先日に「性的モノ化」についてあーだこーだ書いたが、それと関連しているかもしれない内容。
フェミニズムとかジェンダー論とかが市井に浸透して、男性たちもそういう考え方を学ぶことによって生じている副作用とか弊害とかのひとつが、「性愛や女性との関わり方に関する道徳を学んで実践することで、女性と仲良くなったり女性からの信頼を得られたりすることができる」と感じてしまう男性があらわれることだ。
つまり、男性の側が性や愛について「ただしい」意見を言ったり「正解」の振る舞い方をしたりすると、女性の側から仲良くなってくれたり優しくしてくれたりこちらを信頼してくれたりするなどのご褒美が与えられるはずである、という期待や予断のような感覚を抱く男性が増えているかもしれない、ということである。
すくなくともわたしには、上記のような感覚がなくもない。そして、フェミニズム的な考え方に触れたり学んだりしたほかの男性たちのなかにも、この感覚を多かれ少なかれ抱いている人はけっこういるように思えるのだ。
たとえば、一時期はフェミニズムに賛同していたが途中から転向してアンチ・フェミニストになった人のなかには「フェミニズムの規範を守っていてもモテなかったし、その規範を守らない男の方がモテているのを目にして、馬鹿らしくなった」ということを言う人が多々いる。
転向をおこなわずにフェミニズム的な規範を誠実に守って実践している人たちであっても、「女性からの信頼を得たり、相互に理解をして関係を深めたりするためには、まず男性側がフェミニズム的な規範を守らなければいけない」と思っているフシはあるかもしれない。
しかし、これから示してみせるように、その予断や期待はほぼ確実に間違っているのだ。
言うまでもなく、フェミニズムやジェンダー論の側が「フェミニズムの規範を守った男性には、ご褒美が与えられますよ」と約束しているわけではない。
そもそも、報酬がないことこそが道徳の道徳たるゆえんである。自分にとってメリットがあるとか、見返りがあるとかに限らなく、守られなければいけないから守るのが道徳というものなのだ。
その一方で、人間とは「ただしい行為をしたり、ただしい生き方をしたなら、報われて見返りが与えられるべきだ」とついつい期待してしまうものでもある。
この期待は、道徳が関わるどんな事柄についても発生するものかもしれない。しかし、とくに恋愛や性に関しては、この期待は膨らんでしまうものではないだろうか。
いまでは、フェミニズムやジェンダー論の本はかなりの数が出版されている。そのなかには女性が受けている性被害や諸々の苦しみをテーマとした本もあれば、恋愛や結婚に関して論じた本もある。後者の本であれば、恋愛において男性は女性に対してどのように接するべきか、男女の平等を考慮したうえでの理想的な結婚とはどのようなかたちになるか、といったことが具体的かつ積極的に述べられているかもしれない。
しかし、フェミニズム的な規範としてわたしたち男性がまず意識することになるのは、加害に関する議論であるだろう。
つまり、男性が女性に対しておこなう行為やコミュニケーションは、男性に悪意がなくとも女性に対してさまざまなかたちで危害や苦痛をもたらしかねないものであるから、自分の言動を見直して反省して予防しましょう、というタイプの議論である。
SNSやブログなどを見てみると、女性にせよ男性にせよ、フェミニズム的な問題意識を持っている人が取り上げる話題はだいたいが加害と被害というトピックに終始している様子である。「自分は以前に男からこんなことを言われて悔しかった」とか「合コンに行ったらほかの男たちが容姿イジりをしていたからどうかと思った」とか、そういうのだ。また、大学でおこなわれるジェンダー論の授業も、ゼミや特殊講義などではなく一般教養レベルの授業である場合にはあまり深く複雑な話が展開できるわけではないから、やはり加害の話題が中心となることが多いかもしれない(わたしが学部生の頃はそうだった)。
自分の言動には加害性が含まれているかもしれないという点を指摘されることは、男性にとって印象に残る。「西洋の絵画では女性侮辱的なイメージが表現され続けていた」とか「古代の哲学者はみんな女性差別主義者だった」とかいったことを聞かされても他人ごとなので大した感想は抱かないものだが、ドメスティック・バイオレンスやハラスメントについて説明されて、自分が問題とないと思っていた行為や言葉が「暴力」や「嫌がらせ」であり得るということを説明された場合には、自分ごとなのでギョッとなる。そして罪悪感を抱いたり、反省したり、あるいはうろたえたり反発したりすることになるのだ。
フェミニズムを本格的に勉強してさまざまな本を積極的に手に取らない限り、大半の男性にとっては、フェミニズム的な規範に対して抱くイメージとは「女性を加害しない」ことに終始しているだろう。
だが、他者を加害しないことなんて、本来は当たり前のことだ。それは完全義務なのであり、破ったら怒られたり罰されたりすることではあるが、守ったところで褒められたり見返りをもらえたりするようなことではないのだ。
女性と仲良くなったり、女性からの信頼を得たり、女性から好かれたりしたいと思ったら、「加害しない」という消極的な行為以上のことが必要となる。相手に対してなんらかのコミュニケーションやコミットメントをおこなうなどの、積極的な行為が求められるのだ。
しかし、ここから話がややこしくなる。相手に対してなんらかの積極的なはたらきかけをおこなって、相手の持っている感情や考え方になにかしらの影響を与えて変化させようとする行為は、多かれ少なかれ侵入性を伴うものである*1。侵入性を伴う行為と加害性を伴う行為は、イコールではないが重複している場合も多いだろうし、侵入的ではあるが加害ではない行為もかなりギリギリであったり薄皮一枚であったりする。
そして、「加害をしてはいけない」というフェミニズム的な規範を意識したり内面化したりすることは、女性に対する積極的なはたらきをためらわせる作用を男性に対してもたらす。フェミニズムに触れると、暴力や嫌がらせなどの加害であると自分が見なす行為の範囲が、かなり拡大することになるからだ。
いくつか、自分の経験談を書いてみよう。
本に書かれたエッセイだったかTwitterに書かれたツイートだったかも忘れたが、どこかの女性が「普段はわたしに優しく接してくれたり肯定的なことを言ってくれる彼氏が、自分の友人たちがいるときには、わたしのことを茶化したりイジったりしてくる。そういうことをされるとすごく傷付く」みたいなことを書いていた。わたしはその文章を読んで「たしかにそんなことをされたら相手はさぞや傷付くだろうな、自分は恋人に対してそういうことをしないようにしよう」と思ったものだ。茶化したりイジったりすることもハラスメントの一種であるし、ある種の暴力である、と理解したからである。
それから何ヶ月後かに、男友達のひとりが彼女を連れてきて紹介してくれた。それはいいのだが、その男友達はわたしたちの前で彼女のことをかなり茶化したりイジったりしてくるのだ。わたしはついつい「大丈夫かなあ」とか「嫌がっていないかなあ」と心配したり不安になったりした。だが、すくなくとも外から見るぶんには、友人の彼女のほうも人前で彼氏に茶化されたりイジられたりすることをとくに嫌がっているようには見えなかった。それでどこかのタイミングで彼氏がいないときに彼女本人に聞いてみたら、やっぱり「ぜんぜん嫌じゃない、むしろ楽しい」と言われたのだ。もちろんその言葉が本心である保証もないのだが、たぶん本心であったと思う。
わたしはその返答に戸惑ったのだが、考えてみたら当たり前の話である。茶化したりイジられたりすることを嫌がり、加害に感じる女性も存在するけれど、そうでない女性も存在する、というだけの話だ。
また、茶化しやイジリを許容する人であっても、茶化され方やイジられ方によっては加害と感じて嫌がるかもしれない。タイミングとか彼氏との仲の良さとかにも左右されるだろう。そこに一貫性を求めたり矛盾を指摘したりする方が間違っている。コミュニケーションにそういう曖昧さが存在するのは、当たり前のことであるからだ。
また、フェミニズム的な考え方に触れた男性なら、だれしもが「恋人であっても強引にセックスを求めたり同意なく相手の体に触れたりすることってドメスティック・バイオレンスになるんだな、じゃあやらないようにしよう」と思うようになるものだろう。
しかし、いざ恋人ができて付き合っていると、相手から「強引なセックスをしてほしい」とか「つべこべ言わずに押し倒してほしい」と求められたりする場合がある(あった)。さらに言うと、同じ相手でも、相手側の体調や機嫌や気分によって求められる行為は変わったりしてくる。
性的同意についてはNo means Noが盛んに主張されるようになっており、「相手からの明示的な同意が得られない限りは手を出すべきでない、相手がNoと口にしたらすぐに手を引っ込めるべきである」という考え方はフェミニズムに触れた男性たちの間でも浸透しているはずだ。
しかし、実際のところ、No means Noが通じないときもある。ほんとうはYesである女性がNoとウソをついて、さらにはそのウソを男性側が見破って手を出してくれることを期待する、ということもあるのだ(あった)。とはいえ、大半の場合には、やっぱりNoはほんとうにNoを示しているのであり、男性は手を出すべきではないのだろう。
もっとも厄介なのは、イジったり茶化したり、押し倒したりウソを見破って手を出したりしたほうが、それらの行為をおこなわなかったときに比べて、相手からの好意を得られたり相手との関係が深まったりする結果につながる場合があるということだ。
また、男性がこれらの行為をすることで、女性の側がなんらかの楽しさを得られることがある。「女性を加害しないこと」が完全義務であるとしたら「女性を楽しませること」は不完全義務であるとはいえるかもしれない。しかし、ただ害を与えないように気をつけるだけでいいのだろうか?男女の関係に限らず、互いに積極的にはたらきかけてなんらかの楽しさを与え合うのが、人間同士の関係のあるべき姿というものではないだろうか?
実際のところ、女性からの好意や信頼を得られている男性たちの様子を見ていると、「加害しない」だけでそれが達成している人は皆無だ。
そういう男性たちは、イジったり茶化したりなども含めたコミュニケーションのさまざまなテクニックを使いながら、女性に楽しさを与えている。また、女性のことをリラックスさせられてる男性であっても、「加害しない」ということ以上の行為をしている。たとえば、女性によっては「雑に扱われる」ことでリラックスできて、相手と一緒にいる時間が心地よくなる、ということがあるようだ。
というわけで、女性と仲良くなるためには侵入的なコミュニケーションが必要とされる場合は、やはり多いようである。
「女性とヤる」「女性を自分のものにする」という欲求がなく、「女性と親友になりたい」「女性に悩みを打ち明けてほしい」というピュアな気持ちで相手と関わりたい場合であっても、求められるものはあまり変わらない。害を与えることを恐れていて、おずおずと遠慮がちに丁重に接してくれるだけの相手に対して悩みを話したり親友になったりしようと思う人は、ほとんどいないだろう。
どんなコミュニケーションは侵入的であるが加害ではなく、どんなコミュニケーションが加害であるかということは、線を引いて明確に区別できることではない。時と場合と相手と関係性によって変わるものだからだ。マニュアルだって作れたものではない。
ミソジニー的な傾向の強い弱者男性論客たちは、よく、「女性は暴力的な男性を好む」「暴力的な男性はモテるのだ」と主張する。彼らがそのような主張をおこなうのは、おそらく、「女性のことを楽しませる侵入的なコミュニケーション」と、「女性に害や苦痛を与える暴力的なコミュニケーション」との違いをよくわかっていないからだ。
そもそも、コミュニケーション行為には「賭け」という側面が存在する。自分がおこなう行為によって相手がどんな気持ちになって相手にどんな影響を与えられるか、完全に予測することはできないのだ。これを言ったりやったりしたら相手は喜ぶだろうと思った言動が裏目に出る場合もあるし、結果的に加害となってしまう場合だってあり得るだろう。
とはいえ、そこには上手い賭け方と下手な賭け方の違いもあるはずだ。結果がどうなるか完全にはわからないからなにをやったっていい、というものでもない。ごくまれに加害になることにあっても基本的には安定して女性を楽しませられる人もいれば、やることなすことがおおむね的外れで加害的である人もいる。前者に比べれば、後者のほうがより強い非難を受けるべき存在であるだろう。
あるいは、女性を楽しませるコミュニケーションを行う能力が根本的に欠けている人については、「女性を加害しない」という完全義務だけを守っていたほうが、本人にとっても他の人たちにとっても幸せなことであるのかもしれない。
とはいえ、改めて言うまでのことでもないが、女性からの好意や信頼などのご褒美を得たいなら、「女性を加害しない」という完全義務だけでなく「女性を楽しませる」という不完全義務も履行することが求められる。なんなら、完全義務の方は多少なおざりにしていても、やっぱり好意や信頼を得られる場合があるかもしれない。それはなんだか理不尽で残酷なことかもしれないが、「そういうものだ」と言うほかないのだ。
今回の記事でわたしはなにが言いたいのか?
なにが言いたいというわけでもないが、とにかく、「男性にとって、女性とのコミュニケーションって複雑で難しくて悩ましいものですよね」ということを改めて確認したかっただけだ。
そして、道徳的な考え方と恋愛や性に関する物事とはとにかく相性が悪い、ということも示すことはできたと思う。道徳というものでは基本的には合理性が前提とされている。また、わたしたちは道徳に確実さや一貫性を期待してしまう。しかし、性愛やコミュニケーションとは不確実で曖昧なものであるし、そこに合理性があるとは限らない。だから大変なのだが、まあ、そういうものだ。
*1:ここで「侵入性」をきっちり定義したり「加害」との違いについて明確に論じたりできればこの記事の価値はグッと上がると思うのだが、そんなヒマはないのでやらない。出勤前に慌てて書いているからだ。