当然のことながら自分で買える金額じゃなくなっているので図書館で借りて読んだ。
……ギリシア的教養は何れにしても知的で、それを学ぶためにはそれだけの時間や余裕が必要であった。したがってそれを持たない者には、結局、縁がないということにならざるを得なかった。しかし本当をいえば、それらの余裕を持たない者たちこそが、ゆとりを与えられ、平静、幸福であるべきなのである。かくてこのようなどん底生活を余儀なくされている弱者のために生れたのが、当時振興のクリスト教であった。そこには神の言葉としてどうかと思われるものもないではないが、その教えは明快にして容易、要はただそのまま信ずるということであった。
(p.31)
哲学(倫理学)と宗教の違いをうまく表しているように思える。
エピクテートスはずっと独身であった。それは足が不自由な故であったか、それとも貧乏な故であったかはわからない。けれども普通の人には結婚を是認し、かつすすめている。むしろ彼えはエピクーロス派の、子供を育てないとか、公事に携わるなという考えに反対し、人間が絶滅しないためにも、人間の社会性のためにも結婚や子供の育成を説き、人間は公事にたずさわり社会の仕事の一旦を荷なうべきであると説く。
(p.18)
「他者」や「外部」によって自分の感情や思想が影響を受けないにしよう、というのがストア哲学の基本方針であるが、一方でエピクテトスに限らず多くのストア哲学者は結婚・育児や公事に関係することの価値も説くようだ。いままでは矛盾とか論理的一貫性の欠如に思えていたけれど、最近はそうでもないように思えてきた。まあこの点についてはもっと考えを深めていきたい。
知者たろうと発心する以前の人を、普通の人、もしくは素人と言う。そういう人たちの間では、何か不幸せなことがあれば、その原因をみな外部に帰する。つまり自分は親のせいで不幸なのだとか、兄弟の故に貧乏なのだとする如きである。しかしエピクテートスでは不幸、不仕合せの原因を外部にはおかない。
(p.61)
当たり前だけれどストア哲学では「親ガチャ」論は否定されるわけだ。
…これらの動物[ロバなど]も活動するためには心像を使用せねばならない。欲求も意欲も、また拒否や忌避もなければならない。しかし人間の場合とは異なる。人間の場合は正確にいえば、心像の使用にしても、正しく用いるので、「正しく」がつくか、あるいは心像の使用に「理解」が伴わねばならない。本能的に心像を使用したり、模倣して使用するのは、では何故であるか、目的も原因も理解もないわけである。が、この理解あってはじめて自然、もしくは神の目ざすところに協力し、意図に沿うこともできるのである。
(p.81-82)
人間と動物の違い。パーソン論とか、「動物は道徳的に行為できるか」というところにも関わってくるだろう。
エピクテートスがロゴスを意志と同じに用いたことは、さきに述べた。彼はある時は人間をロゴスだというが、ある時は「君は肉や髪の毛ではなく意志だ」と言う。そして彼は善や悪を意志におくのである。彼は善をロゴスにおいてはいるけれども、悪をもロゴスにあるとは言わなかった。それに対し意志の場合には、善と同様悪も意志の中にあるのである。この点ロゴスと意志とは同じではない。ロゴスは意欲、衝動によってくらまされることがないとはいわないが、正しいのが建て前である。けれども意志の場合には、善くも悪くもあり得る。故に正しい意志とか善い意志という表現になる。つまり意志が正しい、善い意思であるためには理性に照されるのでなければならぬ。
(p.88-89)
ここら辺はカント倫理とも進化倫理とも関わってきそうだ。