が困るからだ。これこそが先述した"需要と供給の法則"である。エッセンシャル・ワーカーの賃金が低いことについて"資本主義的な価値観"とかケアリング労働の軽視とかレイシズムとかの内面的で社会構築的な要素から語るのもいいかもしれないが、外生的で自然発生的な法則が大前提にあることを無視することはできないのだ。