道徳的動物日記

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人種は存在しない…のか?

gendai.ismedia.jp

 上記の記事は3ヶ月前のものだ。ブコメは現時点で30ほどしか付いていないが、わたしを含めて、違和感を表明しているコメントが多い。

 特に違和感があるのは、やはり、「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」というタイトルだろう。ここには、ある種の文系の"学問"や"社会学"に独特なレトリックと、市井の感覚との乖離が見出せる。今回は上記の記事を直接批判したり反論したりするわけではないが、このタイトルが象徴するような、"社会学的"なレトリックや議論に対してわたしたちが感じる違和感について、ちょっと書いてみたい。

 

 人種の問題に限らず、ある種の社会学(あるいは、ある種の「哲学」や「思想」)では、"わたしたちが「自然」であったり「普通」であると思っている物事は社会的に構築されている"、ということが強調される場合が多い。

 そして、多くの場合には、その社会的構築の背景には"レイシズム"なり"権力"なりの「悪」が潜んでいるという理路を取ることになる。そのため、世の中にある悪い物事を改善したいと思っていたり自分が善人でありたいと思っているなら、自分が使っている概念の社会構築性とその背後に潜む悪の存在を意識して、自分の認識や言葉の使い方を改めて、"ただしい"考え方や言葉使いをするようにならなければならない……という風に誘導されることになるのだ。

 社会学倫理学のような「規範」に関する学問ではないため、表向きには「〇〇に関する一般的な認識は誤りで、自然だと思っていたり普通だと思われていたイメージは実は社会的に構築されたものであり、実はこうなんですよ」という「事実」に関して論じているようなテイを取る。だが、その社会的構築には「悪」が潜んでいると匂わすことで、事実について語っているようなフリをしながら規範的な主張を行う……と、これはハーバーマスフーコーの議論について看破して「ゴニョゴニョ規範主義」と名付けたメカニズムである。

 

 とはいえ、上記の記事のブコメを見ればわかるように、社会学の議論に特に同意していない普通の人であれば、「人種は存在しない」と言われてもそう「いや、存在するじゃん」となるのが自然な反応だ。あるいは、たとえば「性暴力は性欲ではなく支配欲が原因で起こる」と言われても、「いや、性暴力と性欲が関係ないというのは無理があるでしょ」となるものだろう。「その反応こそが、社会構築されたイメージに認識を支配されている証左である」と言われたところで、「そりゃ認識の一部が社会や文化に影響されるということはあるだろうけれど、それを考慮したうえで考え直しても、やっぱり自分が自然に抱いている一般的なイメージは事実をおおむね妥当に反映しているように思えるんですけど」となるのである。

 ……しかし、そのような反論をしてしまう人を説得することは、そもそも目論まれていない。ある種の社会学的な言説とは、それに"引っかかる"人……つまり、「人種は存在しないんだ!」とか「性暴力は支配欲が原因なんだ!」と納得してしまうような、潜在的な支持者を発掘して囲うために発せられているのだ。"社会学的な思考方法"というのはかなり特殊で歪な思考方法であり、多くの人はそのような思考方法を身につけておらずその思考方法への適性もないが、一部の人はその適性を持っていたりもとから似たような考え方をしたりしているようである。そのような人が集まってクラスターとなることで、"社会学的な思考方法"は知的な風土や言論空間では力を持つようになっていったのだろう。

 だから、「それっておかしくねえ?」と言いたくなるような極端な意見や特殊な意見が、賢い人たちや"わかっている"人たちの標準見解であるような体裁をして、社会問題に関する色んな場面で発せられるようになっているのだ。ネットにおいて「社会学嫌い」や「アンチ・社会学」の風潮が強くなっているのは、この現状に対する反動と言えるかもしれない*1

社会学嫌い」は日本のネットに限らない。たとえば、アメリカのアカデミアでも、社会学や社会科学の論点先取で結論先行的な規範主義はよく批判されている。わたしも数年前にそのような批判をいくつか翻訳してきたが、そのひとつが下記のものである*2

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

 この記事の著者である心理学者のボー・ワインガードが、同じく心理学者のベン・ワインガードや犯罪学者のブライアン・ボートウェルと共に、2016年にQuilletteに、「人種の現実と、レイシズムへの忌避について(On the Reality of Race and the Abhorrence of Racism)」という記事を公開していた。

 

quillette.com

 この記事の後半部分にわたしが言いたいことに近いことが書かれていたので、翻訳して引用しよう。

 

人間のあいだの共通点や人種というものの非現実生についての高邁な物語が、普通の人を納得させることはできないだろう。たとえば、アフリカ系の人たちの集団間における微細な遺伝的差異についての詳細な分析を行ったところで、大半の人々がアフリカ系の人たちを一つのグループ(注:黒人)にまとめてコーカサス系の人々を別のグループ(白人)にまとめるのを防ぐことはできないはずである。そして、実のところ、そのような日常的な分類は、共通する祖先や認識可能な遺伝的差異に一致しているのだ。人々が人種を認識するのは、彼らが抑圧的な神話に騙されている間抜けであるためではない。人種が存在するからである。

 

 この記事のなかでは、「人種」というカテゴリは映画のカテゴリ(ジャンル)と同じような意味で存在する、と論じられている。つまり、「『エルム街の悪夢』はホラー映画である」と聞かされたら「『エルム街の悪夢』は暗くて、怖くて、暴力的な映画だろう」と予測できるのと同じように、「トーマスはコーカサス系である」と聞かされたら「トーマスは比較的薄い色の肌をしており、直近の祖先はヨーロッパにいたのであろう」と予測できるということだ。時折に例外や変数があり予測が外れるとしても、大半の場合にはおおむね事実を反映しており予測を立てるうえで便利であるのが、映画のカテゴリであり人種のカテゴリなのである。

 そして、映画のカテゴリ分けが用途によって変動するのと同じように(ホラー、コメディ、ドラマ、SFの四種類の区別で満足する人もいる一方で、Netflixではずっと大量のカテゴリ分けがされている)、人種のカテゴリ分けも用途によって変動するが(コーカサス系、東アジア系、アフリカ系、ネイティブ・アメリカン系、オーストラリア先住民系の五つで足りる場合もあれば、ユダヤ人をアシュケナジムとミズラヒムに分けることが必要となる場合もある)、それはカテゴリが「存在しない」ということを意味しない。

 この記事では、「レイシズムに反対するためには人種の存在を認めてはならない、ということにはならないし、レイシズムに反対する人が人種に関する研究を認めなかったり人種に関する議論を行わなかったりすることで、むしろその分野がレイシストに占領されてしまう。人種の存在を認めないことは、レイシズムを防ぐという点では、むしろ無益なのだ」というような主張が展開されている。

 

 なんにせよ、ある種の社会学では(あるいは、ある種の哲学とか思想とかでは)、現実の社会問題について分析して知見を提供している風でありながら、実際には内輪でしか通じないお題目を唱えているだけ……というのは人種の議論に限らずよくあることだ。そういう議論が発されるたびに多くの人は「それっておかしくねえ?」と思ったり言ったりするけれど、その疑問は無視されてしまう。そういう虚しい状況がずっと繰り返されているのだろう。

 

*1:

togetter.comこれをはじめとして、 TwitterやTogetterでは特に「社会学嫌い」が可視化されている。まあ、そこにおける社会学への批判は不当なものであることも多いんだけれど。

*2:他にはこういうのも訳した。

davitrice.hatenadiary.jp