道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

現実の問題を解決することから遠ざかるラディカリズム(『反逆の神話』読書メモ:後半)

  

 

カウンターカルチャー的な分析からは、決まったパターンが浮かびあがってくる。社会問題はどれも、大量生産、マスメディア、自然の技術的支配、または単に回帰や同調への欲求かもしれないが、いずれにせよ大衆社会の基本的特徴が原因と考えられる。だが、こうした説明がきわめて問題含みなのは、経験上正しくないことに加えて、具体的な社会問題一つ一つを、当然誰も変えようとは思わない(求めない)ような現代社会の特色と結びつける効果があるからだ。つまり、この説明は、あたかも「体制」がまるごと社会問題全般の原因であり、したがって体制の完全な転覆に達しない方策では問題を解決できないように思わせるのだ。そうして、多数のごく扱いやすい問題をとうてい解決不能なもののように見せてしまう。

(p.368)

 

したがって、本書の中心となるカウンターカルチャー的思考への批判は、それが混乱を巻き起こし、「ディープさ」も「ラディカルさ」も足りないという理由で、あらゆる社会問題に対する実践的な解決策を左派に拒否させていることだ。このせいでマイケル・ムーアは、法律はアメリカに存在する「恐怖の文化」という、より根深いとされる問題を扱わないからと言って、『ボウリング・フォー・コロンバイン』で銃規制に反対している。このせいで主要な環境保護団体は、ディープエコロジーという名目で、排出量取引に反対している。このせいでフェミニストたちは、それが家父長主義的な抑圧の、深い文化的要因なのだと確信して、ポルノグラフィーに神経をとがらせることに何年も無駄に費やした(この伝でいけば、ポルノグラフィーにとっての家父長主義は広告にとってのテクノクラシーである)。もっと一般的にいえば、このせいで左派は、非難すべきあらゆる不作法や社会的逸脱を擁護するか、少なくとも根拠のない弁明をさせられるはめに陥っている。これはほかの何より選挙上の大きな障害となった。

(p.391)

 

これこそが僕らがカウンターカルチャーの重罪と呼ぶものの典型例ーーつまり、ラディカルさが足りないとか人々の意識を充分に変えないという理由で、現実の社会問題に有効な解決策をはねつける傾向だ。

(p.395)

 

 カウンター・カルチャーの影響力が減退してきたフシのある昨今でも、「ラディカルさ」を要求する傾向は健在であるように思われる。

 わたしが思うに、イマドキの左派の「ラディカル」嗜好は「インターセクショナリティ」という概念に体現されているように思われる*1。つまり、性差別の問題にせよ人種差別の問題にせよ植民地主義の問題にせよ環境問題にせよなんにせよ、すべての問題を"つながっている"と見なしたうえで、自分が興味のある問題だけでなくほかの問題についても目を向けて批判できる人の方がエラい、さらにはすべての問題の"つながり方"を見出してそれを述べたてられる人はもっとエラい……みたいな風潮だ。

 言うまでもなく、"問題はすべてつながっている"と頭から決めつけたうえで、その"つながり"を血眼になって探したり無理矢理に結びつけるほどに、その考え方は陰謀論に近づいていき、個々の問題の具体的な原因について考慮して適切な対処策や解決策を実行していくことからは遠ざかっていく。さらに問題なのは、「お前は充分にラディカルではない」とか「お前は目の前の問題ばかりに注目していてその根源にあるインターセクションが見えていない」などと言って、具体的な問題に対処している他人を非難して邪魔してしまうことだ。そのような言いがかりをつけることが"クール"とされてしまう風潮は、やはり存在するように思える。

 ラディカリズムは人々の"意識"や"文化"にばかり注目するという点も、この傾向を助長させる。つまり、具体的な対処策や解決策が功を奏して、問題となっている制度が変更したり人々の問題行動が減少したりしたとしても、「いや、根本にある意識や文化は変わっていないのだから、またいつ同じような問題が発生するかわからないし、あるいは別のかたちで問題が噴出しているのだ」といくらでも言えてしまうのである。

 

ニューヨーク在住のジャーナリスト、アリッサ・クォートはその著書『ブランド中毒にされる子どもたち』で現代の若者文化に厳しい目を向け、発見したことにショックを受けている。化粧をする十二歳以下の子供たち。企業の「トレンド予測者」として働くティーンエイジャーたち。ステロイドを常用したり、美容整形をしたり、モデル体型になるために断食する高校生たちーーみんな、どこもかしこもブランドだらけの海へと足を踏み入れている。

(中略)

クォートはちょっとしたパラドクスに自ら陥っている。彼女はもともと、周囲に同調しクールでいたいというティーンの欲望につけ込んでブランドを売りつける企業を批判している。それはけっこうだ。だが、その問題には手っとり早い解決策がある。教室からブランドを締め出す最も簡単な方法は、単に子供たちがそれを身につけるのを禁じることだ。制服を着せることだ。しかしこの解決策もまた、順応を課す訓練だからと認められない。そうして、生徒に自分の着る服を選ばせるのも制服を着せるのも、どちらも順応につながるのだとしたら、いったいどうすればいいのか?

クォートによれば、生徒たちがすべきことは反逆である。彼女は、地下室で音楽を演奏したり、街頭パーティーを催したり、お互いの髪を切りあったりすることで、社会批判と文化的創造性を結びつける「ドゥ・イット・ユアセルフ」パンクの活動や「カルチャー・ジャマー」を称賛する。これは以前どこかで聞いたことがあるぞ。六〇年代からずっとしていることじゃないか?

(p.213)

 

 中学や高校で学ランを着せられていたわたしとしては、実はを言うとヒースのような論者による「制服必要論」にはあまり賛同しない。学ランは暑いし重苦しいし不潔だし、女子の学校制服には痴漢などの性犯罪を誘発する側面がやはりあるだろう。また、「制服がないことで学校の規律が乱れたり過度なファッション競争が繰り広げられたりすることよりも、制服によって個人の自由や自律が抑圧されることの方がよっぽど深刻な問題だ」という主張はそれはそれでもっともなものであると思っている。その結論は、リバタリアニズムだけでなく、より穏当なリベラリズムからも導き出されるものであるだろう。……とはいえ、上記に引用した箇所は、「パンク」な活動を称賛する人々の滑稽さをうまくあらわしているようには思うけれど。