本書の目的や、本書における「フェミニスト」や「フェミニズム」の定義は下記の通り。
本書ではフェミニストおよび活動家の女性たちとナショナリズム、宗教教義、帝国主義、ユートピア主義、および人種に基づく思考との関係を明らかにしていくが、そのなかでフェミニズム的なひらめきがどんなものかを、異なるフェミニズムの世代や時代の間に予想外の結びつきや共鳴が立ち現れることを通じて示していきたい。ひらめきは紛争や緊張関係といった別の物語とも合わせて考えることが必要である。フェミニズムの名のもとの連合には長きにわたって限界が伴い、過去におけるフェミニズム的観点からの関心がジェンダーによる傷を可視化し、根絶するための今日の取り組みと簡単に合致するとは限らないのも事実だ。
フェミニズムは、人類の半分以上に及ぶ人々の連合を目指す。これほど意欲的な運動は人類史上かつてなかったと思われる。しかしフェミニストは何を求めているのか?フェミニストに共通するのは、女であることは男よりも不利な立場にあるという認識であり、闘いを通してそれを改善できるという考えである。だが、その闘いにおいてなされる政治的主張は時代によって大きく変わり、その名称もさまざまだ。フェミニズムとは、十八世紀(あるいはそれより前)以降に形成された、相互に重なり合う一連の行動や問い、要求の複合体として理解するのが最良だろう。フェミニズムの関心は時とともに変化する。
(p.9 - 10)
「グローバル・ヒストリー」という副題の通り、本書では世界の各地におけるさまざまな時代のフェミニストやフェミニズム運動と、それらに関わる出来事などが紹介される。そして本書の最大の特徴は、歴史の本としてはめずらしいような、抽象的なテーマによって章立てがなされているところだろう。
- 第1章:夢
- 第2章:アイディア - 考え・概念・思想
- 第3章:空間
- 第4章:物
- 第5章:ルック - 装い・外見
- 第6章:感情
- 第7章:行動
- 第8章:歌
本書では取り上げられる時代も場所も章ごとに行ったり来たりする。これ自体はグローバル・ヒストリーの本としてはたまにある構成だが、本書におけるフェミニストやフェミニズムの定義がかなり広いこと…訳者あとがきでも指摘されている通り、著者はこれらを定義すること自体に消極的であるから意図的に定義を曖昧にしているようだが…も相まって、正直に言うと「とっ散らかっている」という感じは強い。
表紙の画像(1982年にアフガニスタンのフェミニストのミーナ・ケシュワール・カマルが演説している写真)から想像が付くようにイスラム諸国のフェミニスト/フェミニズム運動が取り上げられているほか、明治時代の岸田俊子(中島湘煙)や昭和時代の田中美津など日本のフェミニストが詳しく取り上げられる箇所もあり、たしかになかなかグローバルな内容になっている(田中美津が山岳ベース事件に関して「永田洋子はあたしだ」と連帯を示したことや1974年の『モナ・リザ』スプレー事件なども取り上げられている)。また、本書では第二章を除けばフェミニズムの理論についてはあまり取り上げられていないが、メアリ・ウルストンクラフトやシャーロット・パーキンス・ギルマンからメアリー・デイリーやシュラミス・ファイアストーンにサラ・アーメッドなど、過去から現代の諸々の(西洋の)フェミニズム思想家たちの考えは断片的に紹介されている。そして人種差別や植民地主義と女性差別との交差(インターセクショナリティ)やレズビアン・フェミニズムやトランスジェンダーといったトピックも含まれており、全体的には2020年の本(原著)らしいインクルーシブな内容となっている。
訳者あとがきで解説されている通り、書名や章名が複数形になっているところにも、フェミニスト/フェミニズムの多様さや複雑さや幅の広さをできるだけ丸ごと伝えたい、という著者の意図が込められているのだろう*1。
…ある地域、ある時代に育まれたフェミニズムと、別の地域や時代に芽生えたフェミニズムとの関係性は、多様で複雑である。共鳴するところもあれば、軋轢を起こすこともある。文脈次第で達成すべきミッションも異なり、それが互いに矛盾することもありうる。フェミニズムが抱える問題意識も議題も多様、だからフェミニズムズ、なのである。
(p.388)
しかし、複雑さや多様さをそのまま伝えるというのは、裏を返せば知識や情報を体系的に整理するのを放棄するということでもある。本書を読んでいる間は「こんなことがあったんだな」とか「こんな人がいたんだな」ということが知れるが、読み終わった後には「いろんなことがあっていろんな人がいたんだな」という印象以上のものは残らなかった。
また、定義を広く曖昧にして、世界の各地域や各時代の人々や運動をフェミニスト/フェミニズム運動という言葉で括って紹介することも、歴史の本としてはやはり無理があるように思える。イギリス近現代史が専門であるらしい著者が本書のような構成の本を書いた背景には、最近ではアメリカやヨーロッパを中心にしたり軸にしたりした歴史叙述をするだけでもフェミニストを含む左派から批判される対象になってしまうから「周辺」の国々も取り上げて同じ傘の下に入れておいた、という面もあるかもしれない。
…とはいえ、読んだ後の感想が「いろんなことがあったんだな」で済んでしまうのは、わたしが男性でかつフェミニストでもないというところも影響しているだろう。わたしは多くの出来事や人物(やそれ以上に思想や理論)に興味や関心を抱いており、それらについての知識を(できれば体系的かつ芯を食った感じに)得たいと思っていて、それらの興味や関心の対象にフェミニズム運動やフェミニスト(そしてフェミニズム理論やフェミニズム哲学)が含まれている、というだけである。
なので本書はわたしの期待にはあまり応えられなかったが、フェミニストの読者や多くの女性の読者にとっては、世界の各地域・各時代に自分と同じような問題に直面して戦っている女性がいたということや自分と似たようなことを考えていたり自分にも通じるような気持ちや感情を抱いていたりした女性がいるということを知れるというだけでも、本書にはエンパワメント的な効能があるかもしれない。また、本書がフェミニズムの多様さや複雑さを紹介しつつも、それでもフェミニムズという複数形によってまとめていることには、フェミニズムの「矛盾」や「分裂」をあげつらう人たちに対する反論や拒否という側面もあるかもしれないし、フェミニズムの一部の側面は受け入れられないけれど別の側面については共感している人がフェミニズムを肯定したりフェミニストと自称したりしやすくなる、といった効能もあるかもしれない。
先日に紹介した『はじめてのフェミニズム』も、歴史や人物を紹介する本ではなく思想や理論を紹介する本であるという違いはあるが、フェミニズムの多様さや複雑さを読者に伝えること、だからといって対立や分裂を強調するのではなく多様さや複雑さのなかにも共通する芯があるという点も読者に伝えることを重視しているという点では、『フェミニズムズ』と共通している。フェミニストである著者たちが入門書や一般書を通じて読者にとくに伝えたいのは、そういうことなのだろう。
なお、『はじめてのフェミニズム』の記事に関してはタイトルが嫌味っぽくなったり後半部分では批判的なことも書いたりしたが(この批判自体は妥当だといまでも思っているけれど)、その後にTwitterでミソジニー色が強いアカウントが『はじめてのフェミニズム』に対してかなり粘着的な(そして的外れな感が強い)批判をし続けているのを目にしてイヤな気持ちになったし、人のフリ見て我がフリ直す的な感じで反省してしまった。読書メーターなどに掲載されている感想を見ても、多くの人にとって『はじめてのフェミニズム』は入門書として充分に優れた役割を担えるように思われるし、そんなに悪い本ではない。
近頃は思うところもあってフェミニズムの勉強を何度かぶりに再開しており*2、その一環としてfont-daの過去のブログ記事もいくつか読んでいるのだけれど、そのなかでも以下の文章には考えさせられるところがあった。
ネット上で一部のフェミニストが「ツイフェミ」「ネットフェミ」「ミサンドリスト」などと呼ばれて批判されている。私はかれらとほとんど思想的に接点はなく、主張も重なるところはない。だが、かれらがフェミニストを名乗る限り、自分と切り離すつもりはない。かれらもまた、私と同じフェミニストである。
そのことは、私がかれらを批判しないことを意味しない。私はトランスフォビア、セックスワーカー差別に反対するし、表現規制には慎重な態度を取る。必要な場合は、かれらを批判する。ただし、私の批判はフェミニストとして、フェミニストに向けて行うものである。私は、被差別の当事者以外が、フェミニストの肩書を引き受けずに、フェミニズム批判する場合、それに同調しない。なぜなら、フェミニストとして社会を変えていく意欲のない者の「批判のための批判」には私は関心がない。私は「フェミニズムをよくする」ためではなく、「被差別者の告発に連帯する」ために、フェミニズムを批判する。
わたしがこのブログや著作、Web記事などで書いている文章…フェミニズムやジェンダー論に関する文章や、その他の思想やイデオロギーや学問などに関する文章…のうちの多くも、かなりの数の人からは「批判のための批判」または単なる非難や当てこすりのように思われているかもしれないし、一部の文章については自分で振り返っても「批判のための批判」になっているなと思うことはある。そういう自分のことを棚上げして書くと、ネット上でのフェミニズム批判は以前にも増して「批判のための批判」や非難や当てこすりに終始している傾向が強くなっているように思えるし、そのようなフェミニズム批判をしている人たちの大半からは社会を良い方向に変えていこうとする意欲も感じられない。まあだからもって他山の石として、フェミニズム(やその他の思想やイデオロギーや学問など)を批判する際にも、社会を良い方向に変えるという意欲は忘れないようにしたいものだと思った。