道徳的動物日記

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読書メモ:『なぜ美を気にかけるのか :感性的生活からの哲学入門』&『近代美学入門』

 

 

『なぜ美を気にかけるのか』は美学の入門書でもあるが、そのなかでも「美的価値」や「美的感性」「美的生活」の問題を扱っており、「優れた芸術の定義とは何か」といったトピックではなくタイトル通り「なぜ美を気にかけるのか」という問題……なぜわたしたちは服や髪型のお洒落さ/ダサさや食事の美味しさ/不味さを気にしたり、聴く音楽や視聴する動画について自分なりの選択を行おうとしたりしているか、といったトピックを扱っている。ここでいう「美」はかなり広い範囲の物事を指していること……「 "美"といえるのは素晴らしい芸術のみである」といったエリート主義を排して、どんな人でも日常的に様々なタイミングで様々な領域の「美」を気にかけている、というスタンスで各人が論じていることがポイントだ。

 具体的には、イントロダクションのあとに、3人の論者が三者三様の主張をしている。ベンス・ナナイは「わたしたちは美的判断よりも美的経験のほうを重要視している」という議論を展開したのちに「美的経験が大切のは、その経験は各人が自分自身で達成したものであり、自分で何かを成し遂げたという感覚を与えるからである」という「達成説」を主張する。ニック・リグルは、美的価値はわたしたちの個性とか自由とかに関わるということを指摘しつつ、最終的には「共同体」にとって美的価値がもたらす物事を重要視する主張を行う。ドミニク・マカイヴァー・ロペスは、わたしたちは「違い」を賛美するという前提に基づいて、美的コミットメントはわたしたちを未知なるものに向かわせることで人生を向上させるという「冒険説」を主張したり「多様性」を重視した議論を行ったりしている。

 本書のいいところは、「芸術」などのハイカルチャーではなくどんな人の生活にも存在するような経験や行為……服装や髪型、食事に自然鑑賞など……について議論しているために、ほとんどの読者にとって「自分ごと」として読める内容になっていところだ。たとえば、彫刻芸術の良し悪しについての議論をされたとしてもわたしは彫刻芸術に詳しくもないし関心もないから、三者の議論について妥当かどうかの判断をすることができない。しかし、本書の議論は、たとえば「美味しいものを食べる」「自然美を鑑賞する」ということに関するわたしの経験や意識やスタンスや記憶と照らせ合わせながらピンとくるかどうか確かめることができるので、芸術や美学の素人であるわたし(そして他の読者たち全般)にも妥当であるかどうかの判断ができるようになっている。

 結果的には、どの論者の議論についても「たしかにそう言える側面もあるな」とは思えるが「でもそれだけでは説明できないよな」とか「自分の説や主張を押し出すためにいろんな側面を無視しているな」とか思わされた、という感じ。納得度の順番はナナイ→ロペス→ニグル。また、最初に登場するナナイの議論は文章や構成が洗練されていて内容を理解しやすかったが、ニグルの文章や議論はまあまあで、ロペスの文章や議論はやや理解しづらかった。

 ちなみに、この本を読んでいるあいだわたしは一人旅をしており、ひとりで旅行先の美味しい食事やお酒を味わったり自然美を鑑賞するなどの「美的経験」をしていた。この経験について家族にLINEで伝えることはしたが、SNSでシェアするといったことは行っていないし、基本的に「美味しいな」「綺麗だな」とわたしの胸の内で完結する経験であったが、それでも普段の東京における食事や自然鑑賞よりも鮮明で優れている経験であった。この体験に照らし合わせると、美的経験の「社会的側面」や「協働性」「他者との関係」といったポイントを重要視しているニグルの議論(とおそらくロペスの議論)はかなりズレているように思える。そりゃ美学者たちは美的経験や美的判断についてお仲間と語り合ったり美的な物事に関する共同事業に関わったりした経験が多いだろうから美の社会性や協働性を強く意識する機会が多いだろうけれど、一般庶民にとってはそんなことは稀なのであって(ネットばかりしていると忘れがちであるが、マンガやアニメの感想をSNSに投稿する程度の社会性を発揮すること人ですらどちらかというと少数派であることには留意すべきだ)、結局のところ自分たちの経験を特権化することになっていてある種のエリート主義から逃れていないのではないか、と思えてしまった。

 また、ニグルの議論で食事に関する「文化の盗用」を云々しているところはかなりしょーもなく思えたし、文化的アイデンティティエスニシティを必要以上に強調して個々人の経験を蔑ろにしようとするという点で……そして「メシの旨さ」に代表されるようなコンテンツの質の良し悪しよりも規範やコードを重視しているという点で、悪い意味で「アメリカ的」で「ポリコレ的」な議論であるように思えた。ついでにいうと巻末の対談(「ブレイクアウト」)で「西洋中心主義」や「美の神話」について三者が語っているくだりもなんだか言い訳がましく、読んでいて白けてしまった。

 

 

 

 

『近代美学入門』もかなり評判が良い本であるようだし、実際に読みやすいし章の構成も洗練されてはいるのだけれど、わたしとしては全体的な「行儀の良さ」や規範意識が気に触って苦手な類の本だった。

 本著は美学の本としても「思想史」が重視されており、また「私たちには知らず知らずのうちに、近代美学の考え方が刷り込まれているのです」と前提したうえで「無意識のうちに内面化している価値観を客観視して相対化するために、近代美学を学ぶことは非常に重要です」(p.017)とされるのだけれど、この問題設定の時点で、「刷り込み」以前の客観的で普遍的な「美」の存在を主張する議論……たとえば進化心理学に基づいた美学論は多かれ少なかれ蔑ろにされてしまう(もちろん本書のなかでは思想史の文脈で古代ギリシャなどの「客観主義」は紹介されるのだけれど、最初の問題設定の時点で現代に客観主義を主張している人を不利な立場に立たせている、ということだ)*1

 そして、「現代には白人を美の理想とするルッキズムが存在しているので社会規範を無意識に内面化しないように気をつけましょう」とか「芸術家は政治に関わらなくてもいいみたいな風潮があるけれどナチスに協力したレニ・リーフェンシュタールとかの例もあるから美や芸術に関わる人も社会的責任を考えましょうね」とかいった、間違ってはいないけれどもう百万回は聞かされてきたような凡庸な「お説教」がたびたび顔を出すところにうんざりさせられた。先日に同じくちくま(プリマー)新書の『悪口ってなんだろう』を読んだときにも思ったけれど、道徳や規範について知ったり考えたりしたいときには倫理学や政治哲学に基づくガチの議論を読むから、言語哲学や美学の本で道徳の話はしなくてもいいのだ(それか、道徳や規範の話をするなら「お説教」で済まさずに倫理学などを引用しながらガチで論じてほしい)*2。もちろんこれらの本の対象読者はわたしのような人間ではなく、もっと若くて素直な人たちなんだろうけれど、どの本でも同じようなお説教が続くなら彼や彼女だってそろそろうんざりすると思う。あと『シンドラーのリスト』と『ショア』を対比させながら「戦後に生きるわたしたちはもう、これまでの芸術のように世界を美しいと寿ぐことはできません」(p.241)と書いているくだりなどで強く感じたが、本書は「近代美学」を客観視して相対化することはできているかもしれないが、現代の(とくに西洋の人文学界で形成されてきたような)「お約束」の客観視と相対化はぜんぜんできていないように思える。