『福祉国家』、『ポピュリズム』、『移民』、『法哲学』に引き続きオックスフォードのVery Short Introduction シリーズの邦訳書を紹介するシリーズ第五弾。
1989年発行のこの本はAmazonでも高騰が続いているしほとんどの図書館にないしで入手困難だったが、図書館の相互貸し借りサービスを利用してようやく手に取ることができた。また、原著については2018年に第二版が出版されており、「マルクスは現在でもまだ重要か?」という章が追加されているようだ*1。
わたしはマルクスについては詳しくないし、とくにマルクスについて他の思想家以上に適当なこと書くと怒られちゃうから恐る恐る紹介することになるが、それにしても本書はかなり読みやすくわかりやすい。
訳者あとがきでも指摘されているように、「マルクスには一つの中核的思想、つまり世界像があって、それがマルクスの思想全体を統一するとともに、そうでない場合には謎めいた相貌を呈することになる彼の思想の構成部分の背後にある本質的なものを説明してくれる」(p.ⅲ)ということを前提にしたうえで解説されるため、読解の筋道が明瞭である、というところが本書の最大の長所だろう。
具体的には、シンガーはマルクスの思想の「科学性」を思いっきり否定しているしマルクスの経済学理論に対しても冷淡ではあるが、その代わり、哲学者や倫理学者としてのマルクスの思想を積極的に描き出して評価している。
また、シンガーが見るところのマルクスの「中核的思想」とはいわゆる「疎外論」であり、とくに本書の前半ではヘーゲル哲学やフォイエルバッハの哲学がマルクスの思想に与えた影響が詳しく解説されて強調されている。訳者あとがきによると疎外論を強調するのは必ずしも正統派のマルスク読解ではないようだし、(おそらく)マルクス主義者である訳者としてはシンガーの科学観や経済学観に言いたいところもあるようだが。
本書を読んでいてもとくに印象に残ったのは、(第1版の)最終章である「評価」。 この章の前半でシンガーは経済や社会の成り行きに関するマルクスの「予言」は外れたことを指摘したうえで、マルクスの議論は粗雑で放埒な自由主義に対して適切な批判を行えている、といった評価をしている。
ここでシンガーが行なっている議論を要約すると、極端な自由主義に基づく資本主義の肯定者は「一切の規制を廃して、だれもが自分のやりたいことを好き勝手に行える社会にすれば、すべての人が自分の幸福を追求したり自分にとって最も合理的な選択をできたりして、自由で素晴らしい社会が到来する」と論じることがあるが、実際には規制なしの自由はすぐに集合行為問題をもたらす。そして集合行為問題は個人がバラバラに自由を行使していたらいつまで経っても解決しないので、なんらかの妥協を成立させたり行為に対する制約を課したりするための集団的な決定が必要になる。ここでシンガーが架空の例として描き出すのが、「みんなが自動車を運転したら渋滞が起こってしまっていつまで経っても目的地にたどり着けなくなるが、多少の不便を受け入れてでもバスに乗ればみんな目的地に辿りやすくなる」という状況だ。
このポイントをマルクス主義っぽく表現したのが、以下の段落。
われわれには、経済的諸関係は盲目的な自然的諸力であるかに見える。われわれは、これらの諸関係がわれわれの自由を制限するとは思えないーーまた事実、自由主義的自由観の立場にたつならば、これらの関係は人間の故意の干渉の結果ではないのだから、それがわれわれの自由を制限するとはいえない。マルクス自身も、一人ひとりをとってみれば、資本家は資本制社会の経済的諸関係にたいして責任はないのであって、彼らもまた労働者と同じ程度にこれらの関係によって支配されている、とはっきり言明している[…]。とはいうものの、これらの経済的関係は、故意に選択されたわけではないが、にもかかわらずわれわれ自身の個別的選択の結果であり、したがって潜在的にはわれわれの意志に服しているところの、われわれ自身が意識しないままにつくりだした被造物である。われわれが造り出したものがわれわれを支配するのを放置するかわりに、それらをわれわれが集団的に支配するまでは、われわれは真に自由であるとはいえない。計画経済が重要な意義をもつのは、このゆえである。非計画的な経済では、人間的存在は、自己の生活にたいする市場の支配を無意識のうちに受容する。これにたいして、経済の計画化は人間の支配権の復権を主張するものであって、それは真の人間的自由にいたるための不可欠の第一歩である。
(p.115)
そして、この章の後半では、「貪欲、利己主義、野心といった人間の特性の経済的土台を変革することによって社会のあり方を変えるという展望が出てくる」(p.118)というマルクスの人間観が厳しく批判されている。シンガーが指摘するのは、人間の欲求や利己主義的欲望はどんな社会でも……共産主義国家であろうが非資本主義的世界であろうが……存在したままでありその捌け口を見つけようとするし、地位や権力に対する欲望を統制して差別を撤廃して完全な平等を達成できた社会が存在したことはなかったし、資本主義が地位や権力への欲求を煽ることは否定できなくても(当時の)共産主義国家にはそれ以上に権力の腐敗が見受けられる、といったことだ。また、シンガーは地位への欲求や支配-非支配関係は人間のみに限られず動物たちの間に見受けられることを指摘して、これらは人間社会の「下部構造」などに由来するのではなくもっと根本的な生物学的特徴であることを示唆する。
このようにして、いまやわれわれは、マルクスの利用できなかった証拠ーー生産および交換手段の私的所有の廃止を土台に平等主義的な社会を創造しようとしたせっかくの試みが失敗に終わったという証拠や、人間以外の動物の社会の階層的なあり方にかんする証拠ーーを手にしている。もっとも、証拠は完全に出揃っているわけではない。だが、人びとのあいだの相互に対立する利害の調和をはかることはマルクスが考えていたほど容易ではなさそうだ、という暫定的判断に達するに足るだけの証拠は揃っている。
もし以上に述べたことにして正しければ、それがマルクスの積極的提案にたいしてもたらす結果が及ぶ影響の範囲はきわめて大きい。もし社会の経済的土台を変えても、それによって個人が自分自身の利害と社会の利害とを同一だと考えるようにならないというのであれば、マルクスの構想にかかる共産主義は断念されなければならない。おそらく社会の経済構造の社会的所有制への転形が進行中の短期間はともかくとして、マルクスは、自分自身の利益に反して、集団的福利のためにむりやりに個人を働かせるために共産主義社会の実現をめざしたのではけっしてなかった。強制に訴える必要があるということは、疎外の克服を意味するものではなくて、人間の人間からの疎外の存続を意味するであろう。強制をともなう社会は解かれた歴史の謎ではなくて、新しい形で再措定された謎にすぎないであろう。それは階級支配の終焉をもたらさないで、新しい支配階級を旧支配階級ととりかえるにとどまるだろう。一方でマルクスが予知せず、またもし予知していたならきっと弾劾したと思われることのために彼を非難するのは馬鹿げているが、他方マルクスが予言した共産主義社会と「共産主義」の今日の実状との間の懸隔は、結局そのみなもとを、マルクスにおける人間性の弾力性についての間違った捉え方にまでさかのぼることができるのかもしれない。
(p.121 - 122)
生物学的=進化論的な発想を念頭に入れながらマルクスによる「土台を変えることで人間性を変化させる」論を批判する……というのは、そのまま、シンガーが1999年に出版した『ダーウィン左翼』における議論につながるものだ*2。
最終章以外について触れると、まず、第1章の「評伝」ではマルクスの生涯がコンパクトかつドライにまとめられていて、マルクスの人間的魅力と性格の厄介さや不遇さなどが端的に伝わる内容になっており、読み物としてもおもしろい。
2章から5章まではヘーゲル哲学に始まるマルクスの思想形成が順を追って説明されており、6章から9章では「疎外」「歴史」「経済学」「共産主義」とマルクスの思想の中心的なところがトピックごとに整理されて論じられている。
疎外に関する簡潔な記述はこちら。
以上の[フォイエルバッハの議論を下敷きにした]見方にもとづいて、自由な生産的活動という意味での労働が、人間的生活の本質だといわれるのである。したがってこのような仕方で生産されるものは万事ーー彫像であれ、家であれ、あるいは一片の布切れでさえもーー物的対象に変えられた人間的生活の本質である。マルスクはこういった事象を、「人間の類的生活の対象化」[…]と呼んでいる。理念的には、労働者たちが自由に創造した対象は労働者たち自身のものであって、彼らはこれを自分の望みどおりに留保したり処分したりすることができる。ところが、疎外された労働の状態のもとで労働者たちが(対象は雇主に帰属するので)自分の思いどおりにならないところの、また(雇主の富と力を増すことによって)肝心の生産者の意に反して用いられるところの対象を生産しなければならなくなると、これらの労働者は自己自身の本質的な人間的あり方から疎外される。
このような人間の自己の本来的あり方からの疎外の一つの帰結は、さらに人間の人間からの疎外である。生産的活動は「支配、強制、他者のくびきのもとでの活動」(…)に転化し、この他者は疎遠で敵対的な存在となる。人間は相互協力的に関係しあうかわりに、競争的に関係しあう。商取引と交換とが愛と信頼にとってかわる。人間的存在はおたがいのなかに、彼らに共通の人間としての本来的あり方を認知できなくなる。彼らは他者を、自己自身の利己的な利益を促進するための手段とみなす。
(p.42 - 43)
余談だが、疎外がなければ(資本主義じゃなければ?)人間は「取引と交換」ではなく「愛と信頼」に基づいて協力する、といった(ユートピア主義的な)考え方についてはウィル・キムリッカが『現代政治理論』のなかで批判していた。
「経済学」の章ではマルクスによる労働価値論とか剰余価値論とかを取り上げられて、その誤りが指摘されている。ここにおけるシンガーの指摘自体は間違っていないだろうが、やや難解であり、さすがに最近の学者たちが書いた著作に含まれている指摘のほうがわかりやすい*3。とはいえ、批判点を挙げたうえでマルクスの経済学論を肯定的に捉える以下の文章はなかなか印象的だ。
以上のことは、『資本論』の中心的諸命題が間違っているだけだ、ということなのか。またしたがって、『資本論』はーーろくすっぽ訓練をうけたことのない分野に差しで口をはさむドイツの哲学者なら書いても不思議でないかもしれないーーありきたりの酔狂な経済学の書物だということか。万一このような見解にもっともらしい面があるとすれば、自身の発見の科学的性質を強調した点で、マルクス自身も責めの一端を負わなければならない。いっそのこと、『資本論』は、これを(有力な現代の一経済学者〔サムエルソン〕が経済学者としてのマルクスを評価していったように)「二流のポスト・リカーディアン」の仕事とみなすよりは、資本制社会にたいする一批評家の仕事とみなした方がよかろう。マルクスは資本主義の欠陥を暴露するために、古典派経済学の欠陥を暴露したいと思ったのである。彼が望んだのは、産業革命がもたらした生産性のいちじるしい上昇にもかかわらず、なぜ人間的存在の圧倒的多数の生活水準が以前よりも悪化したのかということを、証明することであった。マルクスは、主人とか奴隷とか、領主とか農奴とかいった旧時代の諸関係が、いかにして契約の自由の美名にかくれて生き延びるにいたったのかということを暴露したいと思った。これらの疑問に答えたのが、剰余価値学説である。経済学説としては、それは科学的検証に耐えない。マルクスの経済理論は、資本主義のもとでの搾取の性質と程度を科学的に説明したものとはいえない。だがそれにもかかわらず、それは、生産的労働者が意識しないままに自己自身の抑圧手段を作り出す、非規制的社会のいきいきとした像を提供している。それは人間の疎外を過去労働たる資本の生きた労働に対する支配として麗々しく大仰に描き出したものである。このように描かれた人間の疎外像の価値は、それに導かれて、われわれがこの像の主題〔資本主義〕を根本的に新しい角度から眺めることができる点にある。マルクスの経済理論の疎外像は芸術と哲学的省察と社会的論戦とをひとまとめにした仕事であって、こうした三つの著述形態のすべてにつきものの長所と欠陥をそなえている。それは絵筆でかかれた資本主義像であって、カメラで写しとった資本主義の写真ではない。
(p. 94 - 95)