道徳的動物日記

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「インターセクショナリティ」が対立を招く理由

 

 

 先日から、社会心理学者ジョナサン・ハイトと憲法学者グレッグ・ルキアノフの共著、『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』を読んでいる。Amazonのほしいものリストでもらったものだ。ありがとう*1

 

 2017年に出版された本なのだが、その時期にアメリカの大学で「ポリティカル・コレクトネス」が引き起こしていた様々な問題の事例を網羅的に紹介しつつ、その背景にある構造や原因を分析した本だ。「マイクロアグレッション」や「アイデンティティ・ポリティクス」と言った個別のタームについての問題点の分析も豊富である。そのなかでも、「インターセクショナリティ」に関する分析は興味深かった。

 この本の全体的な内容についてはこのブログとは別のところで紹介する予定なのだが、インターセクショナリティに関する記述についてのみ、一足先にこちらで紹介しよう*2。ちょうど日本語版Wikipediaにもインターセクショナリティについての記事ができたところだし。

 

ja.wikipedia.org

 

 まず、ハイトとルキアノフは、「インターセクショナリティ」理論の発明者であるキンバリー・クレンショーやその理論を発展させたパトリシア・コリンズなどの学者たちによる用法については、問題がないとしている。

 たとえば、クレンショーは黒人女性がゼネラル・モーターズ社で受けていた就職差別の構造を鮮やかに示した。当時のゼネラル・モーターズ社は、工場現場の仕事では黒人も雇っており、事務仕事については女性も雇っていたので、黒人差別とも女性差別とも批判されていなかった。しかし、工場現場では男性、事務仕事では白人が被雇用者の大半を占めていたことにより、結果として黒人女性はどちらでも雇われていなかったのだ。

 このように、ひとつの属性だけに着目していると問題が起こっていないように見えても、複数の属性が交差することによって差別や抑圧が生じているかもしれない。そのような問題に名前を付けることで、問題を発見して問題に対処することが可能になる……それが、インターセクショナリティという理論の、(そもそもの)意義であるのだ。

 

 ハイトとルキアノフが批判するのは、学生などが実践している社会運動における、「インターセクショナリティ」という単語の用法である。

 複雑な構造で起こる差別問題を理解するための分析枠組みであったインターセクショナリティは、世の中を二項対立的に単純化して認識するための概念へと変貌してしまった。それをよく表すのが、「特権」と「抑圧」の構造を示したとされる、以下の図だ。

 

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(出展:日本語版Wikipedia「インターセクショナリティ」)

 

 この図は、もともとはキャスリン・ポーリー・モーガンという哲学者が作成したものであり、その発想はミシェル・フーコーの権力論に基づいている。

 たとえば、アメリカの大学は歴史的に白人男性によって構築されてきたから、「白人」かつ「男性」である属性に特権を与えて有利にする空間となっており、「黒人」という属性を持つ人のみならず「女性」という属性を持つ人も……たとえ、学生の過半数以上が女性であったとしても……大学という空間では白人男性が構築した理念や制度のもとで生きることを強制されるという点で「被植民化された人々(colonized people)」である、とモーガンは論じているのだ。

 このような発想に影響された人々は、すべての物事を「抑圧の構造」の観点に従って見るようになってしまい、目の前にいる人は特権を持つ側であるか(上記の図における上側)、抑圧されている側であるか(図における下側)、ということばかりを気にするようになってしまう。

 そして、「抑圧の構造」という発想は社会問題を分析するための記述的な図式にとどまらず、道徳的な意味合いも含むものである。そのため、特権を持つ側なら「悪」であり抑圧されている側なら「善」である、という認識へとつながりやすい。ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でも論じていたように、道徳は人々を結びつけると同時に人を盲目にする。「自分たちは善の側で、あいつらは悪の側だ」と一方が思ってしまったのなら、和解や妥協や対話の余地はなくなってしまい、ひたすら対立が深まることになるのだ。そして、「抑圧される側」に位置するなんらかの属性を持っている人ならともかく、異性愛者で白人で男性で…となると図式の下の側に逃げ込むこともできないので、ただただ批判の対象にしかならなくなる。

 このテの発想が引き起こす問題の象徴的な事例として挙げられているのが、2015年にブラウン大学で学生が大学の副学長に抗議しているときに起こったエピソードだ。白人男性である副学長が「対話することはできないのか?」と言っても学生は拒んで、「異性愛者の白人の男性が常に空間を支配してきたことが問題なのだ」と主張した。すると、副学長は自分自身が同性愛者であることを指摘した。学生はしばらく戸惑ったが、やがてこう言った。「いや…同性愛者であるかどうかは問題ではない。白人で男性であるなら、ヒエラルキーの頂点に位置しているのだから」。

 

 インターセクショナリティに限らず、もともとは学問的な理論や分析枠組みとして生み出されて妥当で有用であった概念が、学生たちによる運動の場では意味を変貌させられて思考停止や分断を招く概念になってしまう……という事例は他にも多々ある。人間を善と悪とに二分して「自分たちは正しい、あいつらは間違っている」と思い込んでしまう傾向は生得的な心理や感情として人間に備わっているものであり、学問というものは本来ならそのような傾向や感情を抑制させて理性的に物事について考えることを可能にするためにあるのだが、運動の場において変貌させられた概念は、むしろ生得的な感情をブーストして理性的な検討を遠ざけてしまう効果を持ってしまっているのだ。

 ハイトとルキアノフは、現代のアメリカの大学における運動で用いられている様々な理論や概念の背景では、1960年代や1970年代に「新左翼の父」として讃えられたヘルベルト・マルクーゼが影響を与えている、と分析している。マルクーゼの理論も「右」と「左」の分断を強調する二項対立的なものであったのであり、敵対する相手の言論の自由を認めないことを是とする「抑圧的寛容」は、もともとが大学の理念とは相反するものであったのだ*3。当時に新左翼運動であった学生たちは現代ではちょうど大学の教授や執行部になっている年齢であり、過去の自分たちが他人を糾弾するために提唱していた理論がまわりまわって現在の自分たちを糾弾の対象としている……という側面もあったりなかったりする。

 

 ……と、ハイトとルキアノフによる「インターセクショナリティ」批判を紹介してきたが、わたし自身の意見もちょっと付け加えよう。

 ハイトとルキアノフは、インターセクショナリティを持ち出して他人を批判する人が、自分を「抑圧される側」に位置付けて相手を「特権を持つ側」に位置付けることについての、被害者意識や自省のなさや傲慢さや独善性といったことを特に非難しているようだ。

 しかし、わたしが観察してきたところ、インターセクショナリティは「他人」や「外」を批判する際に使われることもあるが、「自分」や「内」を批判する際に使われることも多い。たとえば、フェミニストである人が「自分は性差別のことにばかり注目していて人種差別や経済格差の問題に無頓着であった。これからは気をつけよう」という自己反省をしてそれを表明するきっかけとして用いられているのを見ることがある。また、特に日本においてフェミニストが「インターセクショナリティ」に基づいて他人を批判するときには、その対象はだいたいが他のフェミニストフェミニズム団体だ。「フェミニストであるなら、女性差別の問題だけでなく、他の種類の差別や抑圧にも反対するべきだ」とか「フェミニズム的な作品を作ったりフェミニズム的なメッセージを表現するなら、特権と抑圧の構造についてもっと自覚的になるべきだ」、などなどである。

 自己反省や志を同じくする人同士での相互批判に用いられるなら、生産的であったり妥当であったりする場合もあるようには思えるが……しかし、そもそもの「抑圧の構造」という図式がかなり現実性に乏しいものであるために、この図式に基づいた自己反省や相互批判もけっきょく誤ったものにしかならないように思える。「○○差別に反対するなら、○○差別と××差別は論理的に構造が一緒なので、××差別にも反対しなければならない」という主張なら正しいと思うのだが、「○○差別に反対するなら、○○差別と××差別が発生する構造が事実的に結びついているので、××差別にも反対しなければならない」という主張は前提が誤っているとしか思えないことが多い*4

 

 また、わたし自身はフェミニストではないので他人事といえば他人事であるのだが、「フェミニストであるなら、△△差別にも反対しなければならない」という主張を目にしたときには「いやだなあ」という気持ちが起こることが多い*5。たとえばもしわたしがユダヤ系女性であったとして、ピンクウォッシュ概念などを用いられて「あなたがフェミニストでありたいと思うなら、イスラエルに対しても否定の姿勢を示さなければならない」などと他人から言われると、自分がイスラエルを支持しているとしてもしていないとしても、かなり不愉快な思いをさせられることだろう*6

 世の中には規範的な問題がいろいろと存在して、人々はそれぞれのアイデンティティや経験や人間関係や学んだことや考えたことに基づいて「この問題についてはこういう立場をとろう」「この問題についてはこちらの方が正しいと思う」「この問題についてはよくわからないから保留しよう」と判断していくものであるし、また、そうするべきである。しかし、(変貌させられた方の)インターセクショナリティに基づくと、「すべての問題について、"抑圧の構造"の下側に位置する人の味方をしなければならず、上側に位置する人を批判しなければならない」と強制されることになってしまうのだ。そういうのは同調圧力全体主義というものである。「それはそれ、これはこれ」というスタンスも認められなければならないのだ。

*1:そして、本さえ買ってもらえればこうやって内容を紹介する記事をいつかは書くので、みなさんもどしどしわたしに本を買ってほしい。

www.amazon.co.jp

*2:なお、過去にもこのブログでインターセクショナリティの問題点を批判した記事をいくつか紹介してきたことがある。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:もちろん、フェミニスト同士の相互批判に限らず、アンチ・フェミニストなどの「外野」に位置する連中が「フェミニストならこの問題についても反対しなければ矛盾だ!」と言っているのを目にしたときにも不愉快な気持ちになる。そういう連中の主張は大半の場合は「インターセクショナリティ」理論以上に筋が通ってなくて非論理的で頓珍漢であるし、インターセクショナリティ理論に影響される人の大半が持っているであろう善意や真面目さや誠実さというものが欠片も感じられない。Togetterでもはてな匿名ダイアリーとかでも「フェミニストがこの問題に反対していない!矛盾している!」と騒ぐエントリは定期的に生じるが、ああいうのをまとめる人も書く人もそれを読んで喜ぶ人もみんな下品だと思っている。

*6:

davitrice.hatenadiary.jp