道徳的動物日記

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「からかい」を批判する

 

 御田寺圭(白饅頭)の本については、批判的な書評をしたり、「ネット論客」としての彼の議論やビジネスのスタイルを批判したりした*1

 最近になって、わたしに対する御田寺からの人格批判じみた揶揄がいくつか投稿されている(「学術コンプ」と言われたり「アホ」と言われたりするなど)。

 

 

 

 

 

togetter.com

 

 最近になってわたしに対する御田寺からの揶揄が増えた理由は、わたしが行ったピンカーへのインタビュー記事や、最近に出版された『「社会正義」はいつも正しい』の書評記事などが話題になり、「反ポリコレ」系の人たちにも好意的に評価・シェアされていることに起因している、とわたしは判断している*2。過去に自分のことを批判した人間が自分のTLでも評価されているのを目にしてイラッとしたのかもしれないし、「反ポリコレ」をビジネスにしている彼としては「顧客が取られる」という危機感を抱いたのかもしれない*3

 

 これらの揶揄そのものについては度を越しているとはいえないだろうし、物を書いて意見を発信する人間なら許容すべき範囲内のものかもしれない。

 とはいえ、単に揶揄されるのではなく、「取り巻き」の人たちと揶揄を共有しながら仲間内で盛り上がっている様子を目にするのは、かなり不愉快ではある。

 なお、ピンカーへのインタビューにわたしが書いた補講について小山が述べている批判についてはピンカーの著書を開いたりインタビューの録音を聞き直したりして検討してみたが、そのうえで、的外れな批判であり「言いがかり」に近いものである、とわたしは判断している。そして、おそらく御田寺は小山の批判が妥当であるかどうかを自分で確認・検証する手間も取っておらず、「批判や揶揄を行う材料ができたぞ」と思って飛びついているだけだろう。

 また、御田寺が他人に対して「言いがかり」をつけたのは今回に始まらず、たとえば2021年にも以下のような指摘がなされている。

 

hokke-ookami.hatenablog.com

 

 北村紗衣ときて思い出すのが、やはり「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターだろう。

 オープンレターについては以前に御田寺を批判した記事でも言及しており重複になるが、ここで改めて書いておこう。

 

 オープンレターについては、過去にわたしも批判している。具体的には、オープンレターのレトリックや、それが呉座勇一という個人に対する不当な攻撃と処分につながったことが問題であると指摘した。その一方で、以下のようにも書いている。

 

オープンレターのなかでなされている、『フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」』や「からかい」のもつ問題や差別性の指摘は優れているし、オープンレターで示されている問題意識にはわたしにもいろいろと賛同したり共感したりできるところはある。だからこそ、オープンレターが含んでいる(かもしれない)問題には、わたしとしてはかなり気持ち悪い感触を抱いている。

 

「犬笛」としてのオープンレター - 道徳的動物日記

これらの段落で想定されているのは、いわゆる「弱者男性論者」たちのことであろう。すくなくとも、呉座氏と直接に絡んでいた御田寺圭(@terrakei07)のことが想定されているのは、確実だ。ほかにも、小山晃弘(@akihiro_koyama)や永観堂雁琳(@ganrim_)のことも想定しているのかもしれない。

「弱者男性論」についてはわたしも常々問題であると思っており、折に触れて批判してきた。とはいえ、批判のなかで個々の「弱者男性論者」を名指しして取り上げてはいなかったこともたしかである。

しかし、自分のことは棚に置いてしまうけれど、オープンレターに関しては、はっきりと御田寺たちの名前を出すべきだったと思う。呉座氏については名前を出しているんだし、背景の事情を多少なりとも知っている人なら「あいつらのことだ」とすぐにわかる内容だし、実際に本人たちもオープンレターで自分たちが非難の対象となっていることに気が付いてやいのやいのと反論しているのだから。

もちろん、相手の名前を明示することは相手との「論争」が本格的に始まってしまうということであり、オープンレターの発起人たちは負担やリスクを負うことになる。でも、約20名の連名(+約1300名による賛同署名)による公開書簡という強力な手段を用いて人を批判するなら、それくらいの負担やリスクは覚悟すべきだと思う。なにより、本気で「女性差別的な文化」をなんとかする気があるなら、インターネット上で女性に対する「からかい」や女性をダシにした「遊び」を煽動している本丸である、弱者男性論者たちと対峙することは避けられないだろう。

 

「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感 - 道徳的動物日記

 

 そして、先日の書評がきっかけで、わたしも、御田寺や小山による、決まり文句の「それ以上いけない」とか匿名のメッセージ(マシュマロ)なども介した「からかい」や「遊び」の対象とされてしまうことになった(その内容はこの記事の冒頭に貼ったTogtetterにまとめてある)。おそらく、これからも、御田寺やその取り巻きによるわたしに対する「からかい」は定期的に行われていくだろう。

 

 オープンレターについては、呉座に対する個人攻撃になっているという点は多くの人が批判したが、「からかい」について書かれた箇所を批判する人はごくわずかだった。基本的には、他人に対する揶揄や他人をダシにした遊びは肯定されるものではない、ということには多くの人が同意しているのだろう。

 とはいえ、なかには、「からかい」を擁護する人もいる。

 あえて、わたしと交流のある人の意見を引くことになるが、たとえば倫理学者の江口聡は以下のツイートや他のツイートなどで「からかい」を肯定する(否定しない)ことが多い。

 

 

 

「怒りと侮蔑」と「からかいと茶化し」を対比させて、前者を否定して(相対的に)後者を肯定する主張は、江口に限らず他の人たちにも見受けられることがある。そのなかには自身では「からかい」を行わないが他人のそれは許容するという人もいれば、自ら積極的に「からかい」を行う人もいる。

 だが、わたしの意見では、「怒りと侮蔑」に比べると「からかいと茶化」しは「怖くない」と思わせること自体が、からかいという行為の問題点である。

 たしかに、相手に対して怒っている人は「わたしの怒りは正当である」という認識を抱いて目が曇っている状態になり、相手に対する過剰な攻撃を行う場合が多いだろう。その一方で、相手のことをからかっている人も「わたしは冷静でありユーモアを保っている」という認識によって目が曇り、自分が感情的になっていてもそのことを認識できずに過剰な攻撃を行う、ということはあり得る。「自分は正しい」と思うことも「自分は冷静だ」「自分はユーモアがある」と思うこともポジティブなセルフイメージという点では同じであり、だからこそ自分に関する認識を誤らせる可能性があるという点も同じであるはずだ。

 また、「怒り」の問題点として想起されるのが、集団が個人に対して集合的な「怒り」を抱いて歯止めなく過剰な攻撃を行う、ということだ。心理学などでよく論じられるように、特定の対象を「敵」と認定して集団的に攻撃するという行為には集団の結束を高める「儀式」として機能する側面があり、それに参加している個人にも快感を与えるから、人間は集団的な怒りへの参加に誘惑されてしまう*4。……だが、個人に対する集団的な攻撃は「怒り」という形をとるとは限らない。御田寺とその取り巻きの言動からは、「からかい」に参加している人はその行為に快感を抱いており、集合的な「からかい」は「怒り」と同じように集団の結束を高める「儀式」として機能していることが、見て取れる。また、「(男性集団が)自分たちの集団外の相手をからかいや揶揄の対象にすることで結束を高める」という行為は、「ホモソーシャル」の問題としてフェミニズムなどで指摘されてきたことでもある。

 そして、怒っている人はいつか頭が冷えて「あの時は感情的になって過剰な攻撃をしていたな」と反省するかもしれないが、からかっている人はからかいを行なっている時点から「自分は冷静だ」と思っているために、反省することが期待できない。

 

「からかい」の対象はランダムに選ばれるわけではないことにも留意すべきだ。

 オープンレターで「からかい」が「女性差別的」な行為として表現されていたのは、半分は間違っている……男性であるわたしも「からかい」の対象になっているから。その一方で、半分はやはり正しい。実際問題として、「からかい」の対象になるのは男性よりも女性であることが多いだろう。「からかい」は相手の主張を真っ向から批判するものではなく、相手の「弱み」を見つけて、それをあげつらう行為であるからだ。そして、女性という属性は「弱み」になることが多い。

 たとえば、北村が呉座やオープンレターをめぐる騒動の最中に「泣いてしまった」という旨のツイートをしたとき、御田寺の取り巻きたちは「女の涙」や「ぴえん」という表現を使って一斉に揶揄を(かなり執拗に)行なっていた。

 通常の議論やコミュニケーションにおいては、女性であるという属性を持つだけでは不利になるとは限らない。だが、「からかい」が許容されてしまうと、女性をはじめとして自分の属性が「弱み」となる人が構造的に不利になり、攻撃の被害を受けやすくなる。わたしにもアメリカ人という(日本では)マイノリティである属性があり、幸いなことに現在のところは文筆業に関連してこの属性が「からかい」の対象にされたことはほとんどないが、これまでの人生経験から、そのリスクは常に念頭に置かざるを得ない。

 ……だからこそ、他の男性が「からかい」を許容していることには、自分の属性が「弱み」にならず「からかい」が許容される場では有利になる者としてのポジショントークであるように感じられる。欺瞞であるように思えるのだ。

 

 また、冒頭にも述べたように、「からかい」の対象にされることはかなり不愉快だ。

 少なくともわたしにとっては、「怒り」の対象にされることよりも「からかい」の対象にされることのほうがずっと不愉快であり、負荷がかかって消耗する。怒っている人は「自分が正しくてあいつが間違っている」と思っているから怒っているのであり、こちらでも「いやわたしのほうが正しくて怒っている人のほうが間違っている」と思える根拠なり信念なりがあれば受け流せるが、「からかい」を行なってくる人はそもそも正しさを度外視している。また、「からかい」は怒りよりも執拗であることが多いし、自分が「遊び」の対象にされるということは名誉や尊厳を傷つけられることでもある。

 逆に言えば、「からかい」を行う側からすれば、「からかい」は自己防衛になる。批判をしてくる相手に負荷を与えて消耗させることを繰り返すことで、それを眺めていた人たちに「あの連中のことは問題だと思っているけれど、批判すると今度は自分がからかいの対象になってしまうから、無視しておこう」と思わせることができるのだ。おそらく御田寺のことは多くの人が問題に思っているだろうが、しっかりとした批判を行う人の数が少ないことも、これが理由だ。

 わたしは「からかい」の対象となるリスクをとって彼を批判しているが、不毛さは感じているし、自分にとって得になるとは思わない。とはいえ自分の良心やプライドに基づいて自分で決定していることだから、このこと自体に文句をつける気はない。……だが、第三者が「からかい」を許容することは、御田寺のような人間を批判するという行為の負担を増させるものであることは指摘しておこう。ここにもまた、「自分の意見をはっきりと主張する」というリスクをとらない者の、ポジショントークとしての欺瞞が存在する。

 

「からかい」は、属性が「弱み」になる人を不利にさせて、良心に基づいて自分の意見を主張する人に対して無用な負荷をかける行為であり、「いじめ」に類する行為であるということは、font-daによる以下の文章に優れて表現されている。

 

 私がそれほど衝動的になってしまったのは、その件が、今まで私自身が遊びの対象にされてきた数々の場面を一気に思い出させるものだったからです。私は、大学に入学して以降、性差別に抵抗するたびに、男性の先輩、同級生、ときには教員から嘲笑されました。2000年代前半はフェミニズムの勢いはとても弱くなっており、私に賛同したり味方になったりする人は、ほとんどいませんでした。かれらは、私が動揺しながら性差別を指摘する喋り方を、真似て笑いました。肩をすくめ、目配せしあい、ニヤニヤと笑う、というのもよくありました。いじめの標的になったことがある人は理解しやすいと思うのですが、私は今でも男性が集まって笑っているのを聞くと、「私がネタにされているのだろうか」と不安になることがあります。そして、その場から黙って去ることがあります。当時、私が真剣にかれらに抗議すれば、かれらはこう言いました。

「ネタだよ、ネタ」

 そういう言い回しが、2000年代前半は流行っていました。2ちゃんねるを中心とするネット文化の影響もあったのでしょう。かれらにとって、私の取り乱した姿を見て笑うのは、本気ではなく「遊び」だったのです。多くのいじめがそうであるように。

 

 御田寺の本の書評を書いたときから「キャンセル・カルチャーやポリコレを批判しながら御田寺を批判することは両立するのか?矛盾していないか?」といったコメントがあったが、わたしは「両立する」と思っている。

 わたしがキャンセル・カルチャーを批判する理由は主に二つある。一つめは「学問の自由や意見の自由が侵害されること」*5。二つめは、キャンセル・カルチャーは集団による個人に対する「いじめ」となることだ*6

 わたしも聖人ではないし、嫌味なところや性格が悪いところは多々あるし、他人に対して不当な攻撃をしてしまうこともあるだろう。……だが、他人を批判するときにも、(すくなくとも自分の認識としては)自分ひとりで行うようには努めている。「集団による個人に対する攻撃」という行為や、いじめなどに存在する「卑劣さ」に対しては、若い頃から現在に至るまで素朴な嫌悪感を抱き続けているからだ。

 そして、御田寺が行っているような「からかい」は「いじめ」に類するものであると判断しているし、「からかい」に「卑劣さ」が存在することは明白だろう。

 だから、キャンセル・カルチャーを批判することと「からかい」に参加したり御田寺を擁護することは、わたしのなかでは筋が通らず、矛盾している。どうやら、一部の人にはそれが理解されていないらしい。……「キャンセル・カルチャーを批判しているという点では御田寺と共通するところがあるんだから、仲良くなったり、対談したりすればいいじゃないか」と言ってくる人が、何人かいるのだ。しかし、彼の「からかい」行為や、ビジネスとして「からかい」行為がセットになっている彼の言論活動を許容することは、わたしの良心に反する。

 というか、御田寺の行っているような「からかい」行為を許容しないというくらいの良心は、わたしに限らず、誰にでも持っていてほしいものだ。御田寺やその取り巻きの「からかい」行為を見て見ぬ振りをしながら、「御田寺の言論にも耳を傾けるべきところがある」としたり顔で言っている人々に対しては、いじめに参加している人に対して抱くのと同じような軽蔑の気持ちをわたしは抱いている。

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

gendai.media

gendai.media

davitrice.hatenadiary.jp

*3:御田寺の議論について「ビジネス」的側面を強調するのも揶揄であるように受け取られるかもしれないが、以前にも書いた通り、「自分の読者たちに、自分と相対する意見へと耳を傾けさせようとしない」という傾向は、彼のビジネスのスタイルから必然的に生じるものだとわたしは見なしている。

 

わたしは先日の書評のなかでも御田寺のことを「自分の信者を食いものにしている」と表現したが、彼の反応は、その著作活動が「信者ビジネス」であることを裏付けているだろう。教祖をやっている人間は、自分の主張だけが絶対に正しく他の主張は間違っていると、信者に思い込ませ続けなければいけない。そのために批判を放置することはできず反応しなくてはならないし、批判を受け入れたり応答したりするのではなく「こんな批判は間違っているからお前たちは耳を貸すな」と信者たちに喧伝するしかできない。そうしなければ、「もしかしたらこの人の言っていることには間違いがあるかもしれないから他の人の言っていることも聞いてみようかな」と考えた読者が、彼から離れていくかもしれないからだ。

ネット論客がインテリから相手にされない理由 - 道徳的動物日記

*4:『傷つきやすいアメリカの大学生たち』の第二部を参照。

 

 

*5:

gendai.media

*6:

gendai.media