道徳的動物日記

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「政治」は「法」よりも重要か?(読書メモ:『哲学がわかる シティズンシップ』)

 

 

 

 シティズンシップ(Citizenship) という単語は様々に訳せられる言葉であり、単に「市民であること」を意味する場合もあれば、「市民権」「公民権」や「市民としての身分」などの制度上の地位を指す場合もあるし、「市民性」「市民に求められる資格や性格」などを指す場合もある。

 欧米におけるシティズンシップの議論も、「市民権」の話をしてるのか「市民性」の話をしているのか、または「市民であること」にとって市民権と市民性のどちらが重要であるか、といった違いによってかなり様子が異なってくるようだ。

 本書の第二章では、古代ギリシアでは「市民性」などを重視する「政治的シティズンシップ論」が議論されていて、古代ローマでは「市民権」などに関する「法的シティズンシップ論」がそれぞれ議論されていたという図式が、(思想史家のJ・G・A・ポーコックの論文に基づいて)紹介されている。

 

政治的共同体のなかで生きることが人間の本性であるという理由から、アリストテレスは人間を「政治的動物」と捉えた。実際に彼は、「ポリス」つまり都市国家のなかにおいてのみ、人間はその潜在能力を十全に開花させられると主張した。

(……中略……)

アリストテレスは、「順番に統治し統治されるという市民的生活を共有するものすべて」を市民と呼んだ。これが何を意味するかは政体によって異なり、また同じ都市国家のなかでも〔年齢などによって〕市民のあいだですら異なることを認めながらも、アリストテレスは、市民とは「協議と司法の公職を共有する権利」を一定程度ともなうものだと考えていた。

(p.39-40)*1

 

アリストテレス的な理想によれば、政治的シティズンシップは、市民が政治参加するため、そして私的利益よりも公共的利益に関心を向けることを確実にするために、経済的・社会的生活の重荷から〔市民が〕解放されることを必要としていた。これとは対照的に、法的シティズンシップは私的利益とその保護を中心にしていた。ローマ法においては、法的地位はまず財産所有者〔自権者〕に帰属しており、所有物の法的地位はその延長上に導き出された。奴隷も法的所有物の一部であり、自分自身を法的に所有している人こそが自由人であった。このように理解された法は、自分自身と自分および他者の所有物をいかに使用することができるか、そして自分自身と自分の所有物を他者がいかに使用することができるかに関するものだった。このことは、多くの点で今日に至るまで変わっていない。聖パウロの例が示すように、所定の法律で訴えたり訴えられたりする権利といった、〔法の〕結果として得られる特権や免責は些細なことではまったくない。しかしながら、法の支配に従属する者が法の制定や運用にかかわる必要がないという点で、法の支配が人の支配から切り離されうるということは、利点だけでなく欠点をも生み出す。

 

(p.50 51)

 

 本書では法的シティズンシップよりも政治的シティズンシップに関する話題が主となっているし、著者のベラミーは明らかに前者よりも後者のほうが重要だと見なしている。

 たとえば、政治参加が民主主義にとって重要である理由を論じた第五章の冒頭では、以下のように宣言されている。

 

確かな基盤をもった民主主義国のすべてにおいて、投票率と政治家への信頼はゆっくりとだが低下が続いており、民主政治への失望はかつてないほどに明白となっている。政治的シティズンシップは要求度が高すぎるとともに価値の疑わしいものとして拒否されている。人びとはますます、私が法的シティズンシップのローマ帝国的見解と名付けたものを採用するようになっている。人びとは、裁判所およびその他の不偏的とされる専門家からなる規制機関が人びとの活動に公平な枠組みを提供することに信頼をおき、その一方で、よくて非効率、悪くすると有害なものとして政治を拒否している。私はすでに本書のさまざまな箇所で、こうした類の議論を支える想定のいくつかに疑問を呈してきた。本章は、シティズンシップと民主政治との結合を支持する議論を、より体系的に提示することを目指す。とりわけ私は、アメリカ、イギリス、スウェーデン、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリア、カナダといった確かな基盤をもった民主主義国において実践されている民主政治は、それが通例晒されているようなシニシズムや批判には一切値しないと論じたい。

 

(p.121 - 122)

 

 おそらく、この邦訳本を読む際にまず注意すべきなのは、原書はいまから15年前の2008年に出版されたということである。アメリカでいえばブッシュからオバマに大統領が交代した直後の時期だ。その後には、民主主義に対する信頼を損なわせて「やっぱり民主主義ってダメかもしれない」と思わせられるような事態や、逆に「やっぱり権威主義や独裁政治よりかは民主主義のほうがずっといいんだな」と思わせられるような事態がいくつも起こった……前者の例としてはトランプ大統領の当選や世界各国での排外主義的なポピュリズムの隆盛、後者の例としてはロシアによるウクライナ侵攻や中国政府によるウイグルの弾圧やその他諸々の人権侵害など。コロナ禍については、当初は「民主主義では有効な感染対策ができなくて被害が広がる、中国のように外出制限やワクチン接種を強制するための強権的なシステムが必要だ」といった論調も強かったが、現在では「コロナ対策について民主主義が権威主義よりも劣っていたとはいえない」という見方のほうが主流であるようだ*2

 上記の引用部分にもあるように「民主主義は非効率だからテクノクラシーのほうがよいのではないか」という議論や「民主主義は理想論に過ぎないのではないか」といった疑念は現在に限らず2008年の時点で存在していたようだし、おそらく20世紀以前からも民主主義に対する疑問はずっと呈されいたのだろう。このような議論に対するベラミーの反論のひとつは、メディアは民主主義の欠点とされるところを過剰に表現して政治的シニシズムを煽っている、というもの。この反論に関してはわたしも同感であり、政治制度の是非は目先の事態や出来事から抱く印象とは別の次元で考えるべきであるはずなのに、しかし特定の時事問題を取り上げて「民主主義は終わった!」と騒ぎ立てる人やそれに説得されてしまう人があまりに多過ぎる、とも思っている。

 ただし、原理的な観点や政治哲学的な観点から考えてみても、民主主義にはいろいろと問題や欠点を見出せるかもしれない。たとえば、以下のようなベラミーの主張に対して、わたしはかなりの疑問を抱く。

 

何らかの確かな基盤をもった民主主義国ーーどの国も不完全であろうともーーのもとにある人生と、いま存在する何らかの非民主的な体制のもとにある人生を比較するだけで、デモクラシーが両者の違いをつくっていることに気づくには充分である。大多数の市民は、デモクラシーから具体的な利得を引き出すことができるのである。どれほど善意をもってかつ効率的に運営されているとしても、自分の意見を表明しそれがひとつの意見として数えられる可能性がない体制においては、人びとは自尊心を失い、おそらくは他者への尊重も欠いている。統治者は、被統治者を同格のものとしてみなす必要がもはやない。つまり、被統治者は、ほかのすべての人と同じ条件で意見を言い、考慮されるべき自分の利益をもつ資格があるものとして見なされないのである。それゆえ、統治者は被統治者を考慮に入れる必要がない。民主的シティズンシップは、権力が行使される仕方と、市民が互いに対してもつ態度を変化させる。これまで指摘したような仕方で、デモクラシーが、統治することと統治されることの責任分担を私たちに与えるゆえに、シティズンシップは、私たちの政治指導者を統制することと、私たち自身を統制しつつも平等な配慮と尊重という基盤のうえで他の市民と協働することの両方を可能にしてくれる。これに反して、私が例示した永住権をもつ居住民は単に許容された臣民に他ならない。その人は自分の見解を表明することはできても、平等な基盤のうえで他の市民に自分の声を聞いてもらう資格をもっていないのである。

 

(p.14 - 15)

 

 まず、ジェイソン・ブレナンが『アゲインスト・デモラクシー』で論じていたように、人びとに「自尊心」を与えるかどうか(あるいは「他者への尊重」とか「平等な配慮と尊重」を実現するかどうか)は政治システムの是非を判断する基準としては不適切であるかもしれない*3。わたしとしても、政治システムが自尊を与えてくれるならそれに越したことはないが、そのためにもっと政治システムのもっと重要な役割……安全保障や諸々の制度の維持、再分配などに関する政策の効率的な制定と運用などなど……を犠牲にすべきではないと思うし、自尊や尊重はせいぜい二次的に考慮すべき事柄に過ぎないとも考える。

 さらに言うなら、デモクラシーの社会で市民権や参政権をもっていることが実際にどこまで人びとの「自尊」と結びついているかどうかも定かではない。このブログでは以前にも何度か書いてきたことだが、政治学者は一般的な人びとの人生観や価値観にとって「政治」が占める役割を高く評価し過ぎる傾向がある……それも、「自分が好きなものだからみんなも好きに決まっているでしょ」という程度の考えに基づいている疑いがあるのだ。断言してしまうが、すくなくともわたしの周りの友人や知人の大多数の「自尊心」は、選挙で投票できるかどうかということやその他の「政治」的な事柄にほとんど影響されていない。選挙結果ですら、彼らの自尊心にはなんの影響も与えていない……わたしの周りには共産党に投票する人もいれば維新の会や参政党に投票する人もいて、選挙結果が出るたびにがっかりしている(維新に投票するやつは喜ぶこともある)し、次の日にも不満や文句を述べることはあるが、三日もすればだいたい忘れていつも通りの生活を行なっているのだ*4

 また、アメリカ人であるがゆえに日本国籍参政権(法的シティズンシップ)を持たないわたしの立場からしても、「平等な基盤のうえで他の市民に自分の声を聞いてもらう資格」が実際にどれくらいの重要性を持っているかどうかはよくわからない。そりゃわたしだって選挙で投票したいから参政権が欲しいとは思うのだが、これもブレナンが述べていた通り、一票の力は実質的には大したことがないのである。選挙とは多数決で行われる以上、わたしが少数派の見解を抱いていたら、他の市民たちと平等な基盤に基づく選挙権があったところで、選挙ではわたしの意見が通らないということには変わらないのだ。

 逆に、参政権の有無に関わらずわたしはこのブログやWeb記事や本を通じて「自分の見解を表明すること」ができている。おそらく、平均的な日本人市民に比べると、わたしはかなり自分の意見に基づく影響力を考慮できる方の存在だ*5。基本的にわたしは日本の政治に関して直接関わるような話題に触れたり持論を述べたりすることは少ないが、やろうと思えばやれるわけである。……本書ではシティズンシップの重要性を強調するあまり、投票以外の方法によって政治的な意見を表明する行為が過小評価されているきらいもある。

 

 第三章では、過去には国内の少数派(労働者階級や女性など)にシティズンシップが与えられてこなかったという歴史的経緯や現在でも外国人や移民のシティズンシップは制限されるという事実などを指摘しながら、共同体の「成員資格」としてのシティズンシップが持つ「排他性」という性質について取り上げられている。

 また、第四章では、「諸権利をもつ権利」としてのシティズンシップ……基本的人権は市民権や国籍より先立つものであるはずだが、どこかの国に所属していなければ基本的人権を享受したり機能させたりすることができないという逆説……が取り上げられている*6

 一般的に、基本的人権について考慮したり懸念したりしている人は「法」を重視しているし、立憲主義を重視するものだ。基本的人権は、どこかの国の政府の力によってもその国の多数派の力によっても侵害されることが許されないものであり、可変的で不安定な「政治」を超越したものだと見なさなければならない。しかし、ベラミーは、この社会の歴史のなかで諸権利(基本的人権)が打ち立てられてきたことや権利を持つ対象が拡大してきたこと(男性だけでなく女性にも参政権が認められるようになったなど)は、「法」ではなく「政治」(政治的圧力や市民的活動など)の賜物である、と論じる。……この主張自体は、政治過程論的な経験論としてはそりゃそうであるという話に過ぎないが(どんな法律にせよそれが制定されるためにはそれ以前に人びとによる何らかの活動が必要とされるというのは自明の理である)、規範論のレベルでも、どうやらベラミーは立憲主義を重要視する議論に対して批判的であるようだ。これに関しては、(ベラミーはイギリス人であるし原著もオックスフォード大学から出ているのでイギリスの本ではあるが)たとえばアメリカでは保守派のほうが(表現の自由や銃所持などに関して)護憲的な主張をする場合がある、ということなども影響しているかもしれない。

 しかし、法よりも政治を讃えるベラミーの議論には、いろいろと違和感や懸念を抱かせられる。たしかに、これまでに市民権(法的シティズンシップ)の範囲が拡がってきたことは市民たちの活動(政治的シティズンシップ)のおかげかもしれない。……だが、近年の排外主義的なポピュリズムは、市民権の範囲が拡がるのを防いだり市民権の範囲をいまよりも狭めたりするために市民たちが活動している、と捉えることができる。民主主義である以上、市民たちがエゴや偏見にも影響された自己中心的な理由から少数派を排除しようとするのはいつだって起こり得ることであり、「これまでの民主主義の歴史を見ると少数派に対する排除よりも包括のほうが実現されてきましたよ」という経験論を述べても、民主主義の危険性を懸念する原理的な批判に対する反論にはならない。だからこそ、政府や政治家だけでなく市民もロクでもない要素を伴う信頼できない存在であると理解したうえで、恣意的な「政治」に左右されない聖域を「法」で守ることは重要であるはずだ。

 

 とくに日本の読者にとっては、ベラミーの議論はリアリティを持たないように思われる。クリシェ的に表現すれば、日本国憲法は上から与えられたものだ。欧米の市民権(法的シティズンシップ)は市民活動(政治的シティズンシップ)の賜物であったとしても、日本ではそうではなかったかもしれない。……だが、獲得の経緯に関わらず、日本の国民は欧米の国民たちと同じように自国の憲法に守られているし、市民権を享受したり活用したりしている。

 ここで浮かぶ懸念は、市民たちが政治的シティズンシップを積極的に行使して民主主義に主体的に参加し続けなければ、政府とか政治家とか与党とかが強くなり過ぎて、やがては(多数派であるはずの一般市民の)法的シティズンシップも制限されたり損なわれたりするかもしれない、ということだ。……これはベラミーが本書のなかで主張していることでもあるし、現在の日本で多かれ少なかれ起こっていることでもあるかもしれない。しかし、先ほど述べたように、政治的シティズンシップの過小ではなく過多によっても、排外主義的ポピュリズムなどのかたちで法的シティズンシップが損なわれるかもしれない*7

 さらに、「市民たちは積極的に政治に参加すべきだ」という程度の主張すらも、リベラリズムとは相反する側面があることに留意すべきだ。ごく素朴に考えれば、政治に参加する自由と同じくらい、政治に参加しない自由も尊重されたり重視されたりすべきであるかもしれない。政治に無関心であることも、価値観の多様性のひとつとして認められるべきであるだろう(もちろん、実際には、リベラリズムの哲学や理論ではこのポイントをふまえたうえで、それでも政治に積極的に参加すべき理由や「政治に無関心な自由」が認められない理由などが論じられているわけだが)。

 

 いろいろ考えていくと、やはり、「シティズンシップ」という単語やテーマ設定がそもそも微妙なのではないかという気がする。

 法的シティズンシップを論じるなら「市民権」や「参政権」というテーマで、政治的シティズンシップを論じるなら「民主主義」や「社会運動」というテーマで、それぞれ別途に論じるほうがすっきりしているのではないか。

 市民権という制度に関する議論と市民としての性質に関する議論が一緒くたにされているから、なんだか気持ち悪いのだ。……政治学などにおいて「シティズンシップ論」というのが一大テーマになっている以上はベラミーの他にも多くの人が法的シティズンシップと政治的シティズンシップを絡めて論じたり同時に論じたりすることに重要性を見出しているということなんだろうけど、わたしにはあまり賛同できない。

*1:アリストテレスの『政治学』は来月に光文社古典新訳文庫に登場します。ほしい。

 

 

*2:

chuokoron.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

*5:平均的な日本人は自分の意見に数千〜数万のページビューを得られたり、自分の意見を書いた本が数千部発行されて本屋に並ぶということがないので。……もちろん、自分以外の著述家や芸能人にYouTuberなどと比べるならわたしの影響力も大したものではないが。

*6:わたしも外国人である以上は、「諸権利をもつ権利」としてのシティズンシップ(市民権)の重大さは認識しているし、この点はかなりシリアスでリアリティを持つテーマだ。ただし、ここでわたしの頭に浮かぶのは居住権とか財産権とか生存権とか福祉を受ける権利とか婚姻とかに関する権利であって、投票権参政権ではない。

*7:ところで、民主主義と立憲主義の両方に、政府に「説明責任(Accountability)」を課すことができるという利点(その代わりに効率性などが失われるという欠点)が存在する。本書ではテクノクラシー的な発想はむべなく否定されているが、たとえば立憲主義には説明責任が存在することで、中国のような独裁や人権侵害を伴わない穏当なテクノクラシーが実現できる、みたいな議論はできるかもしれないと思った。……なんにせよ、権威主義国家と立憲民主主義国家とを分ける大きな違いは「説明責任」の有無であると思うのだが、本書ではこのポイントにはあまり踏み込まれていない。