道徳的動物日記

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責任否定論に現実味がない理由(読書メモ:『考えるあなたのための倫理入門』)

 

 

 

 この本は返却期限の問題から3章の「権利」と5章の「自由、責任、決定論」しか読めていない。前者の議論はいろいろと納得ができなかったが、後者にはピーター・ストローソンの講演「自由と怒り」に基づくおもしろい議論が含まれていたので、やや長くなるがメモとして引用しておく*1

 

…われわれは、責任をもって行為し、意図的に選択できる存在として人々に接することができる。そして、彼らに対するわれわれの自発的な態度は、われわれがそうしていることを含意している。具体的な事例については、彼らの行為が事故であったり、無理もない間違いであったりした場合や、子どもであるとか老年性認知症により責任を負うことができないと判断した場合に、われわれは彼らの責任を免じることができる。即時的で個人的な反応的態度は、より一般的ないし道徳的な態度と結びついており、両者は同情心を通じて結びついている。われわれの個人的な怒りは同情心を通じて花開き、自分自身を超えて他人に広がるのである。

責任を負うことのできる人々に対するわれわれの感情(怒りや道徳的不承認だけでなく、感謝や愛情や賞賛なども含む)やわれわれに対する彼らの態度は、われわれの生にとって特に重要である。問題は、他の人間とともに生きる人間として、われわれがこれらの態度や反応を除外して生きることを考えられるかどうかである。すでに述べたように、人々をさまざまな理由で責任の適用外にすることは明らかに可能である。なぜなら、そのような人々は責任を問うことができない人々だからである。しかしこのように〔責任の〕適用外とすることは、彼らを道徳感情の世界から、人間以外の動物と同じように排除することである。われわれが十全な仕方でやりとりすることのできない人なのである。すると問題は、われわれがあらゆる人をそのように扱うことができるのかということである。そして、例えばあらゆる人のあらゆる行動は脳の物理的構造を支配している法則によって予見可能であるという理論に従って、あらゆる人をそう扱わなくてはならないと納得してしまうことがあり得るのだろうか。

私は、そのようなことは、人間である以上明らかにあり得ないと思う。同胞のことを他の事物と違わないもの、ただ利用したり、避けたり、操ったり、果てには処分したりする対象と見なす人間もいるだろう。しかしわれわれはふつう、そのような人間は人間的な感情や道徳感覚をまったく欠落している精神病質者と考える。精神病質者は、十全な人間として扱うことのできない者に数え入れる。つまり、われわれはそのような人間とまともにやりとりをすることはできないし、彼らもまたわれわれとまともにやりとりすることができない。したがって、彼らは適用外の範疇に入る。しかしあらゆる人とそのように接することは論理的に不可能である。精神病質は異常なのであり、あらゆる人がこの状態にあることはあり得ない。

自分ではやればできると思っていることを、他人にできないと思われていると知ると、われわれは困惑する。サルトルは、またしても遅刻してきた遅刻の常習者が上司に、間に合うはずだったし、間に合ったはずなのだけれども、今朝だけは車のエンジンがかからなかったので、明日は遅刻しないと言い訳をしているエピソードを紹介している。上司は「そうかもね。君の言っていることを信じるべきだろうね」と言う。この上司はこの部下のことをただ、きちんと作動するかどうか心許ない機械のような、帰納的推論の対象として見ている。この機械が自然にうまく動くようになる可能性は完全にゼロではないが、われわれは過去の経験からその信頼度を図るのである。このような場合、約束には意味がない。われわれはこの機械のようにもの扱いされると、自分ではそれでも自由だと考えているものの、世界における身分が変わる。われわれは非-人間(inhuman)になるのである。

(p.128 - 130)

 

 原著の出版は1998年ということもあり、いまじゃなかなか見かけることもないような「健常者中心主義」的な議論であるかもしれない。とはいえ、上記の文章は、自由意志やそれに基づく責任を否定する議論が一見すると説得力があるし厳密に論破することは難しくても、現実の世界…つまり、論文とか学会とかSF小説の中でなされる議論、あるいは大学の部室やSNSやガキの飲み会の中でなされる放言などの外側にある、まともで成熟した人々たちが暮らして働いて生きている社会や家庭など…では相手にされることなく影響力を持つこともできない理由を、よく表現できているように思える。

 責任否定論を採用しようとすると協働は成立しなくなるし、情操を伴う関係を他人と築くこともできなくなる。そのような状況のなかで生きていたいと本気で思える人はいないということだ。

*1:ストローソンの議論は『そうしないことはありえたか?:自由論入門』でも紹介されていたが、ウォーノックによる紹介のほうがずっと意義がわかりやすいと思った。

davitrice.hatenadiary.jp