道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

読書メモ:『現代思想入門』

 

 

 大学生から大学院一年生の頃までのわたしはいっちょまえに「哲学」や「思想」に対する興味を抱いており、哲学書そのものにチャレンジすることはほとんどなかったが、様々な入門書は読み漁っていた。現代思想については難波江和英と内田樹による『現代思想のパフォーマンス』でなされていた紹介をもっとも印象深く覚えており、次点が内田樹の『寝ながら学べる構造主義』や竹田青嗣の『現代思想の冒険』。個別の思想家についてはちくま新書の『〜入門』やNHK出版の『シリーズ 哲学のエッセンス』を読んでいたが、とくに後者についてはあれだけ何冊も読んだのに一ミリも記憶が残っていない。そして、修士論文を書くために英語圏倫理学や政治哲学の本をメインに読むようになってからは現代思想に対する興味はすっかり薄れて、以降ほとんど触れなくなってしまった。

 

 千葉雅也による『現代思想入門』の前半ではフランス現代思想家のなかでも代表的な存在であるデリダドゥルーズフーコーの三人の思想が解説されている。そして後半には現代思想の源流となる思想家たちの紹介や精神分析現代思想との関係、現在に活躍している様々な現代思想家たちの簡単な紹介や新しい現代思想を打ち出す方法などの様々なトピックについて書かれており、巻末の「付録 現代思想の読み方」では現代思想の本を読む方法がかなり細かく教示されてもいる。これだけ手広い内容のわりに新書としてはごく標準的なページ数であること…『現代思想のパフォーマンス』の半分ほどであるし『現代思想の冒険』よりもやや短い…は本書の大きな特徴のひとつだ。ページ数が短いだけでなく、「ここからは上級編」とわざわざ明言してから深い議論を行なったり、各トピックについて「これについては〇〇の『××』を読んでください」と他の日本人著者による解説書への誘導が本文中でなされるなど、読者にとってはフランス現代思想の「奥深さ」に触れている感じがお手軽に味わえる、親切な構成になっている。

 また、デカい帯にデカデカと書かれている「人生が変わる哲学。」は明らかに誇大であるしこのキャッチコピーを考えた担当者は恥を知ったほうがいいと思うが、それはそれとして、現代思想を「ライフハック」として用いる方法がところどころで紹介されていたり、現代思想と「人生論」が結び付けられている箇所があるあたりも、本書の特徴のひとつだろう。過去や現在の思想家が考えていたことを単に解説されるだけでは知的好奇心が充たされること以上のものは得られないし、社会のことなどの大きな問題に話を結び付けられても一般読者には縁遠く感じられてしまうが、個人の生活や人生という話に関わるとなれば本を読む意味も増す。ページ数や構成に由来するお手軽さと併せて評価すると、過去の現代思想入門書に比べてもかなりサービス精神が強い本であると言えるだろう。

 

 そして、本書では、現在に現代思想に対して向けられている批判や懐疑的な目線が意識されていることも見過ごせない。たとえば、本書の序盤では「冷笑系」という単語が二度ほど登場しており、「現代思想は価値や規範も相対化してしまうから善悪の判断の区別も付けなくなってしまい、結果的に権力やマジョリティを利することになってしまうのでないか」といった批判に応えようとしている。また、第5章では「精神分析なんてデタラメではないか」という批判を取り上げたうえで精神分析が擁護されているし、「付録」では「フランス現代思想は無駄にレトリックが多くて難解だ」という批判を意識したうえでレトリックだらけになってしまう理由を解説して、「レトリックに振り回されずに読もう」というアドバイスもなされている。これらの、批判を意識したうえでの「擁護」は、『現代思想のパフォーマンス』や『現代思想の冒険』にはなかったものだ。

 本書を読んでいて逆説的に思ったのが、なんだかんだで、いまは現代思想にとって「冬の時代」になっているということだ。日本のインターネットには、ドゥルーズデリダフーコーも読んでいないくせにジョセフ・ヒースやスティーブン・ピンカーなどの英語圏の「合理的」な思想家や学者の本を受け売りして「精神分析が間違っていることなんてとっくの昔に判明したし、ソーカル事件も起こったし、フランス現代思想がデタラメだなんてことはもうわかりきっているんだ!」と騒ぐ不届き者が多々存在している。また、ブログやSNSを主戦場にしながら「現代思想批判」を十年以上続けている日本人の翻訳家や学者などもちらほらといる。このタイプの批判者の多くは本人自身がある種の「冷笑系」であったり保守・右派であったりするが、日本の左派の間でも現代思想歴史修正主義と結び付けられて(あるいは左派の間で嫌われ者となっている東浩紀という個人に結び付けられて)敬遠されるようになっている。

 …とくに千葉は『ツイッター哲学』という本を出すくらいにはネットやSNSに浸かっているタイプであり、本人もしばしば炎上したりサヨクとウヨクの両方からしょっちゅう難癖を付けられている人物だ。SNSにおいては批判に取り合わないことが多い千葉であるが、本書を読んでみれば、現代思想に対する数々の(ネット上の)批判を意識しているということが受け取れる(そうでなければ、「冷笑系」という、ややハイコンテクストなネット用語を一般人向けの新書本でわざわざ持ち出すこともないだろう)。つまり、「冬の時代」にあって現代思想の価値を説きながら、お手軽でコスパのいい構成にすることで少しでも多くの読者を現代思想の世界に招くことを目指した、ある意味では志が高い本であるとも評価できる。もっと若手の学者や物書きの連中が「さいきん読んでもいないのに現代思想を批判している連中が増えているけど読んだら面白いんだもん、あいつらひどいんだもん」といった泣き言をぐちぐちとツイッターで垂れ流しているのに比べると、ネットでは批判を相手にせずより広い読者層に向けて充実した主張を発信できる書籍というメディアによって現代思想を広めようとする千葉のスタンスや戦略は、建設的で前向きなものと評価できるだろう。

 

 とはいえ……『現代思想入門』を読んで現代思想の世界にリクルートされる人というのは、やはり、元々から現代思想に興味を抱いていたり多少の知識を持っていたりする人なのではないか、という気がしないでもない。すくなくとも、わたしのように現代思想に対してネガティブなイメージを多少なりとも持っている人を転向させられるほどの内容ではなかった。

 本書では、デリダドゥルーズフーコーなどの思想について「紹介」はされるし、人生論やライフハックや社会について考える方法などへの「応用」の仕方はされる。だが、彼らの思想が何かしらの意味で正確であったり妥当であったりするということについての「論証」や「説得」はなされていないように思えるのだ。

 たとえば…フーコーの権力論が紹介されるだけでなく、フーコーの考えは権力や社会に関する他の見方よりも(なんらかの点で)正確であったり妥当であったりすることが示されない限りは、わたしはフーコーの権力論に賛同する理由を見出せない。また、ドゥルーズの思想がライフハックに応用できるとして、ライフハックをするのに他の考え方(心理学や脳科学行動経済学、あるいはストア哲学など)ではなく現代思想に基づいてしようとわたしが思うためには、他の考え方に比べてのドゥルーズの思想の利点や有効性を論じてもらわなければならないのだ(だってライフハックのためにわざわざドゥルーズを読むのってふつうに考えたら明らかにコスパが悪いし)。

 とはいえ、本書のページ数の短さや、新書の入門書であることを考えると、これは「ないものねだり」であるかもしれない。たとえば倫理学の入門書を新書で書くとして、「道徳なんて存在しないし倫理学なんて意味がないに決まっている」と始めから疑ってかかっている読者を説得するために紙幅を割く、というのはあまり意味がない場合が多いだろう。一冊の新書でできることは限られているし、敵対的な読者を説得する作業はオミットして中立的な読者のために議論を提供したほうが、本として生産的なものになるはずだから。

 …それでも、「他者性」や「逸脱」や「グレーゾーン」の価値を説く「はじめに」の時点で、わたしは「ふつうの読者ってこの程度の議論に同意したり説得されたりしてしまうの??」と感じてしまった。

 でもまあ、逆に、わたしがすでにアンチ現代思想の本を読み過ぎていてその価値観に染りきっていることのほうが問題なのかもしれない。

 

これがおおよそフーコーの権力論の三段階です。そうすると皆さん、「良かれ」と思ってやっている心がけや社会政策が、いかに主流派の価値観を護符するための「長いものに巻かれろ」になっているかということに気づかざるをえないのではないでしょうか。そのようになんとも苦い思いをさせるのがフーコーの仕事なわけです。

 

(p.100)

 

 たとえば上記の段落を読んでいたとき、わたしの頭には「?」マークが浮かび続けた。主流派の価値観を護符することのなにが問題なのか?長いものに巻かれることがなぜいけないのか?それでなんで苦い思いをしなきゃならいのか?……その説明が『現代思想入門』のなかではされていないから、これらがわたしにはさっぱり理解できない。

 しかし、それはわたしがひねくれ過ぎていることのほうに原因がある。ふつうの読者は「主流派だけでなく少数派の価値観も守らなきゃいけないな」とか「長いものに巻かれる権威主義ってよくないな」といったことをなんとなく思っているだろうし、逸脱とか他者とかが何かしらのかたちで大切だということにも、素直な感性で同意できるのだろう。むしろ、(わたしのように)秩序を守ることを重視していたり多数派であることや権威をそれ自体では悪いと思わない人のほうが(新書本を手に取る層や哲学・思想に興味がある読者のなかでは)異端であるのだ。……とはいえ、このことは、いまや現代思想は多数派の感性にすっかり適合した「無難」なものになっているという事実を示しているとも思う。

 そして、異端の読者としては、本書を読み通した後には「やっぱり現代思想ってなくなったほうがいいんじゃないか」と思ってしまった。『現代思想入門』のなかでは「フランス現代思想は世間のイメージほど滅茶苦茶な主張をしてもいなければ極端なことを言ってもいませんよ」ということが繰り返し解説されるが、それで代わりに提示される微温的な主張は大したものであるようには思えない。第六章の「現代思想のつくり方」では現代思想家たちはビジネスのために他の思想家との差別化をはかっていることが(正直に)示唆されているが、哲学とか学問に対して素朴な憧憬を抱いている身としては「それって現代思想家たち自身が自分たちの主張や議論が真実であるとか重要であると思っているとは限らないってことで不誠実じゃん」と思ってしまう。付録の「現代思想の読み方」では現代思想がレトリックに塗れて難解になってしまう理由が(正直に)説明されたうえでそれでもめげずに現代思想を読む方法が解説されているのだが、いくら理由があるとしてもレトリックに塗れて難解である思想にわざわざ付き合う意義がまったく理解できないし、そのヒマがあるなら他の思想や学問の本を読んだほうがいいとしか思えなかったのだ。