道徳的動物日記

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若者はなぜネオリベ化するのか?

 

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 

 

 

 突然だが、現代の若者はネオリベ化している。
 この主張に特に根拠はなく、統計的データなども示せないが、自分と同世代(30歳前後)からその下の年齢の若者たち(20代)と喋っていると「ネオリベ的な発想を持っているなあ」「自己責任論的な考え方をするものだなあ」と思わされてしまうことが多い。特にここ数年は、以前よりもその傾向が強く感じられる(ただし、これは、私が京都から東京に引っ越したことによる観測範囲の変化も影響しているかもしれない。地方から上京しており、自分で家賃などを稼いでサバイブしなければならない人が多い東京では、競争的で自己責任論的な考え方をする人の数は地方より増えるものだろう)。

 

「若者がネオリベ化している」という主張の根拠を示せないとはいえ、「なぜ若者がネオリベ化しているか」という理由については、私なりに若者たちの観察をしながら、いくつかの仮説を考えてきた。この記事では、ざっと私の考察を示してみよう。

 

ネオリベ的発想や自己責任論的発想は、個人単位では適応的である

  日本はいちおう近代国家であり、憲法上は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」である生存権や労働基本権など、社会権が定められているはずである。そのため、「人間らしく生きさせろ」と国や自治体に対してデモを通じて要求することや、労働条件を改善することを雇用主に要求したり要求が認められなければストを行うことも、憲法的には認められているはずだ。
 ただし、現実には、デモやストなどを行っても国や雇用主に要求が通じるとは限らない。というか、多くの事例では、デモによる主張が国や自治体に受け入れられることはない。ストについても、そもそも労働者同士で団結してストを実現するという展望に現実感を抱けない人は多いだろう。労働組合そのものにもやたらと悪いイメージがついているのが現状だ。

「デモやストなどによって環境を変える」という選択肢は「自分ひとりの能力や努力に頼ることができず、一定数以上の人数で連帯して行わなければ実行できない」「実行したとしても、成果が出るかどうかは不確定である」という二点がネックとなる。
 一方で、「環境を変えるのではなく、努力や研鑽によって自分自身を変える」という選択肢をとれば、他人に左右されることもなくなる。努力や研鑽は、方向性を間違えずあまりに運が悪くなければ一定以上は成果が出るものであるため、環境を変えるという選択肢に比べて確実性も高い。つまり、環境よりも自分を変えようとすることの方が分の良い賭けになる、ということだ。
 実際、個人単位で見れば、「環境を変えよう」という選択を取る人よりも「自分自身を変えよう」という選択を取る人の方が、成功に近いだろう。安っぽい自己啓発にありがちな「人を変えることはできないが、自分を変えることはできる」というセリフも、現実的なアドバイスとしては確かに有益なのだ。
 問題なのは、個人単位では適応的な選択も、大多数の人がその選択をすると全体の状況が悪くなるということだ(経済学でいう「合成の誤謬」的な状況である)。みんなが環境を変えることを諦めて自己向上だけにリソースを向けてしまうと、環境はどんどん悪くなる。環境が悪くなれば悪くなるほど、環境に対処するための自己向上に求められるリソースも増えていく。結果として、生半可な努力では環境につぶされたり、少し風向きが悪くなったり不運な出来事が起こるだけでそれまでの努力が水の泡になる可能性も高くなる。
…とはいえ、環境が悪くなれば悪くなるほど、環境を改善することに必要なリソースもさらに増えてしまう。「自分を変える」という選択の分が悪くなっていても、「環境を変える」という選択の分がさらに悪くなっているなら、前者を選択することがいまだに合理的だ。その選択のために、全体的な状況はよりいっそう悪くなっていくわけなのだが。

 

ネオリベ的な発想や自己責任論的な発想は、先天的な道徳心理に基づく自然な発想である

  道徳心理学者のジョナサン・ハイトは著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで「道徳基盤説(モラル・ファウンデーション説)」を唱えている。人間には6つの軸について「これは道徳に関する問題だ」と反応する機能が生まれつき備わっている、ただしどの軸にどれだけ反応するかは人それぞれに違いがある、という理論だ。

 その軸とは<ケアと危害><公正と不正><忠誠と裏切り><権威と転覆><神聖と堕落>、そして<自由と抑圧>である。保守やリベラルなど政治的志向の違いも、これらの6つの軸のうちどれを重要視するかの違いである、とハイトは主張する。

 ハイトが「道徳基盤説」を主張し始めた当初は、彼は5つの軸しか提示していなかった。だが、ハイトの説を読んだリバタリアンの読者たちが「自分たちの道徳観が道徳基盤説には反映されていない」と抗議した結果、ハイトは6つ目の軸として<自由と抑圧>を加えたのだ。
 つまり、「人には自由が認められるべきであり、外部の力で人の自由が制限されたり抑圧されたりすることは不道徳だ」という発想は、先天的で自然なものである。そして、自発的な経済活動を道徳的に称賛して、経済活動を制限したりその成果をかすめ取る国家や税金(ひいては、その税金で国家が運営する社会福祉など)を非道徳的なものとして批判するリバタリアン的な発想は、<自由と抑圧>の軸の反応を敷衍したものである。
 ハイトが論じるように、保守主義的な社会観やリベラリズム的な社会観にも、生来的な道徳反応を敷衍している面がある。しかし、「伝統を尊重せよ」という保守主義の主張や「再分配を重視して、弱者にも社会保障の恩恵にあずからせる」などのリベラリズム的な国家観は、それについて理解して納得するためにはある程度以上の思考の営みが必要とされる。「伝統を尊重しろと言われるが、伝統は"なぜ"大切なんだろう」という疑問は子供でも浮かぶだろうし、リベラリズム的な国家観に納得するためには天賦人権説とか社会契約説とか社会権の発達の歴史など諸々の知識や理屈を知っておかなければならない。…元々は直感的な道徳に由来する社会観であっても、正当化までの間に思考や理論が介在すると、直感的な説得力や正当感は薄れてしまう。
 保守やリベラルに比べて、リバタリアニズム的な社会観はより直感的だ。誰だって自分の自由は大切だし、税金を取られたり国や社会から束縛や制限をかけられるのは嫌なものだ。他人が自由に行動したり努力してお金を稼ぐことについても、わざわざ批判する人間は少ない。つまり、リバタリアニズム的な社会観はほとんど直感そのままで肯定できるのだ。むしろ、リバタリアニズム的な社会観を否定することの方が、自由の行き過ぎや競争の弊害を説いたりする必要が生じるため、反直感的な営みであるのだ。
 自己責任論的発想についても同様のことがいえるだろう。人々の心理に備わっている「公正世界仮説」の弊害は多くの人が説いているが、「誰かが成功することはその人の努力が報われたからであり、誰かが落ちぶれるのはその人が努力をしなかったからである」というタイプの考え方の直感的な説得力は、いまだに根強い。運という要素の影響力の強さや、「責任」という概念の曖昧さを理解しようとすることは、やはり、反直感的な営みなのだ。

 

・成功者たちはネオリベ的発想や自己責任論的発想のロールモデルとなる

 よく言われることだが、人間は自分の成功の原因は自分の努力などの内的要因であると考えがちだし、自分の失敗の原因は環境や運などの外的要因であると考えがちだ。
 現代では、本屋を歩けば会社の経営者が出版するビジネス書や自伝が棚に積まれているし、テレビを付ければ芸能人が自分語りしている。ネットを点けても、ユーチューバーなどのインフルエンサーが動画やSNSで自己アピールに汲々している。そして、落伍者や人生に失敗した人が自分の人生がダメになった理由をわざわざ語ることは少ない。つまり、現代は「成功者の自己認識」を過剰摂取させられている時代といえるのだ。

 ほとんどの成功者は、自分の成功の理由として環境や運に言及することは少なく、「自分はいかにして努力したか」ということを強調するだろう。昔は精神論が多かったのが、現代では「効率的な努力のテクニック」が重視される、などの違いはあるかもしれないが。そして、成功者のなかには、モラルを気にしない弱肉強食的な世界観を平然とひけらかす人が多い。
 成功者たちの姿を見たり自己語りを聞いたりすればするほど、自分も努力して成功者の仲間入りをしよう、という気持ちが湧いてくるものだろう。
 この裏返しは、綺麗事であったり優しいことを言ってはいるが大して成功しておらずぱっとしない人に憧れる人はそうそういない、ということだ。実際、若者たちが憧れるようなリベラル派の芸能人やユーチューバーなんてそうそういないのではないだろうか(経営者に関して言うと、そもそも日本にリベラルな経営者なんて数えるほどしかいない、という問題がある)。

 ・ネオリベ的発想はクールでスマートに聞こえる

  上述してきた議論はネオリベ的発想や自己責任論的発想は「努力」を重視するものである、ということを強調してきた。しかし、口ではネオリベや自己責任論っぽいことを言っているのに本人自身はさっぱり努力をしない、という若者もごまんといる。というか、私が実際に会って話すのはこちらのタイプの方が多い。

 現代社会の特徴は、クールさやスマートさがやたらと求められていることだ。社会問題にしても、地道な運動や規範論は嫌がって敬遠するが、小手先のテクニックによる解決法が提示されると飛びつく、という人は多い。会社経営や組織運営の問題にしても、過去から継続して行われる地道な努力に目を向けるのではなく、したり顔の部外者がいきなりやってきて「第三の方法」なり「抜本的な解決策」を唱えるタイプのストーリーの方がウケがいい世の中だ。

 自民党を支持する若者については「肉屋を支持する豚」という揶揄が向けられることがあるし、揶揄の良し悪しはともかく、若者が自民党を支持することは現実からも目を逸らした自滅的な選択であるとは私も思う。しかし、グローバル化の時代に逆行した主張を唱える保守や絵空事に聞こえる理想論を唱えるリベラルに比べて、ネオリベや自己責任論の主張の方が「現実的っぽい」のは確かだ。つまり、保守やリベラルに比べてネオリベは賢そうに聞こえるのである。

 さらに言うと、企業の経営者たちが行う冷酷な判断や労働者に対する企業の横暴などについても、その非倫理性を批判するという行為はいかにも弱者の泣き言っぽくて、ダサい。一方で、「経営的合理性の観点から考えたら間違っていない」などとしたり顔で擁護する方が、クールでスマートに聞こえるだろう。

 かなりうがった見方だが、ネオリベっぽいことを語ったり自己責任論っぽいことを語ったりすることで抱ける「自分は世の中の仕組みを理解して現実を直視しているんだ」という有能感みたいなものが、若者たちがそのような主張を口に出したり投票行為などに反映してしまう動機の大きな部分を占めている可能性はあるかもしれない。

 

 …と、ここまで書いて気が付いたが、上記の仮説で指摘している要素はいずれも特に現代にだけ限られるものではなく、いずれの時代にも当てはまりそうなものだ。また、若者に限らずどの年代に対しても当てはまることかもしれない。しかし、時代はともかく、いまの日本ではどの年齢層も多かれ少なかれネオリベっぽくなっているのだから、やっぱり私の仮説にも的を得ているところがあるかもしれない。