ジュリア・アナスの『徳は知なり:幸福に生きるための倫理学』については過去にも紹介記事を書いているが、今回は、徳と幸福について論じられている八章と九章の議論を集中的に紹介しよう。
この本の八章では、古代ギリシャにおける「幸福(エウダイモニア)」の概念について説明が行われている。
アナスによると、エウダイモニックな幸福に関する思考とは、人生についての「日常的な視点」と「組織的な視点」を包括することから始まる。
普段のわたしたちは、自分がする行為の意味を「朝に起きるのは、仕事に行くためだ」といったように、直線的な時系列で単純に考える。しかし、「そもそも、なぜわたしは仕事をしているのだろう?」と深く考えるときもある。その問いは、「仕事をしている理由はよいキャリアを得たいからだ、よいキャリアを得たい理由は自分と家族に上流層の暮らしを味あわせたいからだ、その理由は……」という風に続くことが多いだろう。このとき、人生における目標は入れ子状になっていることに気が付く。そして、日常における諸々の行為は、人生における目標を達成するためのものとして統一的に捉えられることが可能になるのである。
また、人生における目標について深く内省すると、自分が抱えているいくつかの大目標が相互に矛盾することに気が付くかもしれない(「キャリアの階段を駆け上がりたい」という目標と「愛する家族との生活を大切にしたい」という目標など)。また、言語化するのも難しい曖昧な目標を抱いていることに気が付くこともある。その場合には、様々な目標を統一的ではっきりとしたものにするために、目標を調整したり再編成を行ったりすることになるだろう。
こうして、あることを別のことのために行うということについての日常的な思考は、私の人生全体を組織立てて考えることに切れ目なくつながっている。これは私の人生についての包括的な思考である。私は達成しようとしているさまざまな目標をもっており、私がすでに歩んでいるこの一つの人生のなかでそれらの目標を達成するためには、それらを組織立てて統一性をもたせなければならないということが、私にはわかってくる。また、それは活動につながる思考である。私が自分の目標をどのように組織立てるのかは、私の生き方と行為の仕方を形作る。この思考は、それらを単に記録するものではない。行為を直線的に考えるときには、私は自分の生き方を観察することができるにすぎない。しかし、行為を組織立てて考えるときには、私はある課題に、すなわち私がそこに向かって努力しているもろもろの目標を組織立て、私の人生全体を形作るという課題に直面することになるのである。
私の人生が全体として目指しているもの、これこそが古代の倫理学理論のなかで「テロス」すなわち「人生の全体目標」と呼ばれるものにほかならない。
(p.206)
そして、「なんのために〜をするのか」という問いは、繰り返していくうちにやがて「人生の目標とは、幸福(エウダイモニア)である」という終点にたどり着くはずだ。「幸福になるために〜する」という考えは成立する一方で、「〜するために幸福になる」という考えは成立しないからだ。
ただし、その目標は外側から「幸福とはこのようなものであり、だからあなたはこのようにしてそれを追求するべきである」と定められるものではなく、それぞれの人が自分の人生をふまえて自分なりに形作っていくものである。
エウダイモニア主義者の考えでは、心のなかではっきりとそう思っていようがいまいが、私たちは幸福を求めている。なぜなら、私たちは、自分のただ一つの人生を歩むなかで、自分の数々の目標をどのように調整すればよいのかについて、誰でもそれとなく考えているからである。幸福は、それぞれの人にとって、あなたの幸福として、よく生きることをあなたがどのように達成するかの問題として位置づけられる。それは、外から押しつけられる何らかの計画ではなく、自分の人生についてのあなた自身の考えから生まれる要求とは別に、何らかの理論によって課される要求でもない。それと同時に、幸福は単に、あなたがそうあってほしいと思っているものでもない。幸福の追求の仕方には優劣がある。というのも、人生の数々の目標や目的をどのように組織立てるか、またそれらを全体的に達成する人生をどのようにして歩もうとするのかについては、うまいやり方もあれば下手なやり方もあるということは明らかだからである。
(p.211)
ただし、エウダイモニア主義者のいう「幸福」とは、単なる快楽や快感ではないし、心理学や社会科学の研究で数値化されるような類いのものではない。また、幸福は、生まれ持った性質はいま自分が生きている状況や環境に左右される類いのものではない。エウダイモニックな幸福とは、人生に対して向き合い問題に対処していくうえでの「態度」や「生き方」のうちに存在するものであるようだ。
……エウダイモニア主義者の考えでは、幸福は、あなたが自分の人生をどのように歩むのか、あなたの人生に含まれる素材をあなたがどのように扱うのかの問題である。幸福は、あなたが何をもっているかの問題ではなく、美しいか、健康であるか、力があるか、裕福であるかの問題でもない。幸福な人生は、単にこうしたものをもっている人生ではないのである。実際、いま挙げたものをすべてもっていながら、少しも幸福に生きていない人もたくさんいる。幸福な人生とは、もしあなたがそれらのものをもっているなら、それらのものをうまく扱いながら生きる人生であり、もし病気や貧困や地位の喪失が降りかかるとするなら、それらにうまく対処しながら生きる人生なのである。
(p.216 - 217)
幸福は活動にかかわるものである。つまり、幸福は、何を行うにしてもそれをどのように行うかの問題であり、 自分の人生について深く考え始めるときに、置かれている環境がどのようなものであっても、とにかくその環境のもとでどのように生きるかの問題なのであある。私が倫理的内省を始めるときに、私の人生には、手を加えるための素材とみなさなければならないものが数多くある。倫理面から見てこのとき最初の一歩となるのは、自分の置かれた状況から注意をそらすことではなく、ましてやそれを無視することでもなく、その状況の本質は何かを理解し、できるかぎり自分のことを知り、それからこのような環境のもとでもっともよく生きるにはどうすればよいかを考えることである。
(p. 218 -219)
この後には、エウダイモニア的な幸福論の最大のライバルであるヘドニスティックな幸福論として、快楽・欲求充足・生活満足度のそれぞれを幸福と同一視する各議論が提出されて、反論される。「エウダイモニア主義者の考える幸福は、快楽を排除しないが、幸福は快楽そのものでありうるという見解は退ける」(p.240)のだ。
第九章の「徳と幸福」では、エウダイモニックな幸福概念が徳と結び付いている理由が論じられる。
幸福をヘドニスティックに捉えてしまうと、「徳と幸福は結びついている」という考え方は欺瞞的なものになってしまうだろう。人を騙したり既得権益にしがみ付いたり社会問題や身近な人の苦難から目を背けたり卑怯に立ち回ったりなどなど、不道徳な生き方をする人であっても、快楽や快感を得ながら生きることはできるからだ(というより、不道徳な人の方がより多くの快楽を得ながら生きている、という事例は多いだろう)。
その一方で、徳と幸福は結びついている、という考え方には常識的で理にかなった部分もある。
私たちは、自分の子どもが狡猾な人や臆病な人ではなく、正直な人や勇敢な人に成長してほしいと思い、子どもを育てるときに、(できるかぎり)このような徳を身につけさせようとする。そうするのは、単に自分のために、つまり親が自分の利益を追求するときに、子どもを当てにすることができるようにするためではなく、子ども自身のために、つまり狡猾な人や臆病な人であるよりも、正直な人や勇敢な人である方が、よりよい人生を歩むにちがいないと考えるからなのである。
それゆえ、幸福な人生について考えているときに、私たちが自分自身にも子どもにも徳を身につけさせたいと思うのは、常識以外の何ものでもない。これは、幸福に生きることにとって徳が必要条件であることも、十分条件であることも示していない。むしろそれは、有徳に生きることは幸福に生きることを少なくとも部分的に作り上げるという予想が、控えめに言っても理にかなっていると私たちが考えていることを示している。
(p.244)
ヘドニスティックな幸福概念の提唱者たちが幸福と徳の結びつきを見失ってしまうのは、彼らが、快楽や快感という静的で受動的なものとしてしか幸福を捉えられないからである。「徳はそれ自体として、動きをともなうことと前向きであることを本質とする」(p.248)。ヘドニスティックな幸福は自分の人生を取り巻く「環境」という偶然の要素に左右されてしまうことになるが、エウダイモニックな幸福は動的で実践的なものであり、環境への対処や向き合い方のなかに存在する。
そして、徳は、環境に向き合って自分の人生を切り開くためのエネルギーを与えるものであるのだ。「幸福に生きるためには、幸福それ自体にそなわる活動力と内的な駆動力と同じくらいの力をもった何かを私たちは必要とするのであり、徳はそれを私たちに与えるのである」(p.253)。
また、アナスによると、徳は「技能」である。そして、徳は訓練や経験や熟慮を経て、ひとりの人生のうちで「発達」させていく概念だ。
そして、正直さにせよ勇敢さにせよ、徳を発達させていく過程においては、人生に置いてなにが大切であるかという「価値付け」を行わなければいけないタイミングが生じる。
たとえば、勇敢さという徳が発揮されるときには、「安寧で快適に過ごすこと」を犠牲にしなければいけない場合がある。適切に勇敢であるためには、「安寧や快適を犠牲にしてでも守らなければならない価値とはどのようなものであり、人生について勇敢さが求められる場面とはどのようなものか」ということについての理解を深めなければならない。
つまり、徳の発達が深まれば深まるほど、自分の人生において価値のある事柄に対する自分の理解も深まっていく。そして、自分にとって幸福とはどのようなものであるか、ということへの見解も明確になっていくのだ。
この点は、個々の徳ではなく、徳全体について考えるならば、さらにはっきりする。性格の全体が発達するとき、それが全体的に統一性のあるかたちに向かって発達するかぎりは、幸福感も同じように統一性をもつようになる。性格が発達し、衝突する諸価値に関連するもろもろの徳を相互に結びつけるようになれば、そのような衝突する諸価値に対する肩入れは弱まる。理想的な発達を遂げた場合には、自分の人生のなかで価値のあるもの、追い求めるに値するものに関する統一的な見方が、すなわち自分の幸福に関する明確な考えーーそれは性格の統一的な発達を促進するものであると同時に、その発達によって深まるものでもある ーーが生まれる。
(p.270)
以上のすべてのポイントは、幸福な人生を魅力的に描き出している。本書の説明に従えば、幸福な人生は、私たちがそれを実現するために奮闘し、実現したあとはそこでくつろぐような、ある種の楽しい状態ではない。それではまるで、引退し、そこにたどり着くために自分がしてきた仕事を忘れることを目的として、好みに合わない仕事に日々取り組んでいるようなものである。むしろ幸福は、つまり幸福に生きることは、常に進行中の活動にほかならない。それは進行中のプロジェクトである。それゆえ、本書の説明は、いい気持ちを感じていることや、欲しいものを手に入れることや、満足していることという観点からの説明とはまったく異なる。それは、受動的な経験ではなく、活動と従事を強調する幸福の説明である。
(p.275)
このブログでは、ジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』をはじめとしてポジティブ心理学の考え方について何度か紹介してきたが、ポジティブ心理学者たちの大半は、古代ギリシアの哲学者の徳倫理を参考にしながら、ヘドニスティックな幸福感を否定してエウダイモニックな幸福感を唱えているものである。そして、アナスの『徳は知なり』では、ハイトやマーティン・セリグマン、ミハイ・チクセントミハイなどのポジティブ心理学者たちの著作が参考文献に挙げられている。哲学に関する研究と心理学に関する研究が、それぞれに影響を与えているということなのだ。
実際、セリグマンによる「幸福の方程式」は、アナスによる「エウダイモニア」の説明に通底するところがある。
H(幸福)=S(生物学的な設定点)+C(生活条件)+V(自発的活動)
セリグマンの本が手元にないので『しあわせ仮説』におけるハイトの説明を参照しれみると、「いくら自発的活動を行っても、幸福はどうしても生活条件に左右される面がある」ということが指摘されている。
たとえば、「騒音」「長い通勤時間」「コントロールの欠如」「外見の悪さや体型の欠点から生じる恥ずかしさ」「良好でない人間関係」などは、ほぼすべての人にとって、幸福に生きることに対して大なり小なり支障を生じさせるものだ。
幸福の方程式におけるCは現実であり、外界には重要なものもある。世の中には努力して手に入れる価値があるものがあり、ポジティブ心理学は、それが何であるかを見つけるための手助けとなるだろう。もちろん仏陀は、騒音や交通量、コントロールの欠如、体型的な欠点に対して完全に適応できたであろうが、生身の人にとって、仏陀のようになることは、古代インドにおいてさえ常に困難なことであった。
(p.143)
……とはいえ、チクセントミハイが論じたような「フロー体験」を自発的活動から得ることの重要性をハイトとアナスの両方が強調している、という点は示唆的だ。
また、ハイトによると、「バイタル・エンゲージメント」にはフロー体験と「自分の人生の意味づけに合致していること」との両方が必要とされる。これも、「人生における統一的な見解と目標」を強調する、アナスによるエウダイモニアの説明と一致している。喜びや没頭などの体験的な側面だけでなく、理性的で認知的な側面も、「自分は幸福な人生を過ごしている」と思えるようになるためには欠かせない、ということなのだ。
さらに、ポジティブ心理学では、個人の特徴や性格や適性から成り立つ「強み」も重要視される。すべての人に向いている仕事や生き方というものはなく、万人が幸福に至る道は存在しないということを理解したうえで、自分の強みを発揮して生き生きと活躍できるような仕事や生き方を探して実践することが大切である、と強調されるのである。
これもまた、アナスによる「徳」の説明と一致するものだ。徳倫理はしばしばエリート主義的になりがちであり、また勇敢さや正直さなどの全ての徳を身に付けた「ザ・有徳者」の存在を想定してしまいがちである。
だが、アナスによると、徳とはどこかで「完成」に至ったり「正解」があったりするものではない。そうではなく、人それぞれに修練を積んだり熟慮したりしながら、常に実践することで当人のうちで発達していく、動的で終わりのない事柄が「徳」であるのだ。
そして、全ての人が全ての徳を身に付けることも想定されておらず、自分が過ごしてきた人生のかたちや自分の生まれ持った性格などをふまえながら自分に向いた徳を発達させることが重要だ、という主張もアナスの議論には含意されているようである。彼女は徳の習得をピアノやテニスのような「技能」の習得に類推させて論じているが、ピアノが下手くそでもテニスなら一流の人がいてその逆もいる、ということだ。