この本を読んだのはもう数年前であるし現在は手元にもないのだが、最近の情勢と見ていてちょっと思うところがあるので、この本について紹介している記事と過去の記憶を頼りに軽く紹介してみよう。
タイトル通り、人々の「投票をするか/しないか」「デモをするか/しないか」といった政治行動や「リベラル/保守」といった政治的傾向について、心理学における「パーソナリティ」の観点から分析した本である。
とくに、「経験への開放性」「誠実性(真面目さ)」「外向性」「協調性」「神経症的傾向(精神的安定)」からなる「ビッグファイブ」という性格特性の指標に基づいて、政治的行動が分析されている。つまり、「このようなパーソナリティ特徴がある人は、(統計的・平均値的には)このような政治的行動をしやすく、政治的傾向はこのようなものになりがちである」ということがいろいろと論じられているのだ。
とはいえ、この本で指摘されている事象の大半は、パーソナリティやビッグファイブについて多少なりとも本を読んだことがあるなら予想が付くものではあった。
たとえば、「外向性」のポイントが高い人はデモ行進や抗議運動や戸別訪問など、人と関わるタイプの政治的行動をしやすい。「経験への開放性」のポイントが高くて「誠実性」のポイントが低い人はリベラルになりやすく、「経験への開放性」のポイントが低くて「誠実性」のポイントが高い人は保守になりやすい。
この本のなかでもっとも意外な指摘は、「誠実性」のポイントが高い人たちは選挙の際に投票をすることが少なくなる、ということだ。
ここで言う「誠実性」とは英語の「Conscientiousness」の訳語であり、あくまで性格特性の一種であって、日本語の日常語における「誠実」とは必ずしも意味が100%一致しているわけではないことは記しておくべきだろう。……とはいえ、誠実性の高い人とはふつうの意味で「まじめ」な人である、と考えてもほとんど間違っていないはずだ。
つまり、ルールを守る・遅刻しない・仕事をサボらない、そういう人たちのことである。
(著者の)モンダックによると、責任感や誠実性が高い人たちは、陪審員に選ばれたときにその務めを果たす可能性は高い。だが、実のところ、そのような人たちが選挙で投票をおこなう可能性は低い。もしかしたら、責任感や誠実性が高い人たちは投票について慎重に考えたうえで、「自分が投票をしたところで何かが変わるということはほとんどなく、だから政治は自分の時間を割くに値するものではない」と判断したのかもしれない……とモンダックは言う。
https://news.illinois.edu/view/6367/205571
この本のなかでは、選挙での投票とはそもそも期待通りの結果が得られることが保証されていない不安定なものであること、そして誠実性の高い人にとっては家族への義務を果たしたり仕事をすることの優先度が高いからこそ、不安定な「投票」という行為の優先度が低くなる、ということも指摘されていた。
ある意味では、選挙とはギャンブルのようなものである。まじめな人は、ギャンブルに時間を割くくらいなら他のことをする、ということだ。
もちろん、パーソナリティに関するトピックについて「こういうパーソナリティを持っている人のほうがエラい」という価値判断をしたり「こういう傾向や行動をしているならこんなパーソナリティであるにちがいない」と決めつけたりすることはご法度であるだろう。
とはいえ、とくにネットでは批判されがちな「投票をしない」という行動は「まじめさ」から生じているかもしれない、という観点はなかなか有益であると思う。
わたし自身の経験を思い出しても、学生時代から、政治の話で盛り上がれて投票にも行っているらしいやつほど授業をサボったり会合に遅刻していたりして、きちんと授業に出席して学業を淡々とこなしている人ほど非政治的である、という傾向はあった。
もっと風呂敷をひろげれば、優秀なアスリートほど非政治的になりやすかったり(厳しい練習を毎日こなすことと誠実性のポイントには関係がありそうだ)、仕事中にネットで遊んでいる人ほど政治的なコメントをしやすかったりする(誠実性が低い人ほどサボりやすいから)……などなどとも言えるかもしれない。もちろん、これは与太話に過ぎないのだけれども(紹介した本のほうはきちんとした研究や調査に基づいたお堅い本であり、議論の内容も慎重である)。