道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

誰もが平等に幸福になれるわけではない

 

(某所に掲載する原稿として書きはじめたのだが、書いているうちに論旨が迷子になって自分でも無理を感じる内容になってしまったので、「これじゃダメだな」と判断して取り止めた。でもせっかく書いたのが無駄になるのもイヤなので、無理やりにまとめて、こちらに放流する)。

 

 インターネットが発達した現代では、Twitterやブログなどを通じて、だれもが自分の思いや考えを発信している。自分の生活や人間関係についてつぶやくだけでなく、仕事やキャリアについて熱く論じられたり、社会や政治に関する問題について意見が表明されたりしている。

 民主主義の視点からすれば、「多くの人が、自分の価値観や主張をを他人に対して表明している」という状況は、基本的には望ましいことである。多様な意見が提示されたうえで、それらの意見の間の妥協点を見つけて利害の調整をはかろうとしたり、意見を競合させて「もっとも正しい意見はいずれであるか」ということを決めたりするのが、民主主義というものであるからだ。

 

 しかし、「だれもが自分の意見を発信できること」には弊害も伴う。どんな人でも好きなことについて意見を発信できるということは、自分がよくわかっていない問題や知識の足りていない問題についても意見を発信する人が出てきてしまう、ということだ。

 疑似科学フェイクニュース陰謀論などの問題は、ネットの時代にはじまったことではない。テレビや新聞や書籍などの昔ながらのメディアにおいても、ジャーナリストや活動家といった怪しい肩書きの人々がフェイクニュース陰謀論を喧伝したり大学教授や物書きが疑似科学を広めたりすることはあった。

 それでも、意見を発信できる人の数が限られていた時代においては、誰がどんなことについて意見を発信できるかということには「選抜」がはたらいていたはずだ。「他の人たちに比べてこの人の方が、その意見について発信できるほどの知識や経験を持っている」と見なされなければ、メディアで意見を発信する機会を得ることは難しい。なかには適当な主張をしたり嘘を吐いたりする人がいるとしても、メディアを通じて発信されている意見であれば、それは信頼できるものである可能性が高いはずである。つまり、テレビや書籍といったメディアは意見に意見の質を保証して、意見に「権威」を与えるものであった。一方で、インターネットに書き込まれる意見には「選抜」がはたらかず、その意見を書いている人がその問題について発言するに足る知識や経験を持っている、ということは保証されていない。

 そして、意見を受信する側の人々も、意見に「権威」があるかどうかということには無頓着になって、自分の考えや気持ちを肯定してくれる意見の方にばかり流されるようになっていった。これが、インターネットの時代において陰謀論疑似科学が蔓延する構造であるだろう。

 

 とはいえ、政治や科学に関する誤情報やフェイクニュースという問題については、「そういう問題が存在する」ということは多くの人に意識されるようになっている。

 しかし、「だれもが自分の意見を発信できること」は、より微妙で曖昧な物事に関する人々の認識や考え方にも影響を生じさせているようだ。

 たとえば、「幸福」に関する考え方だ。

 

  インターネットを覗いてみると、人々は「幸福とはこういうものだ」ということに関する自分の意見を、直接的なかたちにせよ間接的なかたちにせよ、様々に表明している。だが、そこで表明される幸福観には、独特の偏向や歪みが存在している。そして、その幸福観は、哲学者や科学者が幸福について論じてきたこととは様相が異なっている。その「幸福」のかたちはかなり視野が狭く、短絡的で、不健康ですらあるのだ*1

 

 幸福についての考え方で昔から存在する典型的なものは、「快楽主義」だ。快い感覚をより多く得られたり、より多くの欲望を満たせたりすることが幸福である、という考え方である。

 快楽主義の考え方はシンプルであるだけに理論として強力な側面があり、古来から理論としての快楽主義を擁護する哲学者は存在してきた。その一方で、快楽主義は子どもでも簡単にたどり着ける考え方であることもたしかだ。そして、インターネットを覗いてみれば、まさに子どものように単純な「幸福」が提示されていることが多い。

 快楽や欲望という言葉からは、食事や酒、あるはセックスが想像されるだろう。性欲はともかく、食欲や飲酒欲については、現代では簡単に満たせることができる。特に日本では質の高い食事を安価で提供されているとされており、数百円も出せばチェーン店で牛丼やイタリア料理が食べられるということが、「日本人は他の国と比べて幸福である」という主張の根拠とされる場合もある*2

 そして、酒についても、日本は度数が高く飲みやすい缶チューハイが安価に手に入れられる。ストロングゼロで宴会をする若者たちの姿や、コンビニで買ってきたつまみを片手に週末にひとり酒をするOLなどの姿は、退廃的でありながらも、たしかな幸福のイメージとして提示されているのである。

 一方で、おなじ食事や飲酒であっても、個人経営のレストランで提供される上等な料理や、高価なワインや蒸留酒など、クオリティの高いものを味わうことに関する幸福について主張することは、必ずしも主流派でない。

 クオリティの高さよりも「均一化されたチェーン店で、誰でもおなじものが味わえる」ということの方が強調される理由のひとつは、効率の良さや簡便さといった「合理性」自体に対してポジティブなイメージを抱く人が多いことにあるだろう*3。そして、チェーン店での食事やコンビニで買える酒という幸福は誰にも平等に手が届くものである、ということも大きい。レストランでの食事や高価な酒の良さを理解できるようになるためには経験や資金が必要とされるが、それには生まれ育ちや収入による不平等が存在する。

 

 インターネットの「幸福」観では安価で効率の良い飲食の快楽が重視される一方で、「キャリア」や「家族」、あるいは「人間関係」に関する幸福は軽視されがちである。

 ポジティブ心理学をはじめとする幸福についての科学的研究に目を向けると、快楽は幸福のなかでもかなり頼りないものであることが示されている。人間はすぐに快楽に適応してしまうのであり、快楽から得られる幸福感は短期的で持続性のないものであるからだ。

 快楽という感覚ではなく、「行動」や「態度」から得られる幸福の方が、安定性があって満足度が高い。具体的には、自分の性質に向いていてやり甲斐のある仕事に就くことや、人生における目標を定めてそれに向けて努力をし続ける生活を送ることが、幸福な人生を過ごすためには重要となるのだ。

 また、人間はきわめて社会的な生き物であるために、家族と社交は人間の幸福にとって欠かせない。ポジティブ心理学の本を開いてみると、「子どもを持つこと」が幸福につながるかはケースバイケースであるが、「配偶者を持つこと」はかなり高い確率で幸福度を上げる、ということが示されている。また、ネットでは「煩わしい人間関係を排除して、自室で趣味に没頭する」ことの幸福が強調されがちだが、孤独になることが人の心身に与える悪影響はおどろくほどに軽視されがちだ。

 しかし、よいキャリアを手に入れたり家族や友人と健全な経験を築き続けるためには、継続的な努力が必要となる。それ以上に重要なのは、生まれ育った環境や社会・経済の状況や本人の能力や精神的問題などのために、いくらがんばってもそれらを手に入れることができず、快楽よりも上等な「幸福」とは無縁のまま人生を終わらせてしまう、という人が必ず発生するということだ。

「幸福は誰にも平等に訪れるわけではない」ということは、世の真理であるとわたしは思う。現代では、おそらくかなりの人が、無意識的にまたははっきりと「自分には幸福になる権利がある」と考えている。しかし、そういう人たちにとっては、キャリアや家族は幸福な人生には欠かせない重大な要素である、という事実は不都合なものとなるだろう。幸福は態度や努力や行動から訪れる、ということすらからも目を背けようとするかもしれない。

 逆に言えば、飲食による快楽……それも、チェーン店での食事やコンビニで買える酒から得られる快楽は、数百円さえあれば誰でも得られるという点で、民主主義的で平等主義的な「幸福」である。そして、キャリアや家族による幸福を無視して快楽だけを「幸福」と定義してしまえば、「誰もが平等に幸福になれる」という命題を真とすることができてしまうし、自分が幸福になる権利を守ることもできてしまうのだ。

 要するに、インターネットにおける幸福論で起きていることは、凡庸で無能で哀れな庶民たちによる、幸福の「引き下げ」だ。キャリアや家族や人間関係に恵まれている人が感じている豊かで充実した幸福は無視してしまい、幸福と快楽を同一視することで、ほんとうの意味で幸福である人とそうでない人との間に存在する差を無くそうとしているのである。これは、ニーチェが言うところの「ルサンチマン」がただしく当てはまる現象であるだろう*4

 

 ポジティブ心理学は、アリストテレスストア派などの古代ギリシャの時代の徳倫理学者たちの議論を大いに参考にしている。

 そして、現代の徳倫理学者たちの議論も、幸福という概念についてはなかなかに鋭いことを言っているものだ。

 ここまでに書いてきたような議論に関係あることを引用してみると、たとえばジュリア・アナスは『徳は知なり』でこんなことを書いている。

 

いかに生きるべきかを真剣に考えるときに、快い感覚はどうみても私たちにとって重要なものにはならない。快楽は、人生のなかでもっとも重要なもの、あるいはそれを中心として人生が組織立てられる目標となるにはあまりに取るに足らない代物である。人生のなかでもっとも重要なものは快楽であり、快楽こそが最優先の目的であると考える人のことを聞いたと想像しよう。私たちは、この人はわがままな二歳児と同じ精神構造をもった大人であると結論するだろう。また、この人はどのようにして現実の世界を生き抜くつもりなのだろうかと不思議に思うだろう(わがままな二歳児の方ですら、あまりうまくいかないにちがいない。どの子育て本でも指摘されているように、常に快楽を与えようとすることによって子どもを幸福にしようとしても、実際のところそのやり方では功を奏さない)。

(p.222)

 

 

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学

 

 

 

 あるいは、リチャード・テイラーの『卓越の倫理』もなかなか刺激的だ。

 

…古代の哲学者のほとんど誰も疑問に思わなかった「ある種の人々は他の人々より本当に優れており、したがってより大きな値打ちがある」という信念がなかったとしたら、アリストテレスの重要な特徴が失われてしまうであろう。まことに、これこそ「気概」という観念自体に内在しているものなのである。アリストテレス以上に気概の倫理を見事に表現している道徳哲学などないのだ。

古代の道徳学者たちが考えていたように、道徳哲学の目的が「人間の自然本性」についての理想を描き、その実現への道筋をつけることであるとするなら、「賢者も愚者もみな等しく理想に到達できる」と想定するのはほとんど不可能である。事実はその反対であって、「少数の人を除けば、どのような人でもいずれは理想に到達できる」などということはなさそうだ。だから、理想を実現した人は理想を実現できなかった大多数の人々よりも文字通り「より善い」のである。このような前提なしに古代の道徳哲学者たちを理解しようとするのは、義務の観念を削除してカントの道徳哲学を理解しようとするようなものである。

 

このようなエリート主義、すなわちアリストテレスが価値ある人々とそうでない人の間にはっきりとした不公平な区別を設けたことは、決して気まぐれではないし特異な嗜好でもない。これと同じようなことは、「奴隷と友人になれるか」ーーアリストテレスによると奴隷とは「生きた道具」にすぎないーーという難しい問題をやや苦心しながら論じた箇所で繰り返されているし、アリストテレスが真の友人関係は比較的少数の「善き」人々、つまり「個人の卓越」の厳格な水準に達した人々の間でしか成り立たないとしている箇所にも見られる。まさしくエリート主義はアリストテレスの倫理概念全体に固有なものなのである。

仮にアリストテレスに対して「経験上はそうではないが、全ての人間は本来的に、あるいは自然本性によって、平等である」と仮定するよう求めたとすれば、彼にとって最も基本的な倫理の諸問題は存在さえしなかったであろう。アリストテレスにとって倫理の役目とは「人間の間の不平等を助長し増大させること」、つまり「自然本性的により善き人々が、他の人々よりも個人的価値をできるだけ高められるようにすること」に他ならなかった。

(p.110 - 111)

 

子供、白痴、未開人、さらには動物にも快苦を経験する能力が完全にある。しかし彼らのいずれも、本書における意味で「幸福」になることはできないのである。確かに「幸福な子供」とか、「幸福な知恵遅れ」と言うのは正しいのだが、そうした事例には注意する必要がある。

例えば「幸福な子供」とは、良い生活をしている子供である。言い変えれば、「しあわせ」の条件に合致している子供のことである。これらの条件には愛情、信頼感と安心感、愛情のこもった躾などが含まれている。実際こうした恵まれた条件にある子供は不機嫌でも不安でも憂鬱でも陰気でもない。これは明らかに幸福を意味するから、その意味では「幸福な子供」と言えるのかもしれない。

しかしながら、やはりこの子は哲学的に重要な意味においては「幸福」ではない。すなわち「何かを実現している」とか「最高の個人的善に恵まれている」という意味では「幸福」ではないのである。この種の「幸福」は子供の場合は、将来に期待するしかない。「幸福な子供」という場合の「幸福」とは、確かに現実的なものであるから大切ではある。だが所詮は「気持ちいいい感じ」、つまりある種の健全な生活を送る時に感じる「感覚」の域を出るものではないのである。もちろんそれはそれでよいことなのだが、道徳的生活の目的である「偉大な善」ではない。偉大な善を獲得するには通常、人生の大半の時間を要するのである。

(p.183)

 

 

 

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

卓越の倫理―よみがえる徳の理想

 

 

 テイラーの主張は、最初に読んだときにはわたしもギョッとなった。しかし、読んでから一年ほど経ったいまとなっては、「こういう議論も必要であるな」と思うようになっている。

  すくなくとも、自然科学や社会問題に関する意見には信頼性や権威を求めるのと同じくらい、幸福に関する意見にも信頼性や権威を求めるべきだ、とは思うようになった。あるいは道徳に関してであったり恋愛に関してであったり、なんにしても「だれもが自分の意見を発信できること」という状況には、よくない面もあるかもしれない。

 

*1:主語を「インターネット」と大きくしているが、実のところここでわたしが想定しているのは、主にTwitterはてなで散見される、特殊なタイプの意見だ。以降の文章では特殊なタイプの意見がインターネットの代表的な意見であるかのようにして議論を展開してしまっているので、その時点でこの文章は破綻しているといえる。

*2:

pret.yakan-hiko.com

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:といっても、わたしはニーチェを読んだことがないのだけれど。