道徳的動物日記

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「弱いものいじめ」としてのキャンセル・カルチャー

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 晶文社の連載で先日に書いた内容の続編的なものを書くために、キャンセル・カルチャーに関する洋書をいくつか取り寄せてもらって読んでいる。

 そのうちの一冊が『Cancel This Book: The Progressive Case Against Cancel Culture(本書をキャンセルせよ:進歩派によるキャンセル・カルチャーへの反論)』。

 

 

 

 

 著者のダン・コヴァリクは昔ながらの労働者支持の左翼。それはいいのだが、タイミングの悪いことにかなりの親ロシア派であって、『The Plot to Scapegoat Russia: How the CIA and the Deep State Have Conspired to Vilify Putin(ロシアをスケープゴートにする陰謀:プーチンを誹謗中傷するためにCIAとディープ・ステートはいかに共謀してきたか)』という本も出していたりする。この本のなかでもロシア擁護的な章も含まれているのだが、まあ本筋とは関係ないのでそこは気にしないでいいだろう。だが、それをさしおいても全体的に時評的・ジャーナリスティックな本ではあり、『アメリカン・マインドの甘やかし』のような理論的・学術的な分析がされているものではない(ので、さして面白くもない)。

 

 とはいえ、この本の第七章「大学における魔女狩り」はわたしの個人的な関心ともマッチしていて興味深く読めたし、重要な指摘もされていた。

 第七章のなかでは、アメリ言語学会(LSA)にスティーブン・ピンカーの除名を誓願するオープン・レターが出された事件についても触れられている(ちなみに著者はピンカーの歴史観などは支持していないそうだ)*1。結局のところ実際に除名されるまでは至らず、ピンカーの立場は守られて教授を続けられているが、それは「ピンカーに対する批判が不当である」と立証されたからではなく、たまたまピンカーがテニュアを持つ大学教授であったからに過ぎない(このことについてはピンカー自身も認めているらしい)。

 日本と同じく、アメリカのアカデミアでも、教授たちの大半は不安定で立場が弱く、大して稼げているわけでもない、非常勤のポジションにいる。彼らがキャンセル・カルチャーの対象になったら、ピンカーの場合とは違って、事なかれ主義で非難を恐れる大学によって簡単にクビを切られてしまう。キャンセル・カルチャーの多くは左派によるものであることをふまえると、労働者の味方をするべきであるはずの左派が立場の弱い労働者を積極的に攻撃していることになる、と著者は指摘するのだ。

 昨今のアメリカの大学の大半には「ダイバーシティ&インクルージョン」の部署があり、一定数の事務員が雇われているわけだが、このこと自体が「魔女狩り」を引きおこしているとも著者は指摘する。ダイバーシティ&インクルージョン部署の事務員には仕事をしていることを当局に示すプレッシャーがかかるので(そうしなければ部署の存在意義が立証できなくなるから)、なにも問題がなさそうな状況でも、なにか問題を見つけて対処しなければならない。結果として、些細な問題でも大ごとにしたり、証拠が不確かでも教員や学生を処罰したりするようになるのだ。

 また、オバーリン大学の学生たち(と大学当局)が町のパン屋を攻撃した事件のように、"Woke"な学生たちによる攻撃の対象は、非常勤講師に限らず、立場の弱い労働者に向かうことが多い*2。これも労働者を守るべき左派の立場からすれば矛盾しているし、それよりも資本主義的で搾取的な大学の労働環境に対する批判を優先するべきだ、といった主張を著者は展開している。

 

 ……先日の記事を書いたときには失念していて、この本を読んでいるときに思い出したが、キャンセル・カルチャーが「イヤ」に感じられる理由のひとつが、目的や意図がいかに善いものであったとしても「弱いものいじめ」として機能してしまう、という構図だ。

 キャンセル・カルチャーは「個人に対する批判・非難を公の場で行うことで、その個人が所属する組織やその個人が関わるメディアやイベントの運営などに対して、懲戒や解雇や契約破棄、または連載の打ち切りや登壇の取り消しなどのペナルティを該当の個人に課することを要求する行為」と表現することができる。

 すると、個人に対する批判や非難がもっともなものであるとしても、常勤職や正規職の労働者は法律や就業規則などが盾となって懲戒や解雇を逃れられるところが、非常勤や非正規の場合には守ってくれるものがないのでクビになったり契約を切られたりする場合がある。イベントの主催者や雑誌の編集部なども、権威や実績のある人については非難から守ろうとするかもしれないが、まだ若くて駆け出しの人だったらたやすく見捨てるかもしれない。もし仮にキャンセル・カルチャーが「悪人たち」に対抗して世の中を是正するための行動であったとしても、犠牲になるのは、悪人ではあるがそのなかでは相対的に「弱者」である人たちなのだ(そして、当然のことながら、キャンセル・カルチャーの対象になっている人たちがほんとうに「悪人たち」であるかどうかについても、個別の事例にはよるだろうがかなりの議論の余地がある)。

 これは、キャンセル・カルチャーが手続き的正義やデュー・プロセスなどの「法」ではなく、示威や権力や人数やレトリックを利用して圧力を加えたり風潮を作り出したりする「政治」によって世の中を改善・是正する行動である以上は、必然的に起こる事態である。……もしかしたら「法」が無力であり「政治」によって是正されることが必要な事態というのも世の中にはあるかもしれないが、キャンセル・カルチャーが行われている事例の大半は、そういう事態ではないように思える。

 

 関連してさらに「イヤ」なところを挙げると、圧力を加えたり風潮を作り出したりしておきながらも、対象にした個人が所属する組織などが懲戒したり解雇したりの処分をすると「責任主体は批判をしたわたしたちではなく、批判を受けて処分をした組織のほうにある」とほっかむりするところだ。

 厄介なのは、形式的には、たしかにその主張は真であるかもしれないことだ。それでも、そういう主張が「責任逃れ」であるということも、大半の人には常識的に判断できることである。理屈がどうであれ、ふつう、目の前でそんな主張をしている人がいたら大体の人は呆れてしまうし、「こいつらとは関わりたくないな」と思うようになるだろう。