道徳的動物日記

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ネオリベラリズムとしてのエロティック・キャピタル

 

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き

 

 

 数年前に読んだ本であるが、思うところあって改めて再読。

 

「すべてが手に入る自分磨き」という邦訳版オリジナルの副題はどう考えてもミスリーディングである。ブルデューが提案した3つのキャピタル概念(エコノミック・キャピタル、カルチャー・キャピタル、ソーシャル・キャピタル)の理論に基づきながら4つめのキャピタル概念としての「エロティック・キャピタル」を提唱する、社会学的な内容の本だ。

 著者は、美しさや性的魅力(また、社交スキルや自己演出能力など)は「資本」の一種である、と論じる。そして、学歴や教養などの文化的能力や人脈や地縁などの社会関係を「資本」として活用して自分のキャリアや財産形成に活かすことが社会的に認められているのだから、女性が自分のキャリアや財産形成のためにエロティック・キャピタルを活かすことも堂々と認められるべきである、と主張するのだ。

 

 女性がエロティック・キャピタルを活かす具体的な方法とは、たとえば自分の性的能力を金銭化することであったり(直接的な行為を売り物にする性風俗産業だけでなく、外見的魅力や社交力を売り物とするパーティーガールなどもこれにあてはまる)、外見的魅力や対人的魅力を駆使することで就職活動や職場での地位争いや営業活動で有利に立ち回って収入を増やすことであったり、交際や結婚を通じて自分が性的魅力を提供する代わりに男性からは金銭的扶養を提供させるように交渉することであったりする。

 ただし、エロティック・キャピタルはなにも女性だけが持つものとは限らない。たとえば、男性にだって身長や"人から好感がもたれる振る舞い"などのエロティック・キャピタルが存在する。そして、就職や出世や営業という場面では、女性よりも男性の方がエロティック・キャピタルがおよぼす影響は高いとされているのだ。つまり、セクシーな美女よりも高身長イケメンの方が、同性に比べてより多くの金を稼ぎやすいのである(社会的地位も高くなる)。

 この現状は女性のエロティック・キャピタルが不当に抑圧されているためにもたらされている、と著者は主張する。特にアメリカやイギリスのようなピューリタニズムの国々では、女性が性的サービスを金銭化することや職場などで外見的魅力・対人的魅力を振りまくことはタブー視されている。「女性であっても男性と対等に扱われて、"女性ならでは"の振る舞いをすることが強要されず、男性と同じように業務に関する能力だけが評価される、平等な環境だ」と言えば聞こえはいいかもしれない、だが、女性がエロティック・キャピタルを抑圧されている裏で男性は出世のために自分のエロティック・キャピタルを利用することが許されている。それが女性と男性との収入差にも反映されているのだ。だとしたら、男性と同じように女性もエロティック・キャピタルを堂々と駆使することが認められる社会の方が真に平等だと言える……というのが著者の主張である。

 

要するに、ピューリタン的、男性優位主義的な「倫理観」をベースにした法律や社会政策を切り捨てるべきときがきたのだ。こうした法律や政策のために、男性は自分の利益を最大限に生かして増やすことが許されているのに、女性はいつも自由な活動を阻まれているように思える。女性は公私ともによりよい条件での取引を求める術を覚えなくてはならない。エロティック・キャピタルの社会的・経済的価値をしっかり認識することが、こうした交渉術の見直しに大きな力となってくれるだろう。

(p.288)

 

 言うまでもなく、著者の議論は主流派フェミニズムの理論や主張と相反するところが多い。この本のなかでも、著者がフェミニズムの主張を明示的に批判する箇所が多々ある。とはいえ、主な「論敵」をフェミニストではなくピューリタニズムや「男性優位主義」にしているのが、著者の巧妙というか狡猾なところだ。

 著者が読者に伝えたいであろうメッセージをわたしなりに要約すると、こうなる。「自分は単にフェミニズムを否定しているのではなく、"誤ったフェミニズム"を否定して"正しいフェミニズム"を主張しているに過ぎない。旧来のフェミニストたちは戦うべき男性優位主義の実態を捉えそこねて、エロティック・キャピタルの抑圧に加担してしまっていた。しかし、男性優位主義と戦うための真の方法とは、エロティック・キャピタルを解放することであるのだ」。

 昨今では、このタイプの"逆張り"的な主張もすっかり珍しいものではなくなった。日本語のインターネットを見てみても、"真の"フェミニストを自称していそうな論客がこのテの主張をすることは多い。彼女たちが実際に『エロティック・キャピタル』や著者であるキャサリン・ハキムの名前を持ち出すところも何度か観察した。

 他方で、"非モテ"や"弱者男性"系の論客の立場から言わせれば、以下のような主張になるだろう。「女性は現にエロティック・キャピタルを駆使して上方婚を実現して、男性からの扶養を勝ち取っている。そして、女性が下方婚を望まないために、男性はエロティック・キャピタルを駆使できずに上方婚が実現できない。つまり、現時点でもエロティック・キャピタルは女性にとって一方的に有利にはたらいているのだ。これ以上さらにエロティック・キャピタルを解放されたら男性は余計に不利になる、たまったものじゃない」。

 すくなくともエロティック・キャピタルをめぐっては、"真のフェミニスト"系の論者と"弱者男性"系論者は正反対の立場となるはずだが、両者には"主流派フェミニズム"という共通の敵が存在するので互いの対立点は見て見ぬ振りをして仲良くしていることが多いようだ。まあこれは余談である。

 

 わたしとしては、『エロティック・キャピタル』は読んでいて「いやだなあ」と思わされる部分が実に多かった。

 自分自身にエロティック・キャピタルがあまりないから、現時点でも貧乏なのにこれ以上エロティック・キャピタルを野放しにしてしまうと相対的にさらに不利になる、という"弱者男性"的な不安もなくはない。だが、それ以上に、著者の主張があまりに自由主義的で競争主義的…いわゆる"ネオリベ的"なものであるために、うんざりしたのだ。

 そして、著者の主張には、ネオリベ的な主張につきものの欺瞞やごまかしもしっかりと含まれている。

 

 エロティック・キャピタルの大部分が顔の造形や身長やボディラインなどの生まれに左右される特徴に占められていることは、あまりにも明白だ。巨乳な美女や高身長なイケメンになれるかどうかは、大半は遺伝子によって決まっている。身長やボディラインについては幼少期からの栄養状態や運動習慣によって多少は変わってくるかもしれないが、それだって家庭習慣や両親の教育方針などに大幅に左右されるものであり、本人の意志ではどうにもならない環境に由来するものであることだ。

 しかし、「生まれによって不平等に分配される性質が本人のキャリアに影響を与えることは望ましくない」という考え方は、現代では一般的なものとなっている。

 たとえば、子どもの教育格差は問題であり是正されるべきだと考える人は多いし、大企業へのコネ入社や世襲政治が堂々とまかり通る状況は不健全だと考える人も多いだろう。現実の世界に教育格差や世襲政治が存在するとしても、規範的にはそれらは「なくすべき」ものと見なされているのだ。そのために、様々な再分配制度や規制などが存在しているのである。……しかし、ネオリベは「平等な競争」を実現するためだと言って再分配制度や規制を否定するものだ。競争の平等を強調することで前提条件の不平等を激化させることは、ネオリベ的な主張がたどる典型的な展開である。

 エロティック・キャピタルについても、それを駆使することが野放図に認められるほどに、セクシーな美女や高身長爽やかなイケメンとそうでない人との間の格差は広がってしまうだろう。

 著者もこの批判は意識しており、エロティック・キャピタルと「知的能力」を並べて論じることで、以下のような反論を試みている。

 

 エロティック・キャピタルが重要だという考えに反対する人たちは、それは完全に遺伝によるものなので価値を持つはずがないし、持つべきではないと文句をつけることが多い。しかし知的能力はほとんど持って生まれたものなのに、すんなりと価値を認められ、それに対して報酬が与えられている。それに、ほほ笑み、礼儀作法、社交スキルは先天的なものではなく、誰でも学んで身に付けられるものだ。実際、エロティック・キャピタルの要素はどれも知的能力と同じように発達させられる。一生のうち10〜15年、あるいはそれ以上を、大抵は多額の私費や公費を使って教育や知的能力の発達に投資するのは賢明なことだと誰もが認めている。それとまったく同じように、エロティック・キャピタルを磨くのに時間と努力を投資するのも理にかなっている。

 (p.155)

 

 しかし、この反論は様々な点で苦しいものだ。

 そもそも、エロスと直接的な関係のないはずの礼儀作法や社交スキルをエロティック・キャピタルに含めていることからして、欺瞞的だ。他人をいい気分にさせたり不愉快にさせないコミュニーケーション方法と性的な魅力とは、重なる部分や相乗作用する部分も多々あるとはいえ、本質的には異なるものだろう。むしろ、それらは文化的資本に属するものだと見なした方が自然である。……著者は「エロティック・キャピタルは遺伝に左右される不平等な資本だ」という批判を回避するために、後付け的に礼儀作法や社交スキルもエロティック・キャピタルの一部だと定義した、と邪推されてもおかしくない。

 また、美貌や身長などの遺伝差に比べると、「知的能力はほとんど持って生まれたもの」であるかどうかはずっと議論の余地がある事柄だ。知能の遺伝差を強調する学者もいれば、環境要因や社会的要因を強調する学者もいて、彼らは未だに論争している状態である。……わたしとしても知能にはある程度までは遺伝差があることは事実だと思っているが、知的能力の格差は公教育をはじめとする社会制度によって是正することが可能である。それだって完璧に是正できると言うわけにはいかないだろうが、すくなくとも美貌や身長などよりかはずっと可変的で修正可能なものだろう。

 

 さらに、知的能力の価値が認められて知的能力に報酬が与えられているのは、知的能力は具体的で有益な成果を挙げる能力に直結しているからだ。新商品を開発する、プロジェクトを成功させる、研究結果を挙げる……これらの目標を達成するためには多かれ少なかれ知的能力が必要とされる。つまり、知的能力は「生産性」を伴うものであるのだ。知的能力に社会が投資することを正当化する理由の一つは、社会全体の生産性が高まって投資された本人だけでなく社会全体の人々に利益をもたらすことが期待できるから、ということがあるだろう。

 一方で、エロティック・キャピタルはゼロサムゲーム的なものであり、「生産性」をほとんど伴わない能力である*1。エロティック・キャピタルが効果を発揮するのは、他人との競争や交渉などの相対的な場面だ。エロティック・キャピタルは会社での出世争いであったり金持ちの奥さんの座をめぐる争いでは効果を発揮するかもしれないが、新たな価値を創出することはできないのである*2

 エロティック・キャピタルへの投資が公的に推奨されるほどに競争は激化して、人々は外見的魅力の獲得に多大な時間と費用と労力を消費するようになる。日本においても、脱毛やダイエットの必要性を煽る広告の氾濫にうんざりしている女性の声はよく聞こえてくる。社交スキルに関しても、著者は日本のサービス業において礼儀作法が徹底されていることを好ましく評価しているが(p.154~155、p.240など)、その日本でサービス業を行なっている当人たちの疲弊と怨嗟の声はSNSに溢れており、「感情労働」を批判する声は年々根強くなっているのだ。

 著者の人間観や世界観がよく象徴されている段落を引用しよう。

 

イザベルは美しく生まれつくという幸運に恵まれ、そのおかげで幼いころから明るく陽気な性格と自信にあふれた態度を身に付けた。けれど色白の子によくあることだが、彼女の容姿は急速に色あせていった。大人になってからの魅力的な外見は、おしゃれや身だしなみに多くの時間と手間をかけたおかげだった。灰褐色にあせてしまった髪には定期的にハイライトを入れて明るくし、ブロンドに見えるようにしていた。また、小柄なだけに少しでも太ると目立ってしまうので、スリムな体型を維持するように努めた。小さな体に似合う服を選ぼうと思うと、着てみたいと思うスタイルの服でも諦めざるを得ないことが多かった。成人期にはイザベルのエロティック・キャピタルは熱心な手入れによるもので、生まれつきの美貌ではなくなっていたが、彼女はビジネスの場でも家庭でも、自分の見せ方にいつも気を配っていた。これに対し、パメラはそうしようともしなかった。あるいは努力が足りなかったのかもしれない。人目を引く容貌だったのだから、努力さえすればイザベルと同じように魅力的になれたはずだった。背の低い姉より輝いた存在になるのも難しくなかったかもしれない。しかし彼女は一度も努力せず、ほほ笑みを忘れ、そして世界もまた彼女にほほ笑むことをやめてしまったのである。

(p.155~156)

 

 パメラの好きにさせてやれよ、としか言いようがない。

 わたしからすれば、誰であろうと髪に定期的にハイライトを入れる必要がなく、自分の見せ方にいつも気を配る必要がなく、ほほ笑みたくない相手にはほほ笑まなくてもいい世界の方が、ずっといい。現実的な問題として、社交や仕事の場でほほ笑んだり自分の見せ方に気を配ったりする必要は存在するのだろうが、そうせずに済んだらそれにこしたことはないのだ。

 そして、上記の引用箇所からは、著者が「女性がエロティック・キャピタルを自由に発揮できるようになったらいい」と思っているに留まらず「女性はエロティック・キャピタルを発揮して生きるべきだ」と考えていることが伝わってくる。こういうところがネオリベ的なのだ。

 

 愛嬌をふりまけ、痩せろ、体毛を剃れ、ほどほどの化粧をしろ、男を喜ばせろ……これらの有形無形の要請や強要に対して"主流派"のフェミニズムが抗らっていることは言うまでもない。また、女性が自分の意志で自発的にお洒落をしたり化粧をしたりセクシーな格好をしたりすることは、現代では大半のフェミニストが否定していないのである。この本の著者は"主流派"のフェミニズムを女性の自己実現を抑圧する思想であるかのように論じているが、それは藁人形論法的な印象操作だ。

 そして、エロティック・キャピタルが解放された世界では、ひとり勝ちする女性はより多くの利益が得られていまよりも幸福になるかもしれないが、大半の女性は疲弊していまよりも不幸になるだろう。程度は違えど、男性だってそうである。……伝統的な性道徳とか社会規範とかには、そういう無益な競争や疲弊から人々を守るために生み出されたという側面もあるのだ(その点ではピューリタニズムだって馬鹿にできたものではない)。そして、表面的な合理主義を掲げて道徳や社会規範を破壊するのも、ネオリベの常であるのだ。

*1:この本の第7章「一人勝ちの論理:エロティック・キャピタルの商業的価値」でも、エロティック・キャピタルのゼロサムゲーム性がはからずとも示されている。礼儀作法や社交スキルなどが協働作業を円滑にして生産性につながることも論じられてはいるが、前述した通り、外見的魅力や性的魅力と社交スキルや礼儀作法を同一に並べること自体に無理があるのだ。

*2:俳優やモデルなど、創出する価値に「外見」が本質的に関わっている職業は例外だが。