道徳的動物日記

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「からかいの政治学」(読書メモ:『増補 女性解放という思想』)

 

 

『増補 女性解放という思想』は昨年の12月にネット上の「からかい」に関する記事を書いた後にAmazonのほしいものリストから買ってもらったのだが、最近は「からかい」に関する文章を改めて書いて文学フリマに出品しようかなと考えているところであり、そのために本書に収録されている「からかいの政治学」やその他の文章をいまさらながら読んだ。

 

 とりあえず、「からかい」という行為の特質や悪質さをうまく表現していると思った文章はこちら。

 

なぜなら、「からかい」という表現には、単なる批判や攻撃、いやがらせにとどまらない固有の質があるからである。たとえばそのことは、「からかわれた」側の女性たちの反応、怒りが、単なる攻撃に対するのとは異なる質を持っていたことからも明らかである。それは、いわば内に鬱屈するような、憤りの捌け口をふさがれたような怒りであった。このような怒りは、意図的な攻撃に対しては生じないものである。したがってそれは、批判や攻撃の意図自体に対して生じているのではなく「からかい」の表現に対するものなのである。

 

(p.240)

 

…「からかい」の言葉とは、「遊び」の文脈に位置づけられている。すなわち、「からかい」の言葉は、けっして言葉どおりに、「真面目」に受けとられてはならないのである。「からかい」の言葉は「遊び」であり、余裕やゆとりであり、その言葉に対しては、日常生活における言葉の責任を免れている。

したがって、「からかい」は通常、何らかの標識を伴っている。それはニヤニヤ笑いや声の調子、身ぶり、思わせぶりな目くばせなどである。これらの標識は、「からかわれる側」に直接示されるとは限らない。第三者がいる時は、その第三者に標識が示される場合もある。むろん、「からかわれた」側がその「からかい」の標識に「気づかぬ」場合もある。しかし、誰かがそれを認知しさえすれば、その言葉はその場においてその時点で、「からかい」であり「遊び」であることが宣言されているのだ。

「からかい」はそれが「真面目」なことでないからこそ、発言の主体責任の特定化を避けることになる。むろん、対面的状況では、誰が話しているかは明瞭であるが、しかし、その発言や主張や内容があたかも伝聞であったり、自明の事実であったりするように表明されるのである。「私はお前を〇〇だと思う」という形の、その言葉の内容が自分自身の思想や意志に帰着されてしまうような文体をけっして「からかい」はとらない。なぜならこうした文体は、言葉の責任の所在を明瞭にしてしまうからである。「からかい」は「遊び」であるからこそ、責任の明確化は必要ではないし、「遊び」のルールからして不要である。

 

(p.242 - 243)

 

集団内で「からかい」が提起されれば、それに反対する理由が特にない限り、「からかい」の共謀者となることが、その場にいる全員に要請される。なぜなら「からかい」は「遊び」であり「冗談」だからである。「遊び」である以上、ルール破りは、最大の「遊び」に対する冒瀆なのである。したがって、ルールを破らないという消極的な共謀を、そこのいる人々すべてが要請されるのだ。ルール破りをあえて行うにはかなりの勇気がいるだけでなく、その場にいる皆を納得させるだけの正当な理由が必要なのである。

 

(p.244)

 

…強者から劣者に向けられた「からかい」は、劣者に対する攻撃的意図を隠すことによって劣者を攻撃したということに対する社会的な批判を避けるために「利用」されることが多い。圧倒的に力ある存在である強者は、劣者と「真面目に」争うこと自体が自らの対面を汚してしまう。その攻撃の意図は、「からかい」の「遊び」の経路によって示される結果、強者の側の「手加減」「余裕」が提示され、強者の対面を傷つけずにすむのである。

しかし、このことが、他者に対する侮辱として「利用」されることもある。なぜならば、「からかい」の形式の使用自体が、他者を「真面目」にとりあげるに値しないものと規定することにもなるからである。

 

(p.251 - 252)

 

「からかいの政治学」が発表されたのは1981年であり、本論における「からかい」として主に想定されているのは、1970年代の日本におけるウーマンリブ運動や60年代〜70年代のアメリカにおける女性解放運動に対する、当時の週刊誌などメディアでの取り扱いや表現などだ*1

 この論考のなかでは、「からかい」という行為には「親密性」を確認する機能がある、ということも触れられている。「からかい」という行為は相手を怒らせかねないリスクがあるために、通常は、充分に親しい関係を持つ見知ったもの同士の間でないと行われない。また、立場が下の人(劣者)が立場が上の人(強者)に対して「からかい」を行うこともある。立場が上の人に対して正面から批判や攻撃を行うとそれに対する反撃を受けてしまう可能性が高いが、からかいは「遊び」でありからかいに対して反撃をすることは「大人げない」とされているから上の人としても反撃を抑制せざるを得ず、立場が下の人にとっては安全なかたちで上の人に対して批判や反撃を行う方法になるのだ。その代わり、立場が下の人が「からかい」を行なうのは上の人に対して手加減してもらうことが前提になるから、「自分は劣者である」という自己規定をすることでもある。

 道化とか戯作者とかも、「自分はとるに足らない存在ですよ」と宣言するからこそ、権力者であったり世間のあらゆるものをからかったり冷やかしたり茶化したりする権利を手に入れることになる。つまり、劣者からの「からかい」は「こいつの言うことに真面目に反論するのは恥ずかしいことだ」という世間や社会の了承やルールありきで認められているということだ。

 ……このあたりに関する著者(江原)の分析そのものにはとくに異論はないが、本論で主に問題視されているメディアにおける女性運動の揶揄的・嘲笑的な扱い、あるいは「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターで取り上げられていたネット上におけるコミュニケーション様式としての「からかい」などは*2、「からかう」側と「からかわれる」側に「親密性」が存在する関係、つまり友人同士や上司-部下間や先輩-後輩間で行われるようなコミュニケーションとしての「からかい」は性質がかなり異なるような気がする。

 というのも、対等な立場にいる相手をからかうことは「じゃれあい」であったり親密性(仲の良さ)を確認したり強固にしたりするための行為であったりするとして、また立場が下の人から上の人に対してからかいを行うことは自分の(批判的/相手に対するネガティブな)意見を安全に伝えるための手段であるとして、どちらにせよ「からかう」側は「からかわれる」側の方を向きながら行為をしている。自分が相手をからかっているということが相手にも伝わること、その場で「からかい」が行われていることをどちらの側も認識しているということが前提になっている。

 一方で、メディアにおける女性運動に対する揶揄的な表現や、ネット上でのコミュニケーション様式としての「からかい」は、「からかわれる側」のほうを向いて行われているとは限らない。たとえば女性運動を揶揄する記事が週刊誌に掲載されるとき、編集部としては運動をしている女性たちがその記事を読むことはあまり想定しておらず、普段から週刊誌を買っている中高年男性を読者として想定しているだろう。また、「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターで問題視された行為は鍵付きアカウントで行われていた以上は「からかっていることが相手に伝わる」ことは想定されていなかったはずだ。週刊誌においてもネットにおいても、「からかい」は「からかわれる側」ではなく、自分と一緒になって相手を「からかう側」を向きながら行われている。通常の「からかい」は「からかう側」と「からかわれる側」がどちらも「身内」であるのに対して、メディアやネットにおける「からかい」では「からかわれる側」は「部外者」であったり異質な存在であったりするのであり、「からかわれる側」は「からかう側」の結束を高めたり親密性を確認したりするのに利用されている。

 なお、江原も指摘しているように、「からかう」ことには「相手の意見は真面目に取り上げるに値しない」というレッテルを貼るという効果があることもたしかだ。社会運動が揶揄の対象になりがちなのは、社会運動はマジョリティに対する(女性運動の場合は男性に対する)異議申し立てやマジョリティが有利になっている状況を変えることも含む具体的な要求を行ったりするものであり、マジョリティにとっては不利益を生じせるものであるし異議申し立てや要求に向き合うだけでもストレスを生じさせたりするものであるから、週刊誌などのメディアで社会運動が揶揄されることは「社会運動のメッセージをまじめに受け取ったり考えたりする必要はないのだ」という現状維持を支持してマジョリティを安心させる効果を生む。……運動を行なっている人にとっては、メディアで揶揄されることは怒りやストレスを生み出すが、おそらく、「運動をしている人を怒らせること」自体はメディアにおける揶揄の一次的な目的ではない。

 ネット上のコミュニケーション様式としての「からかい」については以前の記事で充分に書いたので詳しくは割愛するが、やはり、「からかっている」側同士の連帯を高めたり、自分たち(マジョリティ/男性など)に対する批判や提言について「こんなのは相手しなくていい」「自分たちに問題はないのだ」と確かめあったりするための行為であるように思える。あるいは、皮肉や揶揄を言うことに関連する能力(賢さとか攻撃性とか性格の悪さとか)を自分の仲間とか自分と同じ属性を持った人にアピールして自分のステータスを高める、といった側面もあるかもしれない。いずれにせよ、たとえばTwitter上での「からかい」は、からかわれている本人に通知が行く引用RTの形式などで行われたとしても、からかいの対象となる相手を怒らせたり精神的なストレスを与えたりすることを目的とする以上に、それを目にする「仲間たち」に向けて行われているという面が強いだろう。

 

…「からかわれた」側は、いかにその「からかい」に対し怒りを感じようとも、怒りを回路づけることに困難を覚えざるをえない。このため、「からかわれた」側の怒りは屈折し内にこもることになる。「からかい」への抗議が出会うと予想される様々な困難を思うだけで、抗議への意欲は薄れがちである。したがって最良の策は「からかい」を全く無視することだとさとるのである。

この意味で、「からかわれる」ことは非難されたり攻撃された場合よりも、「からかわれる」側の骨身にしみることがある。信念や思想に対する非難や攻撃は、逆にそれらを強めることが多いが、「からかい」は怒りを回路づけえぬゆえに、一人相撲を取っているような虚しさを引き起こすのである。「からかい」の構造にまきこまれた者は、「からかい」の呪縛にとらわれてしまうのだ。それを解くことは、あたかもぬかるみの中に足をとられてあがくがごとくである。

 

(p.255)

 

 おそらく、「からかい」に対して怒ったり批判したりすることが「一人相撲を取っているような虚しさ」を引き起こすのは、「からかう」側は最初から「からかわれている」側を相手にしようとしていないこと……「からかう側」は自分たちを安心させたりすることや自分たちの結束を固めることを目的にしており、「からかわれる側」はそれらの目的のために利用されたりダシにされたりしているだけであり、「からかう側」は「からかわれる側」(の思想とか人格とか心情とか)に対して根本的には無関心である、というところに由来していると思う。そして、相手に対して無関心であるぶん、「こいつを傷付けてやろう」とか「こいつの名誉を毀損してやろう」という意図を持った侮辱や悪口などよりもさらに悪質な側面が「からかい」という行為にはあるように思える。

 

『増補 女性解放という思想』に収録されている他の文章についても簡単に感想を記録しておくと、基本的にどの文章も1970年代〜1980年台の女性解放運動やウーマンリブ運動などに関する問題意識ありきのものなので、当時と現代では状況が違いすぎて意図や意義が伝わらない文章も多い。

 たとえば理論的な論考である「「差別の論理」とその批判」は著者自身が認めているように問題意識のあまりに力みすぎていて、議論が空回りしているように感じられた。    

 一方で、「リブ運動の軌跡」や「ウーマンリブとは何だったのか」のように当時の状況や運動の経緯・動機に関する記録的な文章のほうが、理論的な論考よりもむしろ現代でも読む価値を感じられる内容であったように思える(たとえばリブ運動の「文体」とか「語り口」に関する議論は、良くも悪くも、現代のトーン・ポリシングの問題などを考えるうえでも応用が効くものであるかもしれない)。

*1:社会運動……とくに女性やフェミニズムが関わる運動や動物の権利運動や環境保護運動などが揶揄の対象にされやすいというのは1970年代のさらに以前から、どこの国でも存在する問題だ。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

日本語圏では以前から、ツイッターを中心にSNSやブログにおいて、性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式が見られました。たとえば性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄するのはその典型です。今回明らかになった呉座氏の発言も、大なり小なりそうしたコミュニケーション様式の影響を受けていたと考えられます。そこでは、差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しくなります。これにより、差別的な言動へのハードルが極めて低くなってしまうという特徴があるのです。

要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。

女性差別的な文化を脱するために」オープンレターのこの辺りの文章は、明らかに「からかいの政治学」を念頭にして書いた文章だと思われる。