道徳的動物日記

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フェミニズムの「むずかしさ」に向き合う(読書メモ:『むずかしい女性が変えてきた:あたらしいフェミニズム史』)

 

 

 出版社による紹介は下記の通り。

 

女性が劣位に置かれている状況を変えてきた女性のなかには、品行方正ではない者がいた。危険な思想に傾く者も、暴力に訴える者さえもいた。
たとえばキャロライン・ノートン。19世紀に困難な離婚裁判を戦い抜いて貴重な前例をつくった人物だが、「女性は生まれながらにして男性に劣る」と書き残した。たとえばサフラジェットたち。女性の参政権獲得に欠かせない存在だったが、放火や爆破などのテロ行為に及ぶこともあった。たとえばマリー・ストープス。避妊の普及に尽力し多産に悩む多くの女性を救った彼女は、優生思想への関心を隠さなかった。
しかしだからといって、その功績をなかったことにしてはいけない。逆に功績があるからといって、問題をなかったことにしてはいけない。歴史は、長所も短所もある一人ひとりの人間が、身近な不合理を少しずつ変えることでつくられてきた。
「むずかしい女性」たちがつくってきたこうした歴史の複雑さを、イギリス気鋭のジャーナリスト、ヘレン・ルイスが余すことなく本書のなかに描き出す。イギリス女性史と現代社会の出来事とを自在に往還してあぶり出される問題は、女性だけではなく社会全体の問題であることが見えてくる。社会の不合理や理不尽に立ち向かうための、あたらしいフェミニズム史。

 

むずかしい女性が変えてきた | みすず書房

 

 これまでの歴史において男性たちや家父長制と戦って女性差別的な制度を変革したり女性に対する抑圧やステレオタイプを打破してきたフェミニストたちであっても、現代の目から見ると、他の属性のマイノリティの人に対して差別的な考えを抱いていたり、社会の構造について誤って理解していたり、運動の方法が問題含みであったりした。

 しかし、そんな彼女たちを批判できるような現代における「先進的」なフェミニズムそれ自体が、彼女たちの戦いがなければもたらされなかったものだ。

 現代よりも遥かに抑圧的で男性優位な構造のなかで「むずかしい女性」たちが過去に戦ってきたからこそ、多くの女性は男性たちからの嫌がらせや攻撃に怯えることなく「自分はフェミニストだ」と主張できるようになり、フェミニストであることによって社会から受ける不利益なども減ったりして、フェミニストが活動できる領域や扱える問題の範囲も拡大した。それに伴いフェミニズムの内部でも自己批判や反省が行われて、過去のフェミニズムの欠点を正したり過ちを乗り越えたりしながら理論を洗練させていき、思想としてのフェミニズムはより適切で複雑なものとなっていったが、その成果はやっぱり問題含みの「むずかしい女性」たちの働きが最初になければもたらされなかったものである……という、それ自体が「むずかしい」ジレンマに切り込んだ内容の本である。

 

 著者のヘレン・ルイスは学者ではなくジャーナリストであるために、この本の構成もアカデミックというよりかはジャーナリスティックだ。章ごとに「離婚」「セックス」「安全」といった問題が取り上げられて、その問題に関する過去における女性差別の状況とその問題について戦った(主にイギリスの)歴史上のフェミニストについてのエピソードと、著者個人に関するエピソードや現代のフェミニズムの状況についてがごちゃ混ぜ気味に記述されている。

 したがって、アカデミックな本のように一本筋の通った理論や見解が明示されているわけではないし、エピソードや資料の取り上げ方に歴史学的な厳密さがあるわけでもない。……度々書いているが、わたしはジャーナリスティックな本については読むのも感想を書くのも苦手である。

 さらに言うと、著者の議論や主張の前提となっている、女性差別の構造や家父長や「女らしさ」に関するフェミニズム理論についても、わたしは必ずしも同意しているわけではない(著者の主張はフェミニストとしてはごく標準的なものではあるが)。

 ではなぜわざわざこの本を取り上げたかというと、現在の日本のTwitterでは、この本自体が「むずかしい」問題に巻き込まれているからである。

 

 副題の通り、この本はフェミニズムの歴史について扱った本であり、当然のことながら興味を示したり手に取ったりする人の多くはフェミニストであるだろう。……しかし、本国においては、著者は「トランスジェンダーを差別している」「トランスフォビアである」と批判されているようだ。

 そして、日本においても、フェミニズムに親和的なアカウントがこの本について紹介すると、別のフェミニストのアカウントが「その本の作者はトランスフォビアですよ」という"チクリ"を行い、本を紹介したアカウントもそれに反応して「この本はトランスフォビアな人によって書かれたものであるらしいです」と注意喚起したり謝罪したりする、という光景が見受けられたのである。

 この光景については、以下のようにつぶやいている。

 

 

 ……とはいえ、『むずかしい女性が変えてきた』を実際に手に取って読んでみると、たしかに、トランスジェンダーに関する記述には危ういところが見受けられた。

 具体的には第七章「恋愛」において、キャスリーン・ストックを引用したりしながら「レズビアントランスジェンダー女性とセックスすることに抵抗感を抱くことは非難されるようなことではない」という主張をしたり、トランスジェンダー男性とレズビアンとの違いを強調したりしているあたりは、(それ自体が差別的な主張であるかどうかは人によって判断が異なるだろうが)いわゆる「TERF」の人が言いそうなことではある。

 

 しかし、『むずかしい女性が変えてきた』のなかで著者がとくに批判しているのは、「フェミニストであるならこのような見解を抱くべきだ」「フェミニストはこのような主張をするべきでない」「フェミニストが奉じるべき"正解"とはこれだ」といわんばかりの、単純かつ硬直した教条主義である、という点を失念するべきではない。

 

……政治的な問題を語らずして、また矛盾や葛藤を語らずして女性を称賛することはできない。「とにかく旗を掲げよう。あれこれ質問はしないこと!」ーーこうしてフェミニズムの物語ができあがる。それに反対する者はみな、漫画に出てくるような悪役にされる、または、なぜか表に出てこない。苦労のすえに妥協点を見いだす必要はなく、内部で対立が起きたりもしない。ただ一つの真実の道が何かは明らかで、「善き人」はみなそれに従う。フェミニストこそ歴史の正しい側にいるのだから、世界がわたしたちについてくるのを待とう。

人生がそんなふうにいくわけがない。ブギーマン[ホラー映画のタイトルにもなっている伝説上の怪物]を何人かやっつければフェミニストが勝利するなら、ことは簡単だが、ドナルド・トランプのような不気味な性差別主義者が権力を握ってしまう。投票する人がいるからだ。女性の身体上の欠点を取り上げる雑誌やウェブサイトをいちばん利用するのは女性だ。中絶の権利を擁護するかしないかに、ジェンダーによる差異はない。人間は複雑であり、進歩を遂げるということも複雑だ。現代のフェミニズムが先鋭さに欠けると感じられるなら、それは二つの手段に逃げているからだ。一つは意味もなくただ称賛するだけであり、もう一つは明らかな敵がわかっているのにまともに対決しない。どちらも複雑さと向き合っておらず、何も変えられない。

女性の歴史が、ヒロインを探し求める上っ面だけのものであってはならない。フェミニストたちのあいだで非難しあう状況を、わたしはたびたび目にしてきた。パンクハースト家の人々(専制君主たち)、アンドレア・ドウォーキン(先鋭的すぎる)、ジェーン・オースティン(あまりにも中産階級的)、マーガレット・アトウッドセクシュアルハラスメントの正当な法的手続きを気にしすぎる)、ジャーメイン・グリア(どこから始めればよいのか)などなど。最近わたしは、アメリカ合衆国最高裁判所判事に指名されたブレット・カバノーにわたしが共感を示したことを「問題だ」とする記事を読んだ。わたしの「罪」は、カバノーが指名承認公聴会でメディアにさらし者のようにされたことについて、性的暴行で訴えられた人でももっとまともに扱われるべきだ、と言ったことだった[カバノーは複数の女性から性的暴行で訴えられていた]。この非難には、面倒な問題を単純であるかのように見せかけたいという強い願望が反映されている。傷ついた人間が巨大で複雑な体制のなかで苦しむのはたくさんだーー世の中には良い人と悪い人がいて、誰が良い人で悪い人かぐらい簡単にわかるだろう、というものだ。しかし、そんな考え方はあまりにお粗末で子どもじみている。わたしたちは抵抗すべきだ。わたしは、フェミニストの先駆者たちが単純ではなかったことにあらためて光を当てたい。それによって、先駆者たちが残したものに疑問が投げかけられるかもしれない。フェミニスたちはとんでもない戦略を選択したのかもしれないし、訴えていた理想に自分自身が応えられていなかったかもしれない。それでも、重要な足跡を残した。こういった複雑さも物語の一部なのだ。

 

(p.3-4)

 

  また、日本でも見かけられるような「オンライン・フェミニズム」に対して、手厳しい批判が行われている。

 

[2011年に著者が左翼系週刊誌『ニューステーツマン』の副編集長になってからの]それからの数年は地獄のようだった。内戦のフェミニズム版だ。まっとうな批判と不当な批判がまじりあって一つの巨大な叫びとなり、Twitterで増幅され、誰もが憤慨し傷ついた。決まって出てくる話題があった。Xは特権階級だから、彼女が訴えるフェミニズムは、現実が見えていない。Yは言葉の使い方や考え方に「問題があった」ので、謝罪すべきだ。Zはトランスフォビアで「白人のフェミニスト」で、あまり「インターセクショナル」でない。「インターセクショナル」は、その何年か前までは耳慣れない言葉だったが、にわかによく聞かれるようになっていた。しかし、アメリカの法学者キンバリー・ウィリアム・クレンショーが定義した本来の意味にはほとんど注意が払われていなかった。批判には根拠があることもあった。あるときわたしは、黒人のフェミニスト二人からお茶に誘われ、わたしが企画しているキャンペーンでは有色人種の女性が取り上げられていない、と言われた。ツイッター上の数々の論争で傷ついていたので、自分の立場を弁護したが、彼女たちの話に礼儀正しくただ耳を傾けたほうがよかったかもしれない。また別のときには、こうした批判は、妬みから出てきたのだろうと思われた。あるいは、「道徳的十字軍」の特徴である公正さと残酷さが入り混じって興奮しているためだろうと考えられた。ある著名な黒人フェミニストから、わたしは「EDLよりひどい」とTwitterで言われた。わたしの仕事について理解していないか、EDL(イングランド防衛同盟)がイスラム教を排斥しようとしている極右集団だということを理解していないかのどちらかのようだった。

 

(p.201 - 202)

 

オンライン・フェミニズムは言葉にとらわれすぎるようになった。司祭もどきの人が登場し、どんな言葉を使うべきか裁定を下す。怒りは変革の大きな原動力であるが、活動家たちの要求は力を持つ者によって「急進的すぎる」とか「あまりに攻撃的」とされ、しばしば切り捨てられる。しかしいっぽうで、激烈な怒りがそれ自体で価値あるものとして賞賛され、オンライン・フェミニストたちは、真摯な怒りと単なる悪意とを区別する力を失ってしまった。さらに悪いことに、「アライ」を自称する者たちが、自分たちの正義を誇示するため大げさに仲間を非難し、完全に「魔女狩り」のようになっていた。「有色人種の女性が理論的に正当とは言えない論点を提示しても、これを白人のフェミニストが正当だとして議論することがある。自分はインターセクショナルなのだと競い合ってひけらかしているようで、わたしは不快に感じるし気がかりでもある」と、ウェブサイト「Jezebel」を創設した黒人のアナ・ホームズが、ミシェル・ゴールドバーグに語っている。ホームズはこうした風潮を「不誠実」で「恩着せがましい」と考えている。

 

(p.204)

 

 そして、『むずかしい女性が変えてきた』が批判しているオンライン・フェミニズムの問題が、当の『むずかしい女性が変えてきた』を対象としながら、日本でも繰り返されているわけなのである。

 

 わたしはトランスジェンダーが関わる諸々の議論についてはまだ自分の意見やスタンスを決めかねているが、とりあえず、引用部分で示されているようなオンライン・フェミニズムの問題はとくにトランスジェンダー(または「トランスフォビア」)が関わるトピックで浮上することが多い、という点は指摘できるだろう。

 したがって、「言論の自由」をテーマとした下記の記事においても、具体例としてトランスジェンダーに関する哲学論文とそれに対する検閲を巡る問題を取り上げることにした。

 

s-scrap.com

 

 また、「インターセクショナリティ」の問題についてもこのブログでたびたび取り上げてきた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

『むずかしい女性が変えてきた』で指摘されているような問題は、フェミニズムに限らずひろく社会運動全般やSNSでの言論活動一般に当てはまることかもしれない、という視点も忘れるべきではないだろう。