道徳的動物日記

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公正価格の誤謬、「ホモ・エコノミクス」批判批判(読書メモ:『資本主義が嫌いな人のための経済学』③)

 

 

 

● 第7章「公正価格の誤謬」から。

 

あえて私の考えを言えば、左派または人類の味方とすら辞任する御仁にとって、豊かな工業化社会で食住をあがえない人がいるのはいるのは許しがたいことだ。それだけなら問題ない。だが、ここで二つの大きく異なる見方がある。食中をあがえない人がいるなら、問題はこれらが高すぎるか、お金が足りない人がいるかのどちらかだ。同様に、問題の解決法は二つある。一つ目は価格を変えること、二つ目は国民の収入を補うことだ。だが、なぜか二番目の選択肢は見過ごされる傾向がある。そのため「公正価格の誤謬」とでも呼ぶべき論考パターンができあがる。再分配の様式に生じる不公正の直接の原因は価格だからと、給付金の効果を無視するものである。

 

(p.175)

 

 この章でヒースが指摘するのが、左派による「公正価格の誤謬」は電気料金や賃貸住宅などの生活に欠かせないものが貧困層に人々にとって高すぎるという消費者側の視点と、発展途上国が先進国向けに輸出する値段が安すぎるという生産者側の視点の両方で生じている、ということだ。前者については、電気料金の切り下げや家賃統制などの価格操作的な政策が取られ、後者についてはフェアトレード運動に結びつく。しかし、これらのどちらもが、意図しているものとは異なる効果や逆の結果をもたらしてしまう。   

 電気料金を切り下げることは過剰な消費を招くだけでなく、貧困層の人々以上に富裕層の人々を得させてしまう。生活費に占める電気料金の割合は貧困層のほうが高いとはいえ、電気を消費する絶対量は富裕層のほうが大きいために、「貧しい人に一ドル届けるごとに金持ちに二ドル与えることが必要となる社会政策」(p.178)になっていて、非常に非効率的なのだ。

 家賃統制は賃貸物件の条件を借主側にとって有利で魅力的にするために、本来なら持ち家を買っていたような層の人たちまでもが賃貸をしたがる。そのために、貧困層は部屋をめぐって中間層や富裕層と競争することになってしまい、結果として、都市部に引っ越したくても空いている部屋がないという状況になってしまう。価格操作は供給と需要のバランスに不自然な影響を与えて歪めてしまうことになる。

 フェアトレードに関する指摘は以下の通り。

 

フェアトレードの文献には、地主や、焙煎業者、ブローカー、多国籍企業から破廉恥に搾取されるコーヒー生産者の胸のつぶれるような話があふれている。だが変えようのない事実がいくつかある。世界のニーズより一〇〇〇万袋も多くコーヒーを生産しているなら、適切な解決法はそんなに多く生産するのをやめることだ(存在しない西洋の消費者向けのコーヒー豆栽培に使われた土地と労働力は、本当に必要とされているもの、例えば食糧の生産に使うこともできたのだ。それは重要なことなので忘れずにいたい)。ところが、苗木を植えたり身が熟すまで世話したりといった「埋没費用」ゆえに、あまりに多くのコーヒー生産者が、他人が自分より先に市場から離脱するのを望みながら粘っていた。

原因療法ならぬ対処療法に走る見本のごとくに、オックスファムその他のフェアトレード信者は、西洋の消費者がこの供給過剰に対し、コーヒーにもっと高値を払うべきだと示唆した。悲惨なほどばかげた提案だ。これでは(問題を解決しないという意味で)間違っているだけでなく、(解決すべき問題をまさしく悪化させるという意味で)とるべき行動の正反対ですらある。

 

(p.195)

 

「希少性価値形成」に関連する、「社会的費用」の説明もなかなか(難しくて)興味深い。

 

「社会的費用」は、各人の消費が社会に課した放棄の度合い、または控えさせた消費を表している。これはかなり抽象的な概念だ。というのも、ほかの誰かに消費されたであろうその財だけではなく、その財を作るのに注がれた労働力と資源をほかの何かに支えて、ほかの誰かに消費されえたのだ、ということも含めるからである(だから一杯のコーヒーを飲むとき、それを飲みたかったかもしれない人から、その一杯のコーヒーを取り上げているだけではなく、その土地を使って育てて欲しかったであろう人から野菜を、その農民を裁縫工場で雇ってほしかったであろう人から服を……以下続く……取り上げているのだ)。

一杯のコーヒーを飲むとき人が他人にどれだけ不便をかけるかは、二つのことで決まる。第一に、ほかの人がどれほどコーヒーを必要としているか、第二に、もっと生産するのにどれだけ手間がかかるか(もっと経済学的にいうと、コーヒーの需要供給曲線はどうなっているか)。コーヒーの価格が需要と供給の変化をたどるなら、この困難さの程度を反映したものになりがちだろう。ほかの誰もがコーヒーを本当に必要とするなら、もっと払う覚悟をするだろう。コーヒーは、それを飲む人間がほかのみんなに本当に必要なものを与えないという事実を反映して、もっと割高なものになる。だからコーヒーを飲む人は、他人に与えないことを正当化するために、心底から必要としているほうがいい。上昇した価格を払うのにやぶさかでないことこそ、その人にとってそれが本当に必要であることの証左となる。

同じように、もしコーヒーが豊富でわりと生産が簡単ならば、おかわりをしてもさほど問題ではないが、もしコーヒーの生産にもっと多くの材料が必要になってきたり、ほかの部門でその材料の需要が高まったら、コーヒーの生産を縮小して、労力をよそへ注ぎたくなるかもしれない。この場合にもコーヒーは、消費者が求めるほかのものの生産に材料を使うほうがいいかもしれないという事実を反映して、もっと割高になる。そこで支払いの意思が見られるなら、コーヒーの生産は必要とされる時間と労力に見合う価値がまだあるということだ。もし見られないなら、紅茶に切り替える人が出てきてしかるべきだ。

ここでの原則はごく単純である。個人の消費行動が社会へどんな損失を与えるにしろ、消費した商品から個人が得る満足によって正当化されねばならない。紅茶を飲んでもコーヒーと同じくらい満足する消費者は、もしコーヒーに伴う社会的費用のほうが大きいなら、コーヒーを飲むべきではない。これを達成する一つの方法としては、消費者の頭のなかを覗きこんで本当はどれぐらいコーヒーと紅茶が好きかを割り出してから、その生産に何が関係しているかチェックすることだ。もっとずっと現実的な方法は、それぞれの財を人が買いたいと思う総量と売りたいと思う総量が一致するときの価格水準を割り出すことだ。これが「市場精算価格」と呼ばれるものである(競争市場はこの価格を決するものだが、その一手段に過ぎない)。

 

(p.180 - 182)

 

 なんにせよ、ヒースがこの章や『資本主義が嫌いな人のための経済学』全編で主張しているのが、「私たちは道徳的直観に区切りをつけるのを学ばねばならない」(p.184)ということである。私たちは分配的正義に関する直感を持っているだろうし、社会や市場の状況がその直観に反するものとなっていることは多いだろうが、そこで所得の分配を「公正」なものにしようとすることは間違っていないけれど、価格を「公正」なものにしようとするのはやめるべきだ。システムやメカニズムを直観に基づいていじろうとすることは黄信号なのである。

 

● ついでに、第9章の「資本主義は消えゆく運命」の内容についてもちょっと紹介しておこう。

 この章では、「資本主義はいつか克服されてなくなるものだ」という左派の基本的な信念が批判されている。そして、この左派の信念は「過剰生産の誤謬」に基づくことが指摘されたり、不況や恐慌に関するケインズ主義の説明(と多くの左派がそれを誤解していること)が紹介されたりするのだが、なにしろ難しくてきちんとまとめるのが難しいので省略*1。いずれにせよ、資本主義の「矛盾」に見えた諸々のこと……不況、消費主義による勤労意欲の喪失、グローバリーゼーション、環境危機など……は、資本主義の「不調」を」をあらわすものではあるかもしれないが「矛盾」を示すものではないし、資本主義を根本から揺るがすものでもなければ資本主義システムの「構造的特徴」ですらない、ということだ。たとえば環境の問題については、経済が成長したからといって自然が破壊されたり資源が掘り尽くされたりするとは限らない。むしろ、経済が成長して豊かになればなるほど、物質を基本としないサービス業が経済に占める割合は増えていく。ソフトウェア、音楽、ヨガのレッスン、哲学の講義などはいずれも豊かな国でこそ商売として成り立つが、それらは環境にほとんど影響を与えないのだ。

 とはいえ、一部の資本主義全面肯定派や合理的楽観主義者とは違って、ヒースは「…環境に優しい成長もあれば、優しくない成長もあるのだ」(p.255)とは認めている。経済が環境への影響という外部性やコストを伴うこともたしかなのであり、それを無視して経済成長を最優先の政策目標とすることは「便益計上、費用無視」という(右派にありがちな)誤謬なのである。

 最後に、9章の結びの部分を引用。

 

…資本主義はたしかに脆弱な部門もあり、きちんと管理統制しなければならないが、人類が考案した最も非集権的な協同システムである(中央管理機構をもたないインターネットと多くの点で比較可能)。資本主義の「廃止」にいかに骨が折れるかの感触をつかむには、さまざまな薬物のマーケットをつぶすために用いられた時間、エネルギー、あからさまな弾圧の程度について考えてみるといい。違法薬物市場は、スタンダードな経済理論のほぼ予測どおりに動くことを覚えておこう。価格は例によって需給圧力に反応し、高度な分業が発達し、定期的に技術革新や商品開発が起こり、法規制強化のような外圧に予想可能な方法で対処する。中心となる契約は法的な強制力をもたないばかりか法律で禁じられているのに、こうしたことは起こる。地球上の隅々で買い手と売り手は互いを探しあっている。「薬物との戦い」が不毛と考える向きは「資本主義との戦い」も等しく不毛だと思うーーまったく同じ理由で。問題は市場があるか否かではない。魔人がいったん瓶から出てしまった以上、もう後戻りはできないのだ。問題は、市場がいかに管理され、いかに包括的で人間的なシステムにされるべきか、協力による便益と負担をどのように配分するかである。

 

(p.256 - 257)

 

● 資本主義批判は昔から大流行りだが、最近によく見られるものとして、「"人間は自分の利益を合理的に最大化する存在だ"というホモ・エコノミクス的な人間観こそが、人間の思想に影響を与えて、利益の追求を正当化して、人間の連帯の破壊や環境破壊や女性差別などなどを引き起こした」というタイプの議論がある。

 この種類の批判については、経済学が想定する「合理性」や「利益」の範囲を不当に狭く定義した藁人形論法であることが多い。そもそもホモ・エコノミクスはあくまで「モデル」であることを差し置いても、実際のところ、行動経済学が発達して心理学や進化論の考え方も取り入れるようになった現代の経済学では、ホモ・エコノミクス的とは異なるモデルも使うようになっているだろう。

 また、「経済学のイデオロギーや規範を内面化した個人がホモ・エコノミクス的に振る舞うようになる」という(ポストモダン的な?)想定も実に疑わしいものだ。ヒースが資本主義制度とそこにおける個人の振る舞いのアナロジーとして「薬物のマーケット」を持ち出していることは示唆的である。クスリの売人もヤク中もホモ・エコノミクス的に振る舞うけれど、アダム・スミスハイエクフリードマンを読んでいている売人やヤク中はそうそういないだろう。……これは極端な例だけれど、生活者としての実感からしても、「経済学のイデオロギー」が巷で言われるほど大手を振っているという印象はない。本でもWebや雑誌の記事でも大学の授業でも入試問題でも、「経済学のイデオロギー」が紹介されるのは批判的な文脈がほとんどだ。「ホモ・エコノミクス的な人間観を批判する人」は腐るほど見つけられる一方で、「ホモ・エコノミクス的な人間観を持っている人」を探すことは難しい。

 とはいえ、『資本主義が嫌いな人のための経済学』やほかの経済学の本を読んでいると、自分が生きていくなかでとってきた選択や行動がまさに経済学のロジックで説明できたことに気付かされる場面が多々ある。やはり、経済学は、ある面での人間の行動を適切に説明できる学問であるし、行動の予測に基づいて適切な対策をとることに貢献する学問でもあるのだ。

 わたしには、「ホモ・エコノミクス」批判をするタイプの議論の大半は、公正や正義(やケアや同情や共感など)に関する自分の道徳的直観を大事にしたいがあまり、その直観に冷や水を浴びせる経済学的思考を無視することを正当化するための、まわりくどい方便でしかないように思える。それか、資本主義の「不調」を直しながら、現代の社会で生じている問題を漸進的に解決していくというめんどくさい作業から逃避するために、「言葉を変えれば世界も変える」「世界を見る目が変われば世界のほうも変わる」式の考え方を採用しているかだ。でも、資本主義と世界の現実から目を背けて逃げて、言葉と思弁の世界に閉じこもったところで、実際には何も変わらないのである*2

 

*1:「過剰生産の誤謬」に関してはミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』でも「塊の誤謬」に関連して指摘されていたような気がする。

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*2:

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