道徳的動物日記

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ミソジニー論客たちのエコーチェンバー

 

 

 

 

 大して話題になっている問題でもないが、つい気になってしまってTwitterで言及してしまったので、ブログのほうでも考えを残しておく。

 

togetter.com

 

 上記のTogetterにもまとめられているように、2月25日から、山内雁琳 (@ganrim_)が北村紗衣の単著『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に記載されている「歴史修正主義」に関する記述について批判を行うツイートをしている。

 Togetterには載っていないが、発端は、高橋雄一郎弁護士による以下のツイート。

 

 

 このツイートをみた雁琳が、「北村も差出人の一人である「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのなかではネガティブな意味で"歴史修正主義"が用いられているのに、北村の著書のなかでは"歴史修正主義"は価値中立的な言葉とされていることはおかしい」、という旨の批判を行なった。

 

 

 

 そして、御田寺圭による「裁判で不利にならないために取ってつけたように言い出したのでは」という憶測に同調して、雁琳は「これは私見で断言しますが、間違い無くそうだと思います」と言い切った。

 御田寺や雁琳のアカウントをフォローしている人たちも彼らに同調して、「北村は「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのなかに呉座勇一が「歴史修正主義に同調していた」という記述が含まれていたことをマズいと思って、オープンレターの記述の瑕疵を取り繕うために、自身の著作のなかに「歴史修正主義は価値中立的な用語である」という記載を含めた」といったストーリーができあがっていたのである*1

 

 

 

 しかし、このストーリーは憶測に基づくものでしかないし、憶測に基づいた批判は不当な言いがかりでしかない。

 

 わたしは『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』を手元に持っていないが、北村自身が、該当の箇所の画像を挙げていた(著者本人が公開していた画像なので、問題ないと判断したうえで、転載する)。

 

 

 

 

 

 この文章における本題は、あくまで歴史フィクションを形容する際に用いられる「リヴィジョニスト」である。

「リヴィジョニスト」という単語が「リヴィジョニズム(修正主義)」に由来することを記載するだけでは、現在の日本における一般的な意味での「歴史修正主義」はホロコースト否定論などのネガティブな意味を持つことを知っている読者の誤解を招きかねない。したがって、本来の意味での歴史修正主義は「健全な歴史学の営みを指す言葉」であることを説明したうえで、「リヴィジョニスト」は一般的な意味(ネガティブな意味)での「歴史修正主義」ではなく歴史学における本来の意味(ポジティブな意味)での「(歴史)修正主義」のほうに由来することを示して、読者が「リヴィジョニスト」という単語について正確に理解できるように促している……と、わたしには読める。

 北村の文章の流れはごく自然であり、悪意や裏の意図などを見出せるようなものではない。もしわたしが映画やその他のフィクションの研究者であって、「リヴィジョニスト」について一般の読者に説明する文章を書くときにも、やはり北村と同じような文章になるだろう。現代の日本では「歴史修正主義」は一般的にはネガティブな意味を持っているからこそ、読者の誤解を防いで正確な理解を促すためには、歴史学における「(歴史)修正主義」はポジティヴな意味を持っていることの説明は不可欠であると判断するからだ。

 

 ここで示したわたしの「読み方」は、うがった読み方や特殊な読み方ではなく、ごく普通のものであるだろう。たとえば、小田川大典(@odg1967)も同じような読み方をしているようだ。

 

 

 

 

 この小田川のコメントに対して、雁琳は以下のように反論している。

 

 

 

 しかし、北村本人も書いているように、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に収められている該当の章(節?)「不条理にキラキラのポストモダン――『マリー・アントワネット』が描いたもの、描かなかったもの」の初出は2018年(『ユリイカ』)であり、2021年4月に公開された「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターより3年も「前」に執筆されている。

 

 

 

www.seidosha.co.jp

 

 

ユリイカ』に公開されていたバージョンの後に『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に収録されたバージョンでも手が入っておらず、「歴史修正主義」に関する記述に変更が行われていなかったなら、その時点で「『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』における歴史修正主義に関する記述はオープンレターの瑕疵を取り繕うためのものだ」という雁琳(や御田寺)の批判は誤りであることが証明されるだろう。

 

 そして、仮に「不条理にキラキラのポストモダン――『マリー・アントワネット』が描いたもの、描かなかったもの」の初出が『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』の出版された2022年であったとしても、やはり、雁琳(や御田寺)の批判は言いがかりでしかないと思える。

 先に書いたように、「歴史修正主義」に関する北村の文章は「リヴィジョニスト」について説明するという文脈をふまえるとごく自然なものだ。まともな人であるなら、該当の箇所に「オープンレターでの記述の瑕疵を取り繕うためのものだ」という「悪意」や「陰謀」を見出すことはしない。

 言うまでもなく、北村はオープンレターの差出人の一人である以前に、フェミニズムや映画批評などを研究する大学教授准教授[訂正]である。余程の証拠がない限り、一般の読者に向けてフェミニズム(映画)批評を解説する本を執筆するときに、オープンレターに関する問題を彼女が意識していたり著書のなかに取り込んでいたりすると解釈する必然性はないだろう。

 北村の記述について御田寺が「裁判で不利にならないために取ってつけたように言い出したのではと訝しんでしま」ったり、雁琳が「これは私見で断言しますが、間違い無くそうだと思います。」と同調したりするのは、彼らの認知のほうが歪んでいるからだ。彼らは『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に記載されている内容やフェミニズム批評・映画批評一般に対して興味を持っていないだろうし、彼らが北村に対して関心を抱くのは「オープンレター」や「呉座との裁判」「雁琳との裁判」などに関連している事柄のみについてである。そのため、彼らは北村の言動をすべて「オープンレター」や「裁判」に紐づけて解釈してしまうし、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』にもオープンレターや裁判に関連した悪意や陰謀を見出して、不当な言いがかりを付けることになったのだ。

 

 この種類の不当な言いがかりを付ける行為は、今回に北村に対してなされたものでなく、これまでにも雁琳や御田寺をはじめとするミソジニー論客たちが多くの人々に対して繰り返し行ってきたものである。

 その背景には、相手を批判することで公衆の評価を貶めたり相手を消耗させたりしたいという悪意もあるだろうし、文章を正確に読む能力がなかったり自分の認知の歪みを自覚できなかったりするという知的な面での問題もあるのだろう。

 とはいえ、今回の経緯を見てみると……とくに御田寺の「訝り」に対して雁琳が「断言」するというやり取りを見ると……同じような主張を行ったり問題意識を抱いていたりしており、「敵」となる相手を同じくしている人たち同士が陥る、エコーチェンバー現象の典型例であるようにも思える。自分ひとりであれば自分の批判は憶測でしかなく根拠がないことに気が付けたり、自分の認知が過剰に悪意や陰謀を見出すように歪んでいることを薄々察したりできるかもしれないが、「仲間」同士で引用RTを行いながら「敵」を声高に批判する行為を繰り返していくと自分の誤りに気が付けなくなり、他人からすれば話の通じる相手でなくなって、本人としても後に退くことができなくなってしまうのである。

 こうはならないように、もって他山の石とするべきであるだろう。

 

 ちなみに……雁琳や御田寺をRT・引用RTしながら北村に対する批判に同調するアカウントのなかには、自身でも積極的に意見を発する論客的なアカウントもいれば(池内恵など)、論客というほどでもない一般人的なアカウントもいた。

 また、今回の北村に対する不当な言いがかりを招いた最大の原因は、当初の高橋雄一郎弁護士によるツイートであるように思える。彼の引用には該当の箇所の本題である「リヴィジョニスト」に関する言及が一切なく、『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』で北村が「歴史修正主義」について言及した経緯や文脈がまったくわからない。雁琳が行ったような誤解を意図的に誘発するための投稿だったのではないか、とすら思いたくなる(これはわたしの憶測でしかないけれど)。

 そして、今回の事態を見て思ったのは、雁琳や御田寺による北村に対する批判について「不当な言いがかりだな」「分が悪い批判だな」と思ったり判断したりしていながらも積極的に指摘することはせずに遠まきにしてスルーしながら、過去や将来の別の場面では雁琳や御田寺に同調したり賛同の意を表明したりするような人が…「論客」である人もそうでない人も含めて…多数存在しているのではないか、ということ。

 最近にわたしが問題に思っているのは、ミソジニー論客に準ずる存在として、「ミソジニー論客と同じように弱者男性や"フェミニズムリベラリズムが救わない弱者"に関する問題に関心を抱いていて、ミソジニー論客と同じようにフェミニストやリベラルのことを不快に思っていたりキャンセルカルチャーを問題視したりしているが、ミソジニー論客による個人への中傷・攻撃に直接的に同調したり便乗したりすることはなく、しかし自分の口でミソジニー論客に対する批判を行うこともせず、個人攻撃への同調にならない範囲でミソジニー論客とコミュニケーションしたり対談などを行ったりする」というタイプの論客が、けっこうな数、存在しているということ。このような人に対しては以前も軽蔑の念を表明している*2。また、今回における雁琳のような「暴走」を止めることもせずに放置しているという点では、ある面では、ミソジニー論客よりもさらに卑劣な存在であるとも思える。

 とはいえ……実際のところ、誰かが不当な言いがかりを付けられているとして、その言いがかりが不当であることを詳細に指摘・立証したうえで言いがかりを付けている人を批判するという行為は、(この記事を書くだけで2時間以上かかったように)時間も手間もかかるし、気力も必要となる(発信するよりも訂正することのほうが労力がかかるというのが、デマが有害である所以だ)。だから、「あいつがあんなことを言っているんだから、お仲間であるお前にはあいつのことを批判する義務がある」といった主張はさすがに不当であるのだろう。

 でも、自分が卑劣でみっともない存在になっていないかどうか、いちど自分の胸に手を当てて考えてみてほしいとは思う。

 

*1:

https://archive.md/VeL1b

このような、マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式は、性差別のみならず、在日コリアンへの差別的言動やそれと関連した日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説、あるいは最近ではトランスジェンダーの人びとへの差別的言動などにおいても同様によく見られるものです。呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも、そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さを想像することができるでしょう。

 

オープンレターにおいて「歴史修正主義」に言及されているのはこの段落のみ。

わたしには、この文章は「呉座氏は歴史修正主義に同調していた」と主張するものであるようにも読めるし、そうでないものであるようにも読める。「非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも〜」の「それ」は、直前の文における「歴史修正主義」を指すものであるようにも、その前の文における「マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式」を指すものであるようにも、どちらにも読めるからだ。おそらく、執筆者としては、後者を指すつもりで書いたのだと思う。

 ……だとしたら悪文ではあるけど。また、こういう場合に「このような意図で書きました」と説明できる単一の著者がいないというのが、責任の所存が曖昧になるオープンレターという形式の問題点でもあると思う。

 

【以下、2/28に追記】

 

id:pikixのブックマークコメントで、訴訟における原告(オープンレター差出人の側)の主張について書かれている、呉座勇一本人のブログ記事内の記載を指摘された(該当の記事については以前にわたし自身も読んでいたはずだが、記事の存在について失念して確認するのを忘れてしまった)。

 

ygoza.hatenablog.com

…原告らは、歴史修正主義についての記載は、3件の投稿と6件の「いいね」を前提とした論評であり、投稿・「いいね」が真実であるから問題ないと主張しています。また、原告らは、歴史修正主義という言葉を「歴史に関する定説や通説を再検討し、新たな解釈を示すこと」として中立的に使用する場合もあるので、必ずしも私の社会的評価を下げないとも主張しています。

裁判における原告の主張はたしかに無理筋であるということには、わたしも同意する。

また、原告の主張を見ると、先に引用したオープンレター内の文章における「それ」が「歴史修正主義」を指すものであることは、差出人も意図しているようだ。

……というわけで、ブコメでもTwitterでも多々突っ込まれてしまったけれど、「それ」は「マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式」を指しているのではないか、というわたしの読み方が間違っていたことについては認めます。

【追記おわり】

*2: 

というか、御田寺の行っているような「からかい」行為を許容しないというくらいの良心は、わたしに限らず、誰にでも持っていてほしいものだ。御田寺やその取り巻きの「からかい」行為を見て見ぬ振りをしながら、「御田寺の言論にも耳を傾けるべきところがある」としたり顔で言っている人々に対しては、いじめに参加している人に対して抱くのと同じような軽蔑の気持ちをわたしは抱いている。

 

davitrice.hatenadiary.jp